2012年11月23日

「第3極」がぐちゃぐちゃです

維新が伸びきった・・・かも知れない。油断はできないものの、石原老害を取り込んで、うまくやったとほくそ笑んでいたはずが、石原老害の強引さに押しまくられる結果になっている・・・みたいに見える。
新聞では、いろんな政策(企業・団体献金、エネルギー・原発、TPP、経済対策など)が石原老害との合流でぐらぐらになっていると書かれている。そのぐらぐら具合がケッサクで、なかなか々に堂に入っていて、いかにも維新らしいのがいい。
変節したのではない。維新らしさが出てきたと言える。本音はもとからこのあたりだったのだから、まあいいじゃないか。いままで耳障りのいいことを交えて庶民の耳元でささやき、喉元をこちょこちょとくすぐってきたわけだが、ゴロニャンと甘い声をだして見上げたら、そこにいたのは牙をむいたルシファーだった、というおそまつ。
いくら人のいい関西人たちでも、この「ニックキ関東」ベッタリズム的変節にはあきれたのではないか。「船中八策」などと格好いいことをいって、坂本龍馬気取りをしていたのが、関東の死にかけ殿様に「へへーい!」とばかりに平身低頭だもんな。もちろんはじめは、裸の殿様をうまく取り込んでおいしいところだけ頂戴して「ポイ!」のつもりだったんだろう。そうであったら「関東ギライ」の関西のおばちゃんたちも、やんやの喝采を浴びせたはずだが、そうはならなかったみたいで・・・。
合意したときの橋下代表の笑顔には、「してやったり」と、たしかに書いてあった。しかしお殿様も死にかけとはいいながら、ただでひっくり返らなかったのはさすがだったわけだ・・・。
その余波がまたなかなかいい。みんなの党がいま憮然とした面持ちでおり、維新とのあいだに距離をおこうとしているという。いや、まだ可能性があるという程度か。それでもいい傾向にあることに変わりはない。
せいぜい亀裂を広げていってくれたらいい。石原老害が異様にのさばって、関係修復の流れに棹を差すことを期待する。維新がシマッタと思ったときにはおそく、石原老害は言いたい放題、超右翼丸出し路線で自壊の道をひた走り、維新を道連れにしていく。きっとそうなる・・・と期待する。
一方、わずか数日でソデにされた減税日本の動きが、またまたおもしろい。河村たかしは本当に口惜しそうだったが、この人、転んでもただでは起きない人のようだ。
亀井静香、山田正彦らとともに別の新党の結成を発表し、その名もなんと「脱原発」というではないか。「景気・経済の復活」「消費税引き上げの凍結」「脱原発」「自主外交の展開」「環太平洋経済連携協定(TPP)不参加」「沖縄米軍基地問題の解決」などを公約に掲げ、前衆議院議員の参加人員が10人を超えるという。
ほんとならこれは瓢箪から駒である。「自主外交の展開」というのがなんとなく(?)であるが、その他は注目していい。石原老害と組んでいたら絶対に出てこなかったスローガンがひしめいている。
まあ、こういう揺れは本来あまり信用しかねるものだが、いま現在の情勢からいうと、「歓迎しますいらっしゃい」的なものであることはいうまでもない。もっとも選挙が終わったらまた変節することは大いにあり得るとは思うけれど、さあ、どうなりますかな?
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2012年05月13日

