2016年06月13日

書評:エドガル・ケレットの著書

14面の書評に「あのすばらしき7年 笑いと日常 その陰にあるもの」という興味深い記事があった。「あのすばらしき7年」というのが本の題名で、作者はイスラエル生まれのエトガル・ケレット。
「海外で、自分の生れた国を背負って発言することになるのはつらい。自国の悪いところが身にしみていても、弁護せざるを得ない。しかも自国では、国の悪口をいいふらすやつとして扱われている。口をとざしたくなる場面だが、他人が抱いているイメージからは自由になれない」(本文引用)。ブログ主が日常味わうほろ苦い感覚に近いものがあるなあ、と思った。
よそからの移住者と従来からそこにいる住民とのあいだに、表に現れにくい感情的なすれ違いが、往々にして生まれる。そのすれ違いの尖った先端にたまたまぶち当たったときの思い。表に現れにくいのではなく、相互のあいだにまったく交流がないことから互いの認識不足が溝を深くし、感情的すれ違いを増幅する。気持ちのすれ違いが、心の奥底に深い傷をつくる。静かに血を流させる。
たぶん移住者は、まず第一に聞き手になることが必要なのだろう。元からの住民も決して一枚岩ではなく、積み重なって澱となった重たい気持ちのなかにひっそりと佇んでいる。既存の社会関係のなかでは吐き出せない閉塞感が、出口を求めて彷徨っている。
聞き手たる移住者は、たしかに地方の閉塞感を突き破る力を持っている。しかしそれも、立ち位置が定まらないかぎり、有効な力を発揮できない。そして、最終的に地方の閉塞感を突き破るのは元からの住民たちでしかあり得ない。移住者はきっかけを提供できるに過ぎない。移住者には持続性が欠けているからだ。持続するのは元からの住民だけであり、移住者が持続性を確保するには、幾世代かの経過が必要になる。
と、こんなことをつらつら考える今日この頃の心境。そのとき、エドガル・ケレットの「あの素晴らしき7年」についての書評は、少しだけだが、ブログ主の孤独な思考に筋道を与えてくれた。奇しくもこの記事を読んだ日曜日、近所で開催された原発事故関連の映画会に出席し、上映後の話し合いでケレットの心境をなぞることになったのだ。
映画上映のあと、会話はどんどん映画の主旨と離れ、間近に迫った参院選に集中していった。ケレットの想いに影響されたか、評者円城塔の巧みな評論に誘導されたか、ブログ主はその場の空気に強い反発を覚え、あえて棹を差したくなった。「話が選挙に集中している。それはここにいる人たちの気持ちが、すでに原発事故や福島から離れていきつつあることを意味する。原発事故に戻れ、福島に戻れ」(以上要旨)。いささかカッコつけが過ぎたけれど、言わずにおれなかった。もっと自前の考えとして定着させるべきだな、と思いつつ、いまだ未熟なままで・・・。
posted by ガンコジージ at 08:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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