2012年05月03日

重層している「ガラスの天井」

同窓会は原発から40キロのところで開催された。けっこう繁華な街であるが、ひとたび事故あらば大量の放射性プルームがまっすぐ押し寄せると予測される地点である。
かつてはただの小者ガキであったやつが市会議員をやっているとかで、いかにも「地方政界で権勢を振るってるんだ。ぼく、すごいでしょ」みたいな態度で握手しにくる。「しょうがないね、こいつは」と思いつつ握手してやる。ついでに、「あんたの家、おぼえてるよ」と応える。
貧しくもなく富裕でもない、まさに3丁目の典型的家庭といった風情の家であったが、それほど仲良く遊んだ記憶がない。たぶん、ぼくとはすでに「生活のラベル」が違っていたのだろうと思う。
さらにいえば、なにを血迷って市会議員なんかになったのか、さっぱり見当がつかない。級友たちといろいろ話しているうちに、すこしずつわかってくる。
いま同窓会に出席している級友たちは、3丁目の表通りに面したものたちがほとんどなのだ。3丁目裏通りの級友たちはひとりも来ていない。
あえていえば、ぼくくらいか。いや、ぼくもまた、ほんとうの意味での3丁目裏通りとは色合いが微妙に違う。3丁目表通りに半分ハミ出していたぶん、どちらとも遠くなってしまった異端者なのである。
同窓会名簿を見せてもらうと、裏通り派の住所は空欄が多い。ほんとうに行方知れずなのか、あの世へいってしまったか、ぼく以上に3丁目を敬遠しているのか。
かつてオバマとヒラリーが米大統領予備選挙を戦ったとき、ヒラリーが「ガラスの天井」なるものの存在を匂わせつつ、涙を流す演出をしてみせたことがある。当の女性たちからもブーイングを浴びたほどわざとらしかったけれど、「ガラスの天井」は、たしかに存在する。その他の場合でも、違ったかたちで同じように確実に存在する。
同窓会の場で消息がわからない級友は、それを感じているのだろう。たしかにぼくも「薄いガラス」を感じた。生きてきて、築き上げた人脈であり立場でありが、まったく違うのを感じた。
所在なげなやつがいたので近寄ると、とたんに胸の内をほとばしるように話し始めた。生活の苦しさを感じさせる言葉の数々だった。かつては明るいおだやかな性格だったのに、いまは積み重ねた生活の重たさが彼を圧迫しているのを痛感した。彼もガラスの存在を感じているな、と思った。
「人間は社会的諸関係の総和である」という言葉を思い出す。同窓会名簿で所在が判らない友人たちのことを思う。できるだけ幸せでいてほしいな、と願う。
彼らのなかにこそ、会って話したいやつらがいる。決められた世間に満足し、その場所にあぐらをかいて座り込み、安定を満喫している友人の満足げな様子を見ていると、そんなことを考えてしまう。
またさらに、そのような彼らであっても、活断層の真上にある原発が事故を起こせば、ひとたまりもなく築き上げたすべてを捨てないといけなくなる不安定さのなかにいる、ということを感じる。
「ガラスの天井」は厚さや色合いを変えながら、幾重にも重なって積み上がっている。それら一切が、ぶ厚い一枚を残してすべてたたき壊され、中途半端な世間で満足していたものたちまで混沌のるつぼに放り込まれたとき、行方定まらないヤミクモな一揆が発生するか、新しい社会を創るほんものの革命がはじまるか、いまはまだ「世の煮詰まり方」と「人の煮詰まり方」に、あまりにも広大かつ主観的な乖離があるのかもしれない。そんなことを思った。
posted by ガンコジージ at 12:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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