除染は汚染広域拡散の出発点ってこと

福島除染と震災がれき処理は、別々のものではありえない。どちらも放射性物質にまみれた大地や工作物その他からどのように核汚染を分離し、長い年月どのように封じ込めるかが対策の基本になる。
だが、たとえば今日の新聞にあるように、福島市で開かれたシンポジウムの特集記事「街を畑を 除染どうする」はまったく違った視点を持っていた、と思う。
まず東京工大特任准教授大場恭子氏の発言要旨をまとめる。「(放射線の影響に)不安を抱く背景に誤解や知識不足がある」「例えば『放射線を浴びると絶対にがんになる』という声」「国立がん研究センターの発表によると、100mSv未満の被曝による発がんリスクは『検出不可能』で、受動喫煙や運動不足、野菜不足の方がリスクは高くなっている」「今回の事故で、半減期が約2年と約30年のセシウムが1対1の割合で飛び散った。2年後には全体の4分の3ほどになり、現在の線量が永遠に続くわけではないことは理解してほしい」。大場氏は2児の母親。家族で年に数回、福島を訪れている。
伊達市市民生活部次長半沢隆宏氏は、「セシウムは、取り除き、遠ざければ、手間をかけただけ効果がある」と語り、放射性物質を野放しのライオンやトラに見立て、野放しでは危ないが、「ちゃんとオリに入れて管理すれば大丈夫」と説く。
基調講演をした電力中央研究所研究アドバイザー・福島除染アドバイザーの井上正氏は、除染に特効薬や「神の手」はないと指摘しつつ「やはり『洗う』『はぎ取る』『薄める』といった方法が基本になる」としたうえで、「セシウムは表面5センチに80%以上、10センチに95%程度蓄積しているので、それより下の部分とかき混ぜて薄めてしまう『耕起』という方法がある。除染効果は限られるが、廃棄物は発生しない利点がある」「『自宅は除染したが、お隣はまだ』という場合には、隣りの家を除染するときの2次汚染にも気をつけないといけない」「廃棄物の仮置き場は放射性物質の飛散防止、遮蔽による周囲の空間線量率の低減、雨水などの侵入、流出防止などを基本的に3年間、担保できると良い」などなど。
井上正氏は討議のなかで次のようなことも発言している。「年間1ミリシーベルトを達成するのなら、山の除染もきちんとしなければならないし、川の付近では雑草をはぎ、極端な場合は道路をはぐことになるだろう。どこまでやる必要があるのかを考えることが大事だ」「いまの線量がずっとは続かない」
また大場恭子氏は、ローマのように花崗岩建造物が多い地域では、一日の積算線量がチェルノブイリや福島市内より高いが、それでもがんの発生率は高いわけではない、という意見や「低線量をずっと浴びても、細胞の修復能力が機能する限り問題ないというのが一般的だ」と発言。さらに「福島市内には『子や孫を呼び寄せられない』という声がある。子や孫がいれば」と続けて(以後若干意味不明だが)子や孫とともに福島再生を共有しようという思考がみられた。
総じて福島における除染は、いまある場所で「混ぜる・拡散する・薄める」ことを基本としている。これがいかにまやかしに満ちた危険な行為であるかは自明であろう。
ひるがえって震災がれき処理で、がれきを現地に積み上げて防潮堤とし、その上に木を植えて記念公園化するなどの案があるが、汚染を現地で混ぜ、薄め、拡散する危険がある。やるなら土堤ではなく、頑丈で漏出可能性のないコンクリート保管庫だろう。
ともあれ、いま行われている福島の除染を防止しないでほかのどんな対策を講じても、結局「汚染垂れ流し」という暴挙全体を防止できない。福島を無視しては、汚染の拡大阻止の意味は希薄にならざるを得ない、と思う。
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2012年04月26日

