2019年11月06日

ペーター・ハントケのノーベル賞の意味とは

30面は「文化・文芸」欄。本日は「終わりと始まり 池澤夏樹」とあり、「ハントケにノーベル賞 文学は政治に何ができるか」という表題になっている。個人的には「ハントケってだれだっけ?」という気分で読み始めてすごく納得。ヴィム・ベンダース監督の映画「ベルリン・天使の詩」の脚本を書いた作家だとか。この映画については特段の印象がなく、引用されている冒頭の詩の抒情性に追随できず、深読みする意欲が沸かなかったと記憶している。それはさておき記事は、「今年のノーベル文学賞の受賞者はペーター・ハントケ、と発表された。同時にこの受賞に反発する声が外電で伝えられた。それを要約して、例えば週刊文春は『選考委員は文学の鑑賞には長けていても、生身の人心を読むのは不得手ということか』と言う。ああ、あなたは全く何もわかっていない。これはノーベル賞委員会によるペーター・ハントケの名誉回復なのだ。彼はずっと四面楚歌の状態にあって、それに耐えてきた。ことは旧ユーゴスラビアの解体過程で起こったいくつもの内戦、それに対する西側諸国の介入などを巡る歴史の評価に関わる」(本文引用)と、のっけから不思議な展開をみせる。そういえばあのときブログ主は、納得できる情報がぜんぜんなくて、セルビア側がすごい悪党だらけでひどいことをするやつらという報道に動揺し、「わけわからん?」という状態だった。それがなんと西側列強がセルビア弱体化を目論み、メディアがあげてセルビア人を「悪の権化」よばわりし、ルーダー・フィンという米の広告代理店に至っては「民族浄化」のふるまいにおよぶやつらというレッテル張りをしていたという。ブログ主はそうとう濃密なフィルター越しに事態を見ていたのだ、と今日の新聞記事を見て気づかされた。真実とは関係ない事実を、自在に創造できる広告代理店の恐ろしさに誘導されていた自分を、この記事から思い知らされたのだ。
今日の記事を書くにあたってネットで調べてみると、いまだに「セルビア=悪」みたいな記事に多くぶち当たる。つまり、池澤夏樹氏の指摘を読むまでは、ブログ主の胸の奥に「ユーゴスラビア紛争」についての疑問がわだかまってはいたものの、解き明かされるヒントにお目にかかることもないまま、今に至っていたわけだ。「誰がいいか悪いか」なんて決めるのは、それほど簡単なことではない。あっちにいるのはばけもの、こっちにいるのは無垢な犠牲者、みたいにはっきりした色わけにしたのが広告代理店で、そうさせたのは西側列強の政治的思惑だった。それによってNATOのセルビア空爆は免罪符を与えられた。それでいいのかという疑問を抑制させられていた自分を自覚する記事にようやくたどり着いた気分と言おうか。目からかなりたくさんのウロコが落ちた。世界が「悪の権化」セルビア叩き一色に染まっているとき、ペーター・ハントケは果敢に異を唱えた。そのとき彼は、四面楚歌・完全孤立無縁だった。「ユーゴ解体の初めから彼の主張に反発する知識人は多かった。NATOの空爆に反対したのはソルジェニツィンやアンゲロプロスなど僅かで」「あのソンタグが宣伝に乗ってジェノサイドという言葉を鵜呑みにしている」「広告宣伝が世論を誘導し、爆弾とミサイルがそれを実現する。ユーゴで実験され、イラクで実証され、今の世界の日常になっていることだ。それらはすべて政治に属する。政治に対して文学に何ができるか、ペーター・ハントケはそれを身をもって訴えた。20年を経たのちのノーベル賞受賞は文学者としての彼を顕彰するものだ」(本文引用)。「ベルリン・天使の詩」をじっくり見てみたい。天使役がピーター・フォークであることの意味も考えてみたい。全体に、まだちゃんとした像を結んではいないけれど、とにかくこの地域のバックグラウンドはとても複雑で、簡単に色分けして何か決められるようなものではないことは確かだ。レッテル貼りや空爆で解決しようなどということ自体がヨコシマだったのだ。そして合理化できる戦争などない。無理に理屈づけるプロパガンダに騙されない自分を確保していきたい、と思った。
posted by ガンコジージ at 10:45| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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