2010年01月06日

心がゆっくり折れ曲がること

「人間魚雷出撃す」というのをCSで見た記憶がある。56年の映画で石原裕次郎主演であった。
回天特攻隊員が自分の搭乗する魚雷の故障で出撃できなかったり、出撃許可がなかなか下りないため悩む。出撃準備にはいり、死を覚悟したのち、何度となく中止になる日々。
気持ちを維持できなくなり、「出撃させてください」と艦長に頼む。死を覚悟して死刑台へ昇り、何度も中止されることの過酷さを描いているようだった。
それだけで精神が壊れてしまうだろうな、とジージは思った。早く決めてくれ、いっそのことさっぱりと死んだ方がマシだ、という気持ちになってしまうものかもしれないと思った。
死の重圧から解放されるために死を選ぶ不条理のなかに放り込まれた日常。それは、過酷を通り越している。そして、死して英霊として利用される悲運が重なる。遠い安全圏から彼らの死を英雄的自己犠牲と見立てる軍国のあさましさが見えてくる。

チェコ映画「マルシカの金曜日」というのがあった。72年の映画だから、かなり古い。少女が反ナチ活動で死刑宣告を受ける。執行日は金曜日とだけ告げられる。そして毎週金曜日に死を覚悟し、その一日が過ぎていくこと1年余。
毎週金曜日になると死を覚悟し、そのまま一日が過ぎていく。それが50回以上続くという過酷さ。そのように延々と死刑台の前に立たされ続けることそのものが刑罰なのであろう。
彼女はあるときから、「もしかしたら死刑はないのではないか」と、淡い希望を持ち始める。どうも、刑を言い渡した側は、このような心理が生まれることを期待していた節がある。その気持ちが生まれるのを待っていたかのように、本当の死の金曜日は突然やってくるのである。
これは、あまりにも意図的、あまりにも悪辣な残酷さとしか言いようがない。

何年か前、テレビで回天特攻のドラマを見た記憶がある。現代っ子がタイムスリップして戦争の真っ只中へ送られてしまう。結論を言うと、多少の葛藤はあったものの、反戦でも避戦でもなかった。最後にはやはり、死に直面したとき、その是非についての考察をいっぺんに飛び越えて、ひたすらいさぎよく死への道を選んでしまうのである。
裕次郎映画の方がじっくりと回天搭乗員の葛藤を描いていたぶん、まだしも彼らの心の奥底を垣間見ることができた、という感じがしたものだった。
深く葛藤することから気持ちを逸らしていってしまう。そのことによって表現がゆっくりゆっくり折れ曲がっていく。現代の深層を感じさせる、そのようなTVドラマであったのを、いま改めて感じるのである。
posted by ガンコジージ at 11:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメント失礼します。m(__)m
マルシカの金曜日の映画パンフレットなどをお持ちではないですかね?
Posted by YK at 2018年11月20日 12:29
すみません。持っておりません。
Posted by じーじ at 2018年11月27日 10:56
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