フクシマ(4)集めて封じ込める=拡散阻止線の位置

放射能に汚染されたものは集めて封じ込め、絶対に拡散させない、ということが基本になる。「薄めてしまえば無くなったのと同じ」なんて対策でもなんでもない。と昨日のブログで書いた。
そしてその最前線に位置するのは、副島であり、いまそこでは封じ込めはおろか、集める作業そのものが、原発事故現場を筆頭に、建前はどうあれ、遅々として進んでいない。壊れた原発から飛び散った放射性物質は、庶民の生活を深く浸蝕し、依然として人体に影響を与えるレベルにある。
何度も書いたように、モニタリングポストはそれが設置された数メートルの範囲にもならない周辺の土壌汚染か、たまたま風や雨でMPまで流されてきた放射線しか検知できず、まったく正確さを欠いている。というより、広範囲の汚染に頬っ被りをし、信頼性を根本から欠除させている。
モニタリングポストは、住民に注意を促すというより、放射線の飛び交う巷で真実にベールをかけて生活するための、まやかしを提供する機械であるに過ぎない。
繰り返し言うように、“放射能汚染拡大阻止の最前線が副島”であり、その福島で汚染の拡散阻止はまったく効果を示していない。なぜなら、原発事故の終息を世界にアピールしたい国家は、原発事故が沈静化しているかのように印象づけることを第一義の優先事項としているからだ。
国家は、本格的に対応することから目を背ける以外に有効な方法を持っていない。いや、唯一、薄く広く拡散し、いかにもそれらしいデータを創り上げるやり方を持っているが、これも目をそらす方法でしかない。
薄く広く拡散する方法とは、福島で現に行われている除染であり、モニタリングポストの設置であり、避難指示解除準備区域の再編など、汚染がまだ広範囲に存在するのを無視して、人間をそこへムリヤリ押し込み、安全確認の実験台にするかのような、非道なやり方のことである。
国の方策は汚染の拡散に歯止めをかけず、放射能は風に乗り、水に流されて福島を超え、広がっていかざるを得ない。これはそこに住まわされる人びとの責任ではない。対策を持たないで「ただの線引き」だけで、放射能汚染の範囲が縮まっていくかのような幻想をふりまいている、国家の責任である。
一方、大量の放射能がれきは、内部にホットな汚染断片を抱え込みながら、拡散によってその所在を曖昧にし、いつのまにか人びとの目に見えないところへ廃棄されていく。その結果として完成するのは、全国に平たく引き延ばされた放射能汚染地帯である。
この流れを食い止めるのには、何が必要だろう。放射能がれきの拡散を阻止することか。もちろんそれは必須のことだ。しかし、それで拡散が止められるわけではないことは明白といわねばならない。
がれきによる放射性物質の侵入を阻止できたとしても、原発事故現場から福島全域、さらにその周辺に広がる汚染地帯の実情を放置したままでは、汚染は、がれき以外の方法、なかでも自然界の一般法則に従ったすこぶる素直な方法で、安全であるはずの地域に不可避的に侵入してくる。
昨日このブログで記述したように、放射能がれきの拒否は、福島の汚染をどのようにとらえるかという問いと不可分の関係にある。福島の汚染放置阻止と結びつかない限り、がれき阻止による放射能拡散阻止は、運動の論理としても、物理的拡散阻止の仕方としても、実効的たり得ないのではないか。
たとえば、現時点での汚染拡散シミュレーション「国家の政策が原因となる拡散を予測する新スピーディ」で拡散阻止線の最適な位置を知ることが必要なのかもしれない。そんなのがあればネ!
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2012年04月10日

