2011年01月06日

共同体の話

小学校3年生のときのことである。だから、いまからン十年くらい前の話である。
ジージは原因不明の病気になってしまい、41度近い熱が出て、ひと月、いやそれ以上の長期にわたって、学校を休んだ。熱に浮かされて、脱水症状を呈するほどいっぱい汗をかき、幻覚みたいな夢みたいな奇妙な状態が続いた。
しまいに全身が硬直し、関節を曲げようとすると、手も足も首も、指さえも激しく痛むほどになった。汗で濡れた下着を替えようとするのだが、関節はぜんぜん曲がらない。父が強引に曲げようとするが、棒のようになったまま、いまにもぽきんと折れそうな気配。痛い痛いとジージは悲鳴を上げた。
父母が交代で手足をマッサージし、なんとか痛みをこらえながら動けるようになって、ようやく医者へ連れていってもらい、「原因不明」で帰ってきた。注射してもらったのは、ただの栄養剤だったらしい。
七転八倒して時間が過ぎ、なんとか歩けるようになって久しぶりに学校へ行ってみて、あわててしまった。ひと月以上休んでいたのだから、勉強が見たこともないようなところまで進んでいて、特に算数なんかチンプンカンプンになっていたのだ。
まったく当時の授業は大雑把なもので、生徒が病気などで長期休学していても、ぜんぜん気にしない。先生はジージが寝込んでいるあいだ、一度も家庭訪問などしなかったのである。プリントもなしだから、どこまで授業が進んでいるのかも判らないまま。
親が家で勉強を教えてくれるわけでもなし、それから数ヶ月ほどは、授業を理解できるようになるまで、ジージはひたすらぽけっとしていたものだった。
さて、ずっとのちに知ったことだが、おなじころ東京の看板屋の娘さんが、家が貧しいことを悲観して自殺した、と新聞に出ていたらしい。まだ全国的に雨後のタケノコのごとくにょきにょきと映画館ができていく時代ではなかったのだろう。
看板屋の仕事がどれほど厳しかったか、それも首都圏においては戦後の復興期も終盤を迎え、貧富の格差が地方よりもはるかに大きいかたちで進行していたのかもしれない。そして、ジージの知るかぎりにおいて、看板屋というのは服はもちろん顔も手足も頭も絵の具だらけになり、こぎれいな一般人から見るとかなり汚れた格好でいることが多かった。
東京の看板屋の娘さんの本当の心境は判らないけれど、ジージ的感触としても、恥じはしなかったが、どこかよその家と違うところがあるのを否定はできなかった。
父は酒や博打をやるでもなく、仕事一筋に一生懸命働いたし、人におもねらず、息子から見ても真っ正直すぎて大丈夫かなと思うくらいの生き方をした人である。母もそんな父を是とし、一生懸命生きたと記憶する。
しかし、あるときを境にして、ジージたち家族は近隣の人たちから爪弾きされてしまい、またさらに親類縁者からも遠ざけられてしまい、まるで「広場の孤独」を地でいくような状態に落ち込んでしまったのである。
ジージは3人きょうだいの長男であったが、その心理的影響は間違いなくきょうだい3人を直撃した。心の奥に、生涯消し難い痕跡を残した。
そのときの衝撃が、原因不明の高熱をもたらしたのだろう。自分の家すら他人の家のように感じ、ここに居ていいんだろうか、ここにいるのはなにかの間違いじゃなかろうか、などと、幻覚にさいなまれながら、うわごとを呟き続けたのである。
いま結論として考える。貧しくてもかまわない。みんな貧しければ助け合えるのかもしれない。いや、みんなが等しく貧しくなくてもいい。他を排除しない共同体があれば、生きるのに最低必要な安心が得られる。41度の熱に苦しめられなくて済む。心理的な後遺症を抱え込まずに済む。そんなふうにいまは思うのである。
posted by ガンコジージ at 11:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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