2010年08月27日

芥川賞「乙女の密告」 その1

今回はメモも取らずに読んだので、ほとんど直感的な印象にとどめられる。また、本作を読んだばかりで、選者の選評は読んでいない状態での書き込みになる。
この作品を読む前に、「トーラーの名において」という本を読んでいた。これはまったくの偶然であったのだが、この本を読んでいたおかげで、作者赤染晶子氏が「乙女の密告」で意図していた部分の判りにくさをくぐりぬけ、かろうじてその向こう側を(ほんのわずかだが)覗き見ることができたように思った。
この作品はアンネ・フランクのユダヤ人としてのアイデンティティーの模索を軸に、乙女たちのアイデンティティー、さらには現代日本に生きるものたちのアイデンティティーをさぐるかなり意図的な作品であった、とジージには思えた。
その問い方はかなり独特なものであった。「乙女たち」というあやふやで、もろい概念のなかに集うものたちの実体のなさ。それを唯一絶対のものとして周囲のすべてを囲い込もうとする暗黙の圧力を少女漫画的な手法で展開してみせる。
よく読めば、その方法はまず最初に思考ありきで、思考にあわせて特性を持たせた人物群を配置しているように見受けられる。悪くいえばパターン的になりがちなところを、戯画化の手法で包んで新鮮味を持たせ、定型化を免れたということもできそうである。
ともあれ、この作品が提示するアイデンティティーについての問いかけは、もしかしたら作品が展開したその先がまだあるかもしれないと思わせる、奥深さを持っている。まず、ユダヤ人について「トーラーの名において」で展開されている見方をジージ的に要約した文章を、8月8日の本ブログ「トーラーの名において 5/6」から引用してみよう。
「イスラエル国が崩壊してもユダヤ人がユダヤ人であることは揺るがない。端的に言うならば、ユダヤ人のアイデンティティーはたかだか数十年の歴史しかないイスラエル国にあるのではなく、数千年にわたってイスラエルの民をひとつに保ってきたユダヤ教にこそある。シオニズムはイスラエルを国家として捉え、ユダヤ人のアイデンティティーの中心に据えるが、本来のイスラエルの意味は、土地に対する執着や民族的アイデンティティーとは無縁のものであった。」(以上、ジージの要約)
つまり「トーラー」は、「国家」をユダヤ人の存在根拠の中心に据えない捉え方があること。「(ユダヤ人のアイデンティティーは)土地に対する執着や民族的アイデンティティーとは無縁のもの」であるとする捉え方が、シオニズムの対極にあることを説く。
そのことを念頭において「乙女の密告」を見ると、まず関わってくるのが、主人公みか子の「つまずき」である。みか子は「アンネの日記」の朗読で最後のいちばん大事な一節をどうしても忘れてしまう。「いま、ワタシがいちばんのぞむ事は、戦争が終わったらオランダ人になることです!」
この部分でつまずくことの意味は、じつはこの作品の質を決するという意味で、とても大きなものである。それは、最後に麗子様が消えることや、貴代が自分の名前を取り戻すことにもつながり、その結論として、「わたしは密告します。アンネ・フランクを密告します」という言葉にもつながっていく。
アンネを密告したのは乙女自身であったということ。それは、個のアイデンティティーを模索する切実な旅の結論を意味していた。

               いつとも知れない明日へつづく
posted by ガンコジージ at 10:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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