震災がれき・・阪神の場合

いま神戸に来て新聞を見ている。この記事は東ではどのように書かれているのか、とりあえず確認しようがない。でも、東で報道されているような色あいと少し違う雰囲気があって、ちょっと紹介してみたくなった。
いま兵庫県でも震災がれきについて市町の担当者を集めた県の説明会が開かれているのだという。知事が挨拶で次のように言ったという。「阪神大震災を経験した兵庫県は積極的な取り組みが期待されている。県は処理施設を持ちあわせておらず、市町と一緒に対処せざるを得ない」
県は(1)がれき1キログラムあたりの放射性セシウム濃度は100ベクレル以下。(2)陸地で埋め立てる焼却灰は1キロあたり2000ベクレル以下などとしたが、各市から異論が出されたらしい。なかには「被災地の施設がフル稼働した方が雇用が生まれ、その方が運搬費を考えても安くつくのではないか」という意見もあったという。
また、がれきを処理した後の灰の処理についても異論が出ている。新聞には、県内の市町の多くが近畿2府4県などで構成する大阪湾広域臨海環境整備センター(フェニックス)の海面埋立地を、ごみの償却処分場として活用している、と書かれている。
これはもしかしたら、阪神大震災でフェニックス計画として大活躍したあのフェニックスだろうか。あの施設がまだ生きていて、多くのがれきや焼却灰を埋め立て処分しているのだろうか。いささか首を傾げてしまった。
井戸知事は「フェニックスが協力してくれないと焼却灰を最終処分できない」と指摘し、構成団体として、より安全な処分場内の陸地化した部分で焼却灰を処分するよう求める考えを示した。
伝え聞いていた話では、阪神大震災後わずか3ヶ月で15基もの焼却炉を作って可燃がれきの多くをを速やかに処分し、残りを大阪府に引き取ってもらい、後は野焼きにしたのではなかったか。
フェニックスにがれきの半分以上を埋め込んで、残りは路面材などに活用したのではなかったか。すべて順調に進んで、いまや震災復興のモデルケースと賞賛されていたのではなかったか。
この記事からいろんな疑問が浮かんできた。震災後に建造した15基の焼却炉はどうなったのだろう。まだ使えるのか、あのあとで解体したのか、急造ゆえの悲しさで速やかに老朽化したのか。はっきりわからない。
少なくとも、兵庫県は東日本からのがれきを、阪神大震災のときのがれきと同一視していないことは間違いないようだ。
フェニックスについても、阪神大震災に準じる緊急処置的な使い方を考えていないように思える。その意識の底に、震災がれきを放射能がれきとして正確に認識している様子がうかがえる。
さらに、重金属等の汚染も意識している様子が、はっきりとうかがえるのである。
大震災の経験県がこのように認識していることに注目しておきたい。もちろん政治の世界のことなので、阪神間においても結果がどの方向へ転んでいくか、まだ不透明といわねばならないが、事実はそれほど単純ではなさそうである。
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2011年03月02日

「まやかしの夕日」3丁目礼賛

ジージはこのブログで「3丁目の夕日」が大嫌いであると書いたことがある。あのいかにも懐かしげで暖かそうな夕日を堪能できたのは、限られた層の人々に過ぎないと、つねづね感じているからだ。
あの懐かしげな時代にも、いまよりいっそう根深い峻別の壁があった。その壁ゆえに、夕日を共有できない多数の人々がいた。
そのことを省みもせずに、いままた「3丁目の夕日」を懐かしむ言葉が巷間に溢れ始めている。この閉塞社会に必要なのは「3丁目の夕日」だといった論調である。論者らは、あの時代なにもかもが優しくて安心できて、貧しくても暖かさに満ちていた、と口をきわめて昔を礼賛する。
「そんなもんだったのか、確かにまちがいなくそうだったのか?」
ジージは誰に向かってでもないが、問いたくなる。いまの時代を考えてみよう。むやみに児童手当に反対する論調。生活保護を甘やかしなどと断罪し、切り捨てようとする感覚。自己責任などと聞こえのいい言葉で、押し出されたものたちを遠ざける試み。
それら一切合切が、この現代の特徴であるように言い、「3丁目の夕日」にはそんな「酷薄」は微塵もなかったように装わせる。しかし、どこにもなかったか。あの時代には、まちがいなく「酷薄」などなかったか。
ジージは「あった」という。そのようなものを見なくてよかった階層がいただけだ、という。3丁目路地裏という表通りがあり、そこで戯れているぶんには「酷薄」などまったく実感する必要がなかっただけだ、という。
そうだ。「近ごろの若いものは、額に汗して働かないで甘えている」「生活保護でぬくぬくしている」「児童手当なんか甘やかしもいいところだ」などというセリフで「酷薄」を表現するものたちがもてはやされる現代は、彼らの背後に膨大な数の無言の同調者を抱えている。
「酷薄」を好き勝手に口にして憚らないものたちが「3丁目路地裏」という「表通り」をきれいに掃き清め、さらにその路地の奥の奥に存在するものたちを、出てこられないようにする。「3丁目の夕日」を味わう権利を剥奪し、剥奪されたものたちが存在する痕跡さえ消し去ってしまうのではないか。
いま必要なのは単純な回帰ではない。「3丁目の夕日」を乗り越えて広がっていく・・・路地裏の奥の奥まで柔らかな日差しを送り込む、あたらしい共同体のかたちである。
自分たちが堪能している「夕日」を浴びるためには、より多くの手助けが必要なものたちがいること。それを「甘えている」などとして「路地の奥の奥」へ押し込むような自分の「酷薄」さがあると知ること。
「同一労働同一賃金」などときれいな言葉で飾って、「低い賃金に同一化する」というのも同じことだ。「夕日」を独占させてはならない。そのようなものたちが、いつの日かまたこの「酷薄」な現代について「あの時代には自由があった。暖かい夕日があった」などと懐かしげに語るのを許してはならない。
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2011年01月23日

