2010年08月06日

「トーラーの名において」 3/6

1948年時点におけるハンナ・アーレントの次の言葉が印象深い。
「たとえユダヤ人が戦争〔独立戦争(第一次中東戦争)〕に勝つことができたとしても(略)、今度はその「勝ち誇る」ユダヤ人たちが、敵対心をあらわにするアラブ人住民に取り囲まれ、絶えず脅かされた境界線の内側で孤立し、物理的自衛の必要に忙殺されることになってしまうであろう。(略)そして、それらすべてのことは(どれほどの移民を受け入れることができるか、とか、その境界線をどこまで拡大することができるか、といったこととは無関係に)、数において圧倒的で、かつ敵意に満ちた隣人たちの前で、依然、ごく小規模の民であり続ける一国民の運命となるであろう。(224頁)」
また一方で、ラブキン氏自身が次のようにも書いている。
「イスラエル国への支持は、政治のスペクトル分布でいうところの右派からやってくる。右派は、入植という事業の勇壮さや、アラブ人、イスラム教徒に対する妥協なき態度に価値を見出し、イスラエルの社会と経済の構造において社会主義の異物をことごとく解体に向かわせることを持ってよしとしている。加えて右派は、諸文明の衝突は不可避であるという見方を心情として保持しており、そしてこの衝突の原因を、彼ら自身の政治的、経済的欲求ではなく、もっぱらイスラム教徒の内在的本性に帰そうとする。(344頁)」
「民族=社会主義」(ナチズム=国家社会主義)の本質がここで両者によって語られている。また、現にナチズムの崩壊がベルリンを瓦礫の山にするまで止められなかったということが、歴史的事実としてある。ソ連崩壊とはまったく違った質が、そこにあるのを感じるのである。
それゆえか、ラブキン氏は同じ344頁で、次のように指摘している。
「ユダヤ教・反シオニストたちは、紛争をいつ果てるともなく長引かせているのはイスラエル国のシオニズム機構であると断言してやまない。昨今、イスラエルにおいてますます現実味を帯びているパレスティナ人住民の強制移住も、彼らの目からすれば、長期的に暴力の応酬を激化させることにしかつながらない。この点において、ますます強硬な路線を打ち出すシオニストたちと、手遅れにならないうちに国家を解体すべきであると主張するユダヤ教・反シオニストたちは、ひとつの共通見解を分かち合っている。つまり、両者とも、この中東の一郭がシオニスト国家の存在をその懐に受け入れることは断じてあるまいと観じている。そればかりか、両者とも、今、<イスラエルの地>において、ユダヤ人が集団殺戮の脅威に直面していることを認める点ではまったく見解を一にしているのだ。違いはただ、シオニストたちがこの殺戮を阻止するのは国家であると考えるのに対し、その敵対者たちの方では、ほかならぬ、その国家こそが、殺戮の脅威の紛う方なき責任主体であると見ている点だ。(334頁)」
イスラエルの地にシオニズムを持ち込んだのは、ロシアや東欧のシオニストであったとラブキン氏はいう。彼らは単一民族国家にアイデンティティーをもたせ、ユダヤ教を人々から遠ざけている、という。また、彼らがSLやボリシェビイキからその思想を学んだとも書く。
だがしかし、彼らが学んだのは人民社会主義ではなく、国家社会主義の思想であった。それゆえ、非常に残念なことに、彼らの国家は簡単には消滅せず、ラビたちや一般のイスラエル市民たちが実感として受け止めているように第3の流謫(るたく)はこれまでに見られないような苦難となるかもしれない、という危機感のほうが、当面は現実的な色彩を帯びていると見なければならない、とジージには思われたのである。(ジージ注:流謫=本書の語彙集では、ガルートの項で「<イスラエルの地>から外へ出ることを余儀なくされた状態。」と書いてある。)
食い止めるのは、やはり内部からの広範な立ち上がりと、それを世界がどれだけ真摯に受け止め、支援できるかにかかっている。次の(4)では、本書のエピローグから、その可能性を読み取ってみたい。
posted by ガンコジージ at 08:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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