2015年05月08日

本「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」

いま国会で憲法論議がたけなわだ。といっても結局は議論の入り口で終始し、自民党の数に任せた強行採決で突き進んでいくのかもしれない。そんな危惧が現実味を帯びる今日この頃、折よくというかなんというか、矢部宏治著「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」という本を読んだ。
読了してさて、どう評価したら良いんだろうと首を傾げてしまった。いろんな右からいろんな左まで、主張のつまみ食いぎゅう詰め寄せ集め。ここまでぎゅう詰めだと、個々の主張を個別に検討しても核心からズレたことになりかねない、と危惧するほどである。
著者は結論として、「基地」や「原発」をなくすには、GHQに押しつけられた憲法を国民自身の手でしっかりとつくり直す必要がある、と主張する。そして、戦後史形成の中枢となる天皇の責任を厳密に問うよう、読むものに求める。ただし不思議なことに、ざっと全体の半分を使って天皇の歴史的責任を追求しながら、ラストの結論では突然それらの視点が抜け落ちてしまう。
憲法がGHQに押しつけられ、国民の総意を反映しない矛盾に満ちたものであり、天皇を頂点とするこの国の支配層の対米従属的意図が貫徹されているというのなら、天皇の歴史的責任を問う前提なしに憲法を刷新することは出来ない。にもかかわらずなぜ著者は、ラストの結論からこれを外すのだろう。また、著書の多くのページを費やして天皇の責任を書きながら、天皇を持ち上げつつ遠回しに責任転嫁し、結果的に自分たちを免責する巧妙な罠を仕掛けたこの国の支配層をほとんど断罪しないのはなぜだろう。
著書の多くを占める強烈な主張と裏腹にラストの結論は軟弱に思える。というより、到達すべき目標をあまりに高いところへ持ち上げ読者の気分を誘導した反動で、結論の落としどころを見失っているのではないか、とさえ感じるような書き方である。
雑誌「世界」5月号で、河合弘之が「日米原子力協定」に関連する著者の指摘を批判している。記憶で書くと“鹿を射止めるのに側にいるライオンをまずやっつけろというに等しい”といった内容だったと思う。
日米原子力協定についていえば、レーガン政権下で日本が手にした包括合意条項の放棄で論議を進めることは可能なはずだ。包括合意条項は再処理に関するフリーハンドの権利であり、これの確保(再処理、高速増殖炉、ウラン濃縮の3特権確保)で、日本は原子力開発を大きく進める機会を得た。それゆえ包括合意条項(または個別合意条項も含めて)を放棄し、廃炉に向けた新協定締結と、保有するプルトニウムの米国への返却をメインに盛り込む論議は有り得る(といってもこれ自体が相当困難な交渉になるが)。
基地の問題も同様に、憲法改正を喫緊の突破目標とする必要はない。これらの事態を前進させたあとで流れを確定させるために憲法を改めさせる方向性はある。当面必要なのは、天皇に責任をなすり付け、政界でノウノウと生きている戦前戦中の亡霊の末裔たちの責任を、国民的合意に基づいてどれだけ追求できるかに係っているのではないか。
著者の方法論は、逆のルートを示すことで解決を無限遠方に押しやる奇妙な論法に陥っている。ラストの結論が雪崩をうつように軟弱化したのは、著者自身が遠大な目標設定の前に呆然自失した結果ではないか、と邪推したくなるほどである。
天皇の最近の発言が天皇家の安定的維持のためにするものだったにせよ、時代に即した適切な発信であることに変わりはなく、これを過去の反省に基づく意思表明とみるなら、逆を指摘するより、別の流れを作る絶好の機会であるとも思う。それなのになぜ著者は多くの頁を割いてこれを展開し、喫緊の課題を遠い未来へ投げ出してしまうのだろう。
posted by ガンコジージ at 11:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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