ある報告書「2009年度版」について 6

今回連載の最後。具体的事例が語られる。昨日のYouTube画像とあわせて読むと、いっそう具体的に感じられる。
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証言1

アーヤート・アブドゥルカリーム・イブラーヒーム・ジャァバリーの証言
場所:ヘブロン、ワーディー・アル=フサイン
聴き取り日時:2009年4月13日
入植者による暴行の発生した日時:2009年3月15日

アーヤートは25歳で、ヘブロン東部、イスラエル入植地ギヴァアト・ハァヴォートとキルヤト・アルバーに隣接する地区で家族・親族と暮らしています。彼女は、自分たち家族と財産に対する入植者からの長年にわたる日常的な暴力について語りました。この証言では、2009年3月15日の夜、ベツレヘムでの講習会から妹と一緒に帰宅する途中で襲撃されたときのことについて説明しています。

「私たちは、タカッルブ・バイナ・アル=シュウーブ[訳注4]と呼ばれるセンターで開催されたビデオの撮影と制作のコースを受講し、帰宅するところでした。
家まで10メートルほどのところまで来て、15歳以上のいろいろな年齢の入植者30人ほどがシナゴーグ[訳注5]として使っているテントから出てくるのが見えました。ギヴァアト・ハァヴォートの方角に歩いて行くところでした。入植者が我が家の前を通ることがわかっていたので、私と妹は足を速めました。彼らはすぐさま私たちに向かって投石を始め、ヘブライ語で何か言いましたが、私はヘブライ語がわからないので、意味が通じませんでした。私を罵っているみたいでした。
私たちは走って逃げようとしましたが、その瞬間、石が私の頭に当たって顔に電気ショックのような衝撃を感じて、たちまち意識を失いました。

訳注4) タカッルブ・バイナ・アル=シュウーブ [民族間アプローチセンター]
訳注5) シナゴーグ [ユダヤ教の礼拝所]

あとで妹のスハイルから聞いたのですが、私が意識をなくして地面に倒れこんだので、妹は家族に連絡し、家族が赤新月社の救急車を呼びました。救急車は現場に来たけれど、イスラエル兵に1時間以上引き止められたそうです。兵士は、その地区でのパレスチナ車両の移動を制限するイスラエルの規則に従わせたのです。

妹が言うには、私たちに投石した入植者は入植地のギヴァアト・ハァヴォート地区の方角に立ち去ったそうです。私が50分ぐらいして意識を取り戻したとき、助けようとして周りの人々がヘブライ語で私に話しかけているのが目に入りました。私はとてもこわかったし、起き上がれませんでした。それから父をはじめ家族が何人かいるのが見えたので少し安心しました。聞こえてくる言葉から周囲の人々がイスラエル人だとわかって〔不安を感じて〕いたからです。妹は、イスラエルの医療班が到着してその場で応急処置を施してくれたのだと言いました。医療班は注射をするために私の服の右袖を切り取って、ゴムバンドでとめました。意識が戻ったとき、父が、歩いてみなさい、と言うのが聞こえました。父は、イスラエル人医療班の指示を私に通訳しているのだと説明しました。私は答えることができず、何度もやってみたけれど起き上がれませんでした。

