2011年02月18日

小説「苦役列車」について

古い文体だなあ、というのが読み出してすぐの印象であった。作者が大正末から昭和初期の破滅型作家「藤澤清造」に影響を受けたと書いている通り(というか「藤澤清造」という作家の作品を読んだことがないので推測するしかないけれど)たぶん文体も似ているのだろうな、と思うのに充分なものが、そこには充満していた。
芥川賞の選者山田詠美氏が「おそば」「お刺身」などの「お」言葉や、「おれ」ではなく「ぼく」などの表現を「あまりにもキュート」と書いていたが、当初はこれら作中表現について違和感を感じつつ、読み進むにつれて「キュートかどうかはわからないけれど、これはこれで、現在と過去を重ねあわせる技巧として、あり得ることだなあ」と感心したりもした。
こういった文体にするだけで、現代の一断面を時代的視点で感じさせてくれるような気がしたものである。
しかしその一方で、内部に沈潜していくだけで、ひたすら破滅への道を歩いていくしかない貫多の生き方を、いかにも「自己責任(この言葉、ジージは大嫌いであるが)」以外のなにものでもないように装わせることには、やはり違和感を感じざるを得なかった。
個人の中に存在する社会の有り様をまったく感じさせない造りには、嫌悪を催してしまった、といってもいい。「社会や政治を呪うことさえできず、何事も身近な他人のせいにするその駄目っぷり」(選者島田雅彦氏評)は個別の人物の描きようとしてはありうるとしても、彼が背負っている背景としてそこはかとなく浮かんでくる「社会や政治」が、ここにはまったく感じられなかった。その点はやはり残念であった、とジージとしてはいいたくなったものである。
ラスト、「最早誰も相手にせず、また誰からも相手にされず、その頃知った私小説作家、藤澤清造の作品コピーを常に作業ズボンの尻ポケットにしのばせた、確たる将来の目標もない、相も変わらずの人足であった。」の記述のうしろから、埃っぽい街の雑踏が透けて見えなかった。
そのことによって、労働の底辺で切り刻まれていく無数の人物群像につながるなにものかが欠け落ちてしまう。それによって嗤う対象とは自滅していく貫多であり作者であるということを究極で確認していく、生きながら死んでいくしかない者たち・・・もともと自滅とはそういうものなのかもしれないと切実に感じさせるラストであった。
たとえば、映画「ウェンディ&ルーシー」のラストシーンでは、暗い貨車の中からさらにその向こうの森へ広がっていく重く冷たい空間が映され、光がまだ遠くにしかない状況がわずかワンショットで描き出される。救いのなさでは同様であるにもかかわらず、希望を押しのけようとするものの存在の先に、まだ残っているなにものかがあるのを感じさせる終わり方に通じるなにか。そんなものを要求するには、この国の現状はまだ暗すぎるというのだろうか。
本当は甘ったれているわけでもなんでもなかろうに・・・つくづくと思うジージであった。
posted by ガンコジージ at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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