2010年08月08日

「トーラーの名において」 5/6

ジージ的に学ばせてもらったこと。
“イスラエル国が崩壊してもユダヤ人がユダヤ人であることは揺るがない。端的に言うならば、ユダヤ人のアイデンティティーはたかだか数十年の歴史しかないイスラエル国にあるのではなく、数千年にわたってイスラエルの民をひとつに保ってきたユダヤ教にこそある。シオニズムはイスラエルを国家として捉え、ユダヤ人のアイデンティティーの中心に据えるが、本来のイスラエルの意味は、土地に対する執着や民族的アイデンティティーとは無縁のものであった。”と本書は語る。
ジージ的に解釈したのは、神の国を自らの内部に打ち立てて自由を得る。国家は仮の場所であり、それに執着せず逆らわず、あくまで聖なる信徒集団として、敬虔なユダヤ教徒として、最後の審判の時を待つ。執着し、トーラーに背けば、過去の2度にわたる流謫に勝る苦難を味うことになるだろう、といった意味のことが本書の主旨のようだ。
非常に宗教的な記述が多く、ジージ自身が生齧りでいた旧約聖書におけるユダヤ人の苦難の数々が、読み進むうちに、文字通りの苦難であると同時に、たぶんに宗教的色彩に昇華された苦難というべきかもしれない、などと思うようにもなったのであった。
ただキリスト教を中心に、周辺の理解がいつのまにか混乱を来し、彼らの苦難を世俗的な意味に貶めたことはありえないか、と思ったりする。それが西欧東欧のキリスト教社会を排他的行為に駆り立て、ユダヤ人をいっそうの苦難に陥れたのではないか(これは宗教生齧り居士のジージの中では、いまのところまだ必ずしも明確な根拠を持っていないのであるが・・・。)
ラビたちの大多数が1940年代なかば、パレスティナの未来に関する議論喧しい中、「聖なるトーラーは、われわれが、メシアが到来するまで流謫の境遇を生き、政治に対していかなる関心も寄せてはならないと教えている。そして、この教えは、われらがアラブの隣人たちにとっても不都合な点をまったく含んでいないのだ。われわれが流謫の境遇にあるあいだ、われわれの望みはもっぱら創造主の戒律に従って生きることのみである。」と主張したという。
一方、ラブキン氏自身が感じているように、ハレーディすなわち伝統的なユダヤ教を実践する人々が本来、超=保守の名にも値する人々であることは、本書でも指摘されており、345頁を読むと、彼らが反シオニズムの行動において左翼系の活動家や知識人とたまたま同じ陣営に居合わせることに、戸惑っている様子さえみてとれる。
それでも彼らが、彼らにとって本来対立物となるはずのものたちともあえて共同歩調をとり、シオニズムに果敢に反対の意志を表明して向かっていくのは、すでに事態がポストシオニズムを現実的課題に想定する時期にきていることを、彼らが肌身にひしひしと感じているからだと思われる。
連続の(1)で見たイスラエル人女性の禍々しいまでの表情は、解決への道筋をなにに求めるかの違いはあれ、危機意識がその底部において互いに共通していることの証しともとれる。
本書では、ある意味不思議なことに、キリスト教シオニズムについての記述は全部あわせても数行にしかならない。だがしかし、本書以外のさまざまなところでラブキン氏が展開する文章を読むと、彼が敵対物の構造について持っている認識の基本的正しさを認めざるを得ない。たしかに、キリスト教シオニズムは危険な存在になっている、と思う。
全世界を覆い尽くすように、人類を徹底的な破滅に導く試みが、いままさにイスラエルを中心軸に据えながら進みつつあることを、いかに鈍いジージといえども実感せざるをえない。危機はすぐそこに迫ってきている。そして、解決の道筋はまだ細い糸でしかないにしても、少しずつ紡がれ始めていることも、本書から見て取ることができる、と思われるのである。
posted by ガンコジージ at 08:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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