午後8時頃になってようやく兵士らに通行を許された赤新月社の救急車が到着しました。私が様子を眺めていると父がそう話してくれました。私は取り乱し、疲れきっていました。父たちが私を救急車に運び入れ、ヘブロンにあるなじみの官立病院に搬送されました。母と妹のスハイルが一緒でした。

私は救急医療室に運ばれて応急処置を受け、頭部のX線撮影を受けました。幸い、〔診察の〕最後に、頭蓋骨は骨折していないと言われました。しかし、医師が心配したのは頭部に柔らかい部分があり、水のような液状のものがたまっているように見えることでした。医師が母にそう話しているのが聞こえました。医師は、鎮痛剤は使わないようにと言い、また、翌日の午前10時にもう一度病院に行くことになっていたのですが、それまでは飲んだり食べたりしないようにと言いました。

私はその日の夜10時に病院を出ましたが、手当をしてもらったのにひどい頭痛がしました。家に着いたときは疲れていて、夜通し眠れませんでした。それ以来慢性的に頭痛がしていて、特に太陽光にさらされると痛みます。集中力がなく、もの忘れをします。また、その事件の2、3日後に2度、意識不明になりました。その上、恐怖感が消えません。家を出るときは必ず恐怖を感じるし、家の中でも外で
も日常生活を正常に送れず、ずっと通っていた講習もやめました。ヘブロンで別の教育実習の講習も受けていましたが、それもやめました。いつも入植者と投石を想像し、周囲を見回してばかりいます。家族が言うには、私は夜中にうわ言を言い、うめき声を出していたそうです。私は家族のことも心配で、私か家族の誰かの身にこういう事件がまた起こりそうで不安です。いつも、家族が全員帰宅し
ないうちは、動揺して心配になります。私が意識を失ったとき、妹は私が死んだかと思ったそうです。妹はいつも私のことを案じていて、何度も何度もキスしますし、彼女が泣いているところを何回も目にしています。どうしたの、と繰り返し聞いてはみますが、私にはわかっています。妹は、目の前で私が倒れた場面や姉は死んだと思いながら医療班の作業を見つめていた場面を思い出しているので
す。医者には何度も行きました。これからどんな暮らしになっていくのかまったくわかりません。

イスラエル当局には何も報告していません。とてもストレスの多い手続きになるでしょうし、他の人から聞いた話からすると、報告してもどうにもならないと思います。」
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(次号予告:シリーズ【1】ー暴力(2/4)ーへブロンの事例続きー証言2と証言3)

原文
A 2009 report on Israel's human rights violations against Palestinian women
http://www.wclac.org/english/publications/book.pdf
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2011年01月22日

ある報告書「2009年度版」について 5

具体的事例に移る前に、当ブログで紹介したYouTubeの映像を見てほしい。昨年の8月10日「YouTubeの映像から」と9月2日「ゴム被覆金属弾(いまパレスチナでなにが)」の映像である。他にもあるかもしれない。
各々の映像から、パレスチナ人の過酷な生活を直接間接に感じることができる。以下の文章とともに参照されたい。
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ヘブロンの事例
ヘブロンは、人口17万人を超す西岸最大の工業都市です。約500人のイスラエル人入植者がこのヘブロン旧市街中心部のさまざまな入植地に居住しており、別に7,000人が同市郊外のもっと大規模な入植地に住んでいます。オスロ合意の一環として、この市は二つの部分に分割されました。H1地区はパレスチナの管轄、H2地区はイスラエルの管轄です(この事情の下でも国際人道法上のイスラエルの責任は不変です)。H2地区のパレスチナ人住民の生活と移動に対しては、入植地周辺の旧市街中心部と入植地へのアクセス道路に100を超すバリケード、フェンス、壁、検問所を設けられるなど、苛酷な制約が課されています。こうして、ユダヤ人入植者とパレスチナ人住民は隔離され、パレスチナ人住民の大半が移動の自由を厳しく制限されています。H2地区では、イスラエル人のみに運転の自由が与えられ、パレスチナ人には許されていません。この制約と暴力のため、また長引く外出禁止令のため、旧市街は広範囲にわたってさびれています。大きな商店街もいくつか軍令によって閉鎖されました。移動の制限は、雇用と教育の機会に直接的な影響を及ぼしています。アーヤート(証言1)は、入植者から暴行を受けたことが原因で、以前受けていたベツレヘムでの講習に通うのをやめたと述べています。

