2013年04月16日

「桜の園」が「さくらんぼ畑」?

グーグルアースを組み込んだホームページを創ってみようとただいま奮闘中。おかげで今月はすでに2回も、ブログの更新をしない日があった。だいたいグーグルアースの利用規約を読んでも、なかなか頭に入ってこない。もう歳なのかなあと思う。そりゃそうだ、じき70になるのだから。
ジャバスクリプトの構文を作るのも骨が折れる。忘れっぽくなっており、回転の遅い頭が壊れそう。まだ時間はかかるが、でもなんとか目鼻がついてきたというべきか。
なにをつくっているのかというと、グーグルアースで放射線測定地図をつくり、公開したいと考えている。これで表示すると、放射線の分布について、広い範囲にわたる視覚的理解が進む、と思うわけで。
さいわいグーグルアースの利用規約では、一定の条件を満たせば自由に使っていいということになっているようだ。制限があるので、それを守り、利用できる点、役に立つ機能は最大限利用しないテはない。
あとすこしで終了する。自分でも出来上がりを楽しみにしている。と書いたところで、このごろなんで原発に集中しっ放しなのか、自問する機会を得るような新聞記事に出会ったので、熱中の半ばでひと休みし、そのことに触れてみたいと思った。
「桜の園 じゃなくて さくらんぼ畑?」という記事である。チェーホフの戯曲に邦題「桜の園」という作品がある。戯曲も読み、民芸の公演も見た。
戯曲を思い起こせば、たしかに没落貴族所有の「桜の園」が売られるという悲哀が、なんとなくぴったりこない印象はある。売られるというより、買い手があることに疑問符が沸くのである。一方、演劇では題名にぴったりの優雅な衣装に身を包んだ立派な俳優さんたちが熱演していた。彼らはまさに「桜の園」を演じていた。「さくらんぼ畑」ではあり得なかった。チェーホフを取り入れた日本の文化が、彼の戯曲をそのように強く印象づけていたのだ。
だが2011年8月、群像社が「桜の園」ではなく戯曲の新訳を「さくらんぼ畑」として刊行した。転機は311だったという。群像社社長は津波と原発の映像に接して気持ちを変化させた。
「あいまいな叙情に寄りかかるのはやめて現実を直視しよう、と思った」「震災後の言葉は震災以前と同じではありえないはずだ。同じ言葉を使うことは以前と同じことを続けることになる、と強く思いました。『桜の園』を使うのは日本人に以前と同じ反応を期待することだ、と」「破壊され汚染された漁場としての海が、戯曲中のつぶされた畑と重なった」(以上本文引用)
なるほど、311後の現在は、311前と一続きの世界ではあり得ない。巨大地震は激変の始まりに過ぎなかった。原発事故が激変を動かしがたい(永遠ともいえる長い時間、持続される)現実とした。そのとき表現が311前と同じでいられるとしたら、それは激変した現実と向き合えていないことを証明するだけのことなのだ。
表現者は激変に向き合わない限り、表現者としての位置を失ってしまう。それでもなお地位を確保する表現者は、激変しつつある現実を311前に引き戻そうとするものたちの先兵として、手先となってひたすら文字を紡ぎだす。その指先に自分の欺瞞を流し込む作業に熱中する。彼らは自覚できない無様な加担者に成り下がるしかない。
群像社の直感的な決断は、そのことを表現者に突きつけているというほかない。あとは、表現者がどう応えるか。厳しく問われるはずであるが・・・。
とまあそんなことを考えた次第。パソコンとの格闘は、自分の現在における表現はこれしかない、と決めた上でのことなのである。
posted by ガンコジージ at 10:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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