2019年04月02日

日本的慣習の今日的意味についての考察

今日の新聞を見ると、端から端まで元号の記事ばかり。ゲンナリである。ひとつだけ興味を持ったのが4面のわずか11行極小記事「原則西暦表記 外務省が検討」で「外務省が元号を使った和暦の使用を原則的にやめ、西暦を使う方向で検討していることが1日、わかった。これまで外交交渉で西暦を使用する一方、省内の文書は西暦と和暦が混在していたため、読み替えが煩雑で間違う恐れもあった」(全文引用)というもの。個人的には「令」は「命令」を感じさせ、その字の成り立ちも主の前にひざまづく臣民を象形化したといった解説をどこかで見たし、「和」には「調子を合わせる」「集団がまとまっている状態」などの意味があるようなので、なにやら「みんなでまとまって命令に従順に従う」の意を感じて気持ち悪く、非常に馴染めないものを感じた。関連で「和して同ぜず」という言葉を思い出す。論語にあるそうで「人と仲よく交際はしても、おもねって自説を曲げるようなことはしない」という意味だとか。良い言葉だと思う。「仲良く付き合います。しかし、自分を曲げてまで付き合うことはしませんよ」という心意気は好きだ。うーん、かなり妥協的になる傾向はあると自認するが、おおむねそんな感じで日常をやり過ごしているといえるかな。
カレル・ヴァン・ウォルフレンの『日本権力構造の謎』に、以下のような一節があるという。「この態度(日本にある強い自己改善志向という)の特徴は、物事をなすのに、“完璧な”やり方があるという観念だ。技能、特に民族音楽、伝統的な舞台芸術、柔道、合気道、空手を習う際、重点が置かれるのは、師匠のすることを、自動的に、どこまでも、考えをはさまず真似ることだ」「外国人の指揮者や音楽の教師はほぼ一致して、日本の演奏者は技巧面で優れているが、自己表現の能力が相対的に欠けていると言う。これは、部分的には、慣習順応社会の中にいるので勇気を欠くためであり、また留学の経験がない音楽家は、自分で音楽を解釈しなければならないということをめったに教えられないからだ」(引用終わり)。引用といっても、元の引用者が書いたものを引用しただけなので、正確かどうか自信がない。でも、これは重要な言葉なのであえて引用させてもらった。あとで調べてちゃんと確認したい。ともあれ、これに似た例を、たしかに随所で見かけることに気づくのである。チャンバラ時代劇を見て頻繁に出てくるのが、剣の達人が刃を数合交えてそのあとで曰く。「何とか流の使い手だ。〇〇藩の指南役が何とかというやつで、たぶんいまのやつも〇〇藩のものだろう」なんとかかんとか。本物の剣の達人は、それゆえ出自を気づかれないようにするためか、それとも相手の出方に応じた剣さばきで敵と向き合うためか、幾つもの流派の剣さばきを習得する。で、ときどき出てくる超自己流の使い手と向き合うと、通常の武士はたちまち混乱してしまい、不覚をとることもある。先に引用したウォルフレンでは「日本の習得法では、技能や武芸は、絶対的服従を要求する、権威的で前もって決められた存在であるというわけだ。本人の個人的な才能や好みにあった独特の表現を認める余地はない」との指摘もあるという。なるほど、武家社会ではやっとうの技術も絶対服従を習得するためにあるものだったというわけか。たしかにそんな気がする。時代劇を見ていると、様式美が語られていると感じることが多い。しかもその描き方が画面の向こうから茶の間に向けて、じわり忍び寄ってくるのに気づかされる。
武家社会の哀感、町人文化に内在する独特の規律のようなもの。よくみればはみ出すことを許さない空気の存在。村落の在りようを考えると、大きな集落が構えられていることはほぼなく、のどかな田園風景の中にポツポツと散在する、孤立した家々の関係がある。分断し支配する関係が、脈々と続けられてきたといえるのかもしれない、などと空想を逞しくする。この日本的伝統を変えなければ、すべて過去を引きずったまま未来へ続いていくしかないのかと、暗澹たる気持ちになる。新年号の発表を受け止める街の雰囲気を新聞で読んで、「なんでこんなことに冷ややかになれないの?」と不思議に思ったことからの勝手な考察。根強いものだなあ、などと・・・。
posted by ガンコジージ at 09:48| Comment(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする