2010年08月07日

「トーラーの名において」 4/6

エピローグの冒頭は、刺激的な描写ではじまる。ラブキン氏は、自爆テロにより多数の死者が出る現場に行きあわせるのである。それは凄まじい犠牲を伴うものであった。
そのことから、常に小さめに報じられるイスラエルの被害が、じつはそんなに簡単なものではないということがわかる。
とつぜんの死にさらされる日常が、いつもすぐそばにある。この緊張が、この恐怖が、イスラエル国に充満している。だとすれば、連続(1)で書いた女性の憎悪と悪罵は、その当否は別にして、あり得ない反応ではない、と認めざるを得ない。
(3)までで見たように、この緊張と恐怖と憎悪とがどれだけのエネルギーを人々から奪い去っていくか、それは考えるだに恐ろしいことといわねばならない。
そして、「実際、国際政治の場でイスラエルがますます孤立し、アメリカと、そのもっとも忠実ないくつかの衛星国からの支持しか取り付けることができなくなっている今日、『全世界がわれわれを目の敵にしている』という感情がイスラエル人のあいだに広く浸透しつつある。(210頁)」
「第2次インティファーダの開始(2000年9月)をもって、イスラエル社会は絶望の時期に突入した。イスラエルの軍事力をもってしても、住民に平和と安全をもたらすことは、もはや不可能であると感じられるようになったのだ。(211頁)」
だから、ラブキン氏は、ユダヤの民が直面している危機に、絶望とは違う道筋を、できるだけ明らかに示そうとしているのだと思う。ユダヤ教・反シオニズムの活動家たちは、まだ微力ではあれ、考えられるあらゆる方向への働きかけを、精力的に試みている。
彼らの働きかけは、パレスチナ人武装勢力を含む広範な対象に及んでいる。戸惑いながらも、共産主義者、社会主義者をはじめとするいわゆる左翼系活動家、労働組合活動家、などとも手を携えていこうとしている。
そしてもちろん、ユダヤの民への働きかけ、立ち上がりに全力を注ぐのである。
「他方には、『苦しみのどん底にあっても、権勢の絶頂にあっても、自分だけは無垢』と感じ、自分の身に起こることすべてについて他者の落ち度をあげつらうことに終始するユダヤ人がいる。(360頁)」「敬虔なユダヤ教徒たちは、まず自分の罪を認めることから始める。ユダヤ人(教徒)の身に起こったことすべてについて自分の責任を引き受け、そこから未来のための教訓を導き出そうとするのだ。(同頁)」
これらの動きはまだ始まったばかりである。しかし数々の有効な試みが見られる。そして彼らの意志は固い。以下に、ラビ、アイベッシュにまつわる逸話を抜粋する。
「多数決の規則が適用されるのは、あくまでも疑いがある場合、真実が未知のままである場合に限られる。逆に、疑いがなく、真実の所在がはっきりとわかっている場合、多数派の意見は一切影響力を持たない。われわれは、われわれの聖なるトーラーの正しさを確信しており、そこにわずかばかりの疑いも抱いていない。よって、われわれに抗する多数派も、われわれに影響をおよぼすことはまったくなく、われわれを本来の道から逸らせることはできない。(354頁)」
(3)の末尾で書いたように、「内部からの広範な立ち上がりと、それを世界がどれだけ真摯に受け止め、支援できるかにかかっている。」のではないか、と思う。
「苦しみのどん底にあっても、権勢の絶頂にあっても、自分だけは無垢」と感じて、自らに起こるすべての責任を他者に押し付けるものとは、誰に対しても当てはまりうる鋭い指摘であるといわねばならない。また一方で、6月17日「ユダヤ人を救うこと」で書いたジージのはなはだ素朴な思いに、現実感を与えられたような気がしてならないのである。
posted by ガンコジージ at 07:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック