2016年01月01日

辺見庸「1☆9☆3☆7」読後感

身辺でわりとこの本に共感を覚える人が多いようだ。でも、ブログ主は必ずしもこれに没入する気にはならなかった。読み始めた最初に、冒頭部のひらがな多用の不思議な効果にとらわれた所為があるかもしれない。
ひらがなの多用によって、文字が含む意味を視覚的直感的に捉まえにくくなる、という奇妙な効果を感じたのだ。こんな書き方でずっと続くのかと思い、まず辟易した。数ページ読んで、ぱらぱらと全体を眺めてみると、ひらがな多用は必ずしも全編通じてあるわけではなく、なにかの法則を持って増えたり減ったりしているようだと気がつき、これは意図された書き方なのだと思った。とくに、途中から漢字が増えて読みやすくなったあと、ラストでふたたびひらがなが増えることに、さらに意図された狙いを感じた。
そして彼が詩人であり、漢文の素養もそうとうある人らしいと知り、ひらがな多用をなにかの表現形式として意図的に用いているのだと結論した。その意図を知ることは、そんな彼の狙いをどこまで理解できるかにかかっているのかもしれない、などとも。
読み進めるごとにひらがな多用の部分と通常の漢字仮名まじりに近づく部分とが交錯していく。そして推測する。事実を事実としてよく理解すべき部分は漢字仮名まじりに戻り、筆者の思考が深まる部分はひらがなが多くなる。彼の思考の深まるところでは、彼の思考はひとつひとつの意味を正確にとらえる以前の混沌の中へ沈んでいくように見えた。そして思った。
事実を事実として捉えることは、既存の概念を利用するか、または自身の中にあって固定された観念を利用することによって、客観的であるべきものを容易に加工し、客観的であるべき事実をすぐさま観念の奴隷と成し、そこで思考停止させてしまう。もしや、辺見庸は「そんなに簡単に固定されてたまるか」と叫んでいるのではないか、と思った。混沌を受け入れ、混沌の中で自ら思考せよ、と叫んでいるのではないか、とも。
不必要とも思われるひらがなは意味を理解するまでに一拍の間(いっぱくのま)を必要とする。その短い時間が、“観念の自由な流動を妨げようと自動的に働く思考の自己防衛的動作”を抑止する。またはそのような効果をもとから意図して、辺見庸は用意した。そう考えるのが合理的な気がした。
だから、自分の問題意識はいま、ここにあるが、意識はどれだけ考えても固定されはしない、固定されたら最後だ、と彼は自分に言い聞かせ、また読み手にもそのように訴えているのではないか。したがって、彼が提出した幾つものエピソードについても読み手はこれに捉われる以前に、自分の固定された観念に捉われるな、と文章の間から訴えており、それゆえにラストに再びひらがな多用の文章に帰っていくのではないか、などと。
じつはブログ主は、彼の文章を順番に読み進んだあとでこのラストに接したとき、一瞬またかと思い、辟易した。「しつこいな」と感じざるを得なかった。さらに告白すると、この本を読んだのは1ヶ月ほど前のことだが、読後感想をいまようやく・・・書けた。
先に結論として持っていたのは、ひとつの危惧だった。彼が“運動”そのものを主導する存在ではないがゆえに、彼の文章が一見して展望を意図的に遠ざけてしまう可能性を感じ、それは運動するものの意識をやたら鋭く尖らせ、主観的に過酷なものにしていく可能性がある、という危惧・・・。
しかし認めなければならない。運動は柔軟であって然るべきだが、思考を停止させるような安易な流れを形成し、結果として時代に翻弄されるようになってはならないことを、彼は直感的に自からの問題として捉え、読み手にも訴えているのだ、と。硬直したところに敵の罠は潜り込む。だから・・・!
posted by ガンコジージ at 12:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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