2019年04月10日

意図せずに自分に仕掛ける自縛の罠

1面に「大熊町の避難指示解除 帰還困難区域除く 原発立地自治体で初」がある。放射線量の目安はガンマ線だろう。ベータ線、アルファ線核種は存在しないか。国や県は多様な放射性物質について継続的に測り、公表しているか。「解除対象は町西側の大川原地区と中屋敷地区。町面積の約4%、138世帯67人(3月末現在)が住民登録している」「町は解除後、帰還住民約500人と、東電社員ら新住民約900人を同地区に呼び込む計画を描く」「現在も町民約1万人が避難しているが、町内の居住地区の多くは今回の解除対象ではなく、大半の人々の避難生活は続く」「帰還困難区域となっている町中心部は特定復興再生拠点として除染や整備を進めており、22年春の避難指示解除を目指す」「県の11市町村に出された避難指示が全域で残るのは、第一原発がある双葉町のみとなった」(本文引用)
4%を解除する。残り96%がまだ帰還困難という。4%に帰還する人たちは、96%の帰還困難区域を目のあたりにして暮らす。すぐ地続きのところに危険な区域がある。それはつらいことだろう。しかし、つらくても戻る。そこに、遠くから眺めるだけの立場にあるわたしたちの立場を浮き上がらせる、ある種の闇が仄見える。おそらくだれもそんな危険と隣り合わせの場所へ急いで帰る気になどならない。にも関わらず帰還する。ブログ主的に最も切実に感じるのは、放射能の危険と向き合って生きることよりずっと厳しく困難な状況が、安全な外側にあるという冷たい事実だ。ブログ主個人で言うなら、差別というものの厳しさを現実の中で感じるほどに、「戻るも地獄、残るも地獄」の感覚がいや増していかざるを得ない。そして、「安全な外側にある困難な状況」の「生きる実感を失わせる冷たい空気」を甘受するより、「放射能」と向き合う道を選ぶかもしれない。
放射能から逃れて暮らす。そのとき差別のちまたにひっそりと身を縮めて生きるか、たったひとりでもいい、胸を張って声を上げて立つか。それは人それぞれの選択で、精神的に追い詰められた人々にまで直線的に求められるあり方ではない。第1義的に、支える側の有りようが問われる。映画「種まきうさぎ」で女子大生が「わたしはどこにいても福島と向き合っている」と、観客に背を向けて決然と画面の向こうへ歩み去る姿を、「安全なこちら側」にいて画面を覗き見ていた観客たるわたしたちはどう受け止めたか。「食べて応援みたいでイヤな映画」的な受け止め方をしなかったか。その受け止め方の奥に、差別する世間を容認する自分の姿勢を感じなかったか。国や地方が人間の復興を考えずに、事故前にあった人間を入れる箱を整備し、「入れ物ができたから帰還せよ」とすることに反発し、自分たちが存在する場所の差別構造を無意識に除外する。避難者の意識を「戻るも地獄、残るも地獄」の無限ループに孤立させてしまう無意識の包囲の一員となる。いままで触れずにいた問題が浮き上がる。
15面「多事奏論」に「沖縄の嘆き 民主主義 回ってきとらん」がある。直木賞作品「宝島」で主人公が語る。「おれは最近、思うんだよな。ほんとうに目の敵にしなきゃならんのはアメリカーよりも日本人じゃないかって。(略)この島の人権や民主制はまがいものさ。本物のそれらはもうずっと、本土のやつらが独り占めにしてこっちまで回ってきとらん」(本文引用)。他にも重要な言葉があるが、これで十分に足りる。どうもこの国の民(というと「ブログ主自身が入っているのか?」と自問してしまうが、当然入っているといわばならない)は、民主主義が侵害されると、自分のところまで来ないうちに「小さく縮こまって」自己防衛のガードを固め始める習性があるのではないか。ガードが固まった内部に残されたものは幸いなるかな。その外へ自動的に追いやられたものは、矛盾を一身に背負わされ、塗炭の苦しみを味わうことになる。ガードの内部に生きる者は、この塗炭の苦しみに寄り添うことで、自分も苦しむ可能性を恐れて、自分の立ち位置を微妙にずらす。これを国や地方は敏感に察知して巧みに利用する。「自分は差別していない」とは、意図せずに自分に仕掛ける自縛の罠・・・。
posted by ガンコジージ at 11:28| Comment(0) | 原発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする