2010年08月28日

芥川賞「乙女の密告」 その2

アンネはオランダのある町の隠れ家にいた。そこはどこでもない場所、オランダでもドイツでもイスラエルでもない場所だった。そこに隠れながら、アンネは自分を問い続けた。その問いかけの結論を、みか子が自らのジレンマにおいて解明するのが「アンネ・フランクはユダヤ人です」という言葉であった。
オランダでもドイツでもイスラエルでもない隠れ家に住み、最後に辿りついたのは、わたしはユダヤ人です、わたしはユダヤ人のアンネ・フランクです、ということだった。
それは「今、わたしが一番望むことは、戦争が終わったらオランダ人になることです!」とのあいだにいっけん矛盾を抱えているように感じられる。だがそこに、「トーラーの名において」に書かれているユダヤ人のとらえ方が、ひとつの筋道を与える(・・・ジージはそのように考える)のである。
どこでもない居場所(隠れ家)で反問を繰り返しながら、彼女(そして「乙女」みか子)は自分が自分であるのは、ユダヤ人(自分の名前)以外ではありえない、と知った。そして、自分の存在を他者によって定義されるのではなく、自らによって定義する、ほかのなにものでもない自分自身という存在に昇華したのである。
彼女はユダヤ人であることを否定しようとしたのではない。国家への帰属を否定したのである。どこでもいい、好きな国で生きる。しかもわたしがユダヤ人であることは不変である、ということ。
密告? それを密告と捉えるのは、自らのアイデンティティーの置き方を他者の基準にゆだねたものの勝手な解釈である。彼女は胸を張って、自分自身の意志で、ユダヤ人(わたし自身)であることを選んだ。
その選び方のなかに、国家としてのイスラエルに所属するわたし(乙女として括られるわたし)というとらえ方は微塵もなかった。ユダヤ人(わたし)はどこにいてもユダヤ人(わたし)であるという誇り。国家(乙女)などという刹那のものとは違う、すでに居ながらにして数千年の蓄積(自分自身としての蓄積)を持つユダヤ(自分)の歴史。わたしはそれに裏付けられているということ。それさえあれば居るところはどこでもかまわない、ということ。
国家(乙女)を自分の外に置くその強烈な意志の解明を、他者は「密告したもの」として誤ってとらえてしまうだけである。彼ら他者が、自らのアイデンティティーの決定を自分以外のもの(国家または乙女)にゆだねてしまっているが故に、そのようにしか見ることができないのである。
それゆえにみか子は、「今、わたしが一番望むことは、戦争が終わったらオランダ人になることです!」という言葉のなかに、自分自身の矛盾を感じて、立ち止まっていたのである。アンネに矛盾などなかったのである。
バッハマン教授の言葉「ユダヤ人の祖国とは世代を超えた記憶の彼方にあるのです」は、複雑な意味を持って捉えることができる。
そしてみか子の言葉「わたしはジルバーバウアーに真実を語ってしまった。ついに、わたしは自らを名乗ってしまったのだ。」「密告者はわたしだ」も同様に・・・。
ラスト、みか子の直感にいくらかの動揺が漂うように見えるのは、作者の意図の揺れなのだろうか、それともジージの理解が不十分なせいだろうか。それについて、まだジージはよくわからないでいるのである。

本ブログ記載「トーラーの名において」1〜6は、「乙女の密告」理解の参考になるのではないか、と思う。ここで引用しなかった多くの記述が、「乙女の密告」をより深く読み込む材料になる・・・と自負する次第。気になったら読んでね!
posted by ガンコジージ at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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