2017年10月22日

江戸時代とか明治維新って何だったの?

16面「書評」欄に奇妙なコミックの紹介がある。「差配さん」(塩川桐子著)といい、書評の表題は「江戸の人情(ニャン情?)噺にほっこり」。表紙にはでっかく猫の絵が描かれている。「なんだこりゃ?」と思って書評を読むと、ラスト「差配さんを中心に展開される人情(ニャン情?)噺に、ほっこりと心温まる。端正な作画と粋なセリフ回しは名人芸。本来の姿で描かれたときの猫たちの可愛さもたまらない。生きとし生けるものへの愛を感じる連作集である」(本文引用)というわけで、さっそく読みたくなった。
このごろ時代劇ドラマが面白くて、いろいろ見ている。「鬼平犯科帳」とか「剣客商売」とか「大岡越前」とか「遠山の金さん」とか「水戸黄門」とか。ほかにも江戸人情噺や勧善懲悪物などいっぱい見ているが、近ごろ妙に食傷気味なのだ。ストーリーはおおむね、武士階級とそれ以下の町民・農民層さらにそれから除外された階層などの区分が、さりげなく、かつ厳然と当時のままに存在し、相互の階層の関係は、上からの慈悲か暴虐が意思疎通の基本なのである。たとえ抵抗があったとしても、下層の意志は徹底的に弾圧され、わずかに慈悲を行う上層内部にある気まぐれ分子によって多少は緩和され、下層のものたちは、涙と喜びの笑顔で、おきまりのセリフ「ありがとうごぜえますだ」を口々につぶやいておしまい。葵の御紋付きの印ろうや裃の類が最強の殺し文句になったり、庶民用代替品で背中の桜吹雪になったり。
結局、武士階級とそれ以下の関係は確固不動のものであり、その階層階級序列から締め出された人々についてはほぼ触れず仕舞い。明治維新の描き方も基本、武士階級の内乱で、庶民が主役になるような驚天動地は馬鹿騒ぎ程度にしか描かれず、残念ながら、歴史の彼方に埋もれていくだけ。時代劇の基本は、武士階級の支配が絶対の前提として微動だにしないことであり、最終的に明治維新の志士たちの英雄的生き様に収斂していくこと。
明治をつくったのは、武士階級の下層のものたちであったということ。彼らの果敢な戦いがあってこそ現代があるのだ、ということ。そこで、首をかしげるのである。これらの描き方の行き着くところは、支配階級の上部構造が、その中身をちょこっと変化させたものの、いまもまだ有効なものとして庶民に認識されるよう、連綿と思想操作され続けているような気がする。現代の政治それ自体が、維新以来150年経ってもなし崩しに変化しつつ、支配階層の中身を強引に維持するよう、多様な試みを繰り返す。
15面に「国家がなぜ家族に干渉するのか」という本の書評がある。「近代の国家は家族に深く関与してきた」「本書によれば、いま国家の家族政策がとくに関心を持っているのは、『子ども』をめぐる問題である」「国家が関心を向けるべきは『正常な』家族モデルを示すことではなく、それぞれの生き方を断念しなくてもすむ生活条件を一つひとつ保障することである」「本書は、多様な生き方が必要としている政策とそうではないものとの違いに光をあてる」(本文引用)
当ブログは小津安二郎の映画についていろいろと書いてきた。戦中の「父ありき」にみられる国家と個人の家族関係の衝突。それが戦後の「東京暮色」にどう引き継がれたかについて、など。思えば国家は、いまもまだ人々を支配階層の思うがままに差配しようと目論見続け、それを「美しい国」などと思い込ませて明治維新の精神風土に回帰させようと必死に試みている。テレビドラマがすでに民心を絡め取る道具になっている。コミック「差配さん」の話に戻ると、この作品の奥に、支配するものたちの思惑を超えた別の視点の存在を、ちょこっと感じた今日の朝。台風が近づいている中での衆院選投票日、この国の庶民の家族観が試されている。
posted by ガンコジージ at 11:49| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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