入植者の暴力によって医療を受ける権利に影響が及ぶ例は、証言3に示されています。ハナー・アブー・ハイカルはその証言の中で、自宅の近所では車の使用が認められていないために、高齢で病身の母親を病院や医者のところに連れて行く際に必要となる、救急車を手配する手続きについて説明しています。

入植者の暴力、そして暴力に対する不安は、ヘブロンに住む多くの女性にとっては日常生活の一部となっています。WCLACがヘブロンで記録した事例は、女性が日々経験している恐怖の雰囲気を、女性の暮らしに対するさらに広範囲な影響とともに伝えています。また、入植者の流入とその暴力に起因する医療、教育および就労の機会の制約に関する証言もあります。
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明日はヘブロンに居住するパレスチナ人の証言を掲載する予定。それで、TUPからの通信第1回目は終了し、しばらく間をおいて第2回目を載せることにしている。
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2011年01月21日

ある報告書「2009年度版」について 4

当ブログ掲載にあたって、長いので6回に分けて連載した。本日はその4回目。具体的な証言は5回6回で語られる。
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b. 入植者の暴力
パレスチナ人市民とその財産に対する暴力行為は、2008年と2009年にも継続しており、責任者を取り調べて法の裁きを受けさせる努力には何らの改善も見られません。イスラエルは2009年中、入植地を拡大するために、国際人道法に違反してパレスチナ人市民の財産没収を続行しました。1967年以降、歴代のイスラエル政権は、被占領地において国際人道法違反の入植政策を続けてきました。2005年9月には、ガザからの一方的撤退と入植地の明け渡しに続いてガザから西岸に移転した入植者とイスラエルからの入植者4,700人を含めると、西岸の入植者数は5.3%増加しました。2008年末までには、西岸入植者の人口は479,500人となりました。
2008年には、イスラエルの人口は1.8%増加しました。しかし、同年、入植地の人口増加率は5.6%で、そのうち40%は、イスラエルと海外からの流入によるものです。入植地の拡張と入植者人口の増大に伴って、周辺のパレスチナ人地域社会に対する入植者による暴力も増大しています。
2009年の包括的な統計はまだありませんが、パレスチナ人とその財産を標的とする、入植者がかかわる事件数は増加しているものと見られます。2008年1月から10月までに国連人道問題調整部が記録した事件は290件で、前年、前々年に比べて増加しています(2006年182件、2007年243件)。
同様に、入植者が関わる事件により2008年に死傷したパレスチナ人の数は、2006年、2007年をそれぞれ上回ります(2008年131人、2006年74人、2007年92人)。

西岸入植地における新規住宅建設を10カ月間の期限つきで凍結する(ただし東エルサレムの入植地は除外)という2009年11月下旬のイスラエル政府の発表が入植者の反発を招いている中で、パレスチナ人地域社会に対するイスラエル人入植者による攻撃はさらに増加することが懸念されています。国連人道問題調整部は、2009年11月25日から12月8日までの2週間に10件の事件を記録しました。その大半は西岸の北部で発生したもので、入植の凍結に対して抗議する入植者らによる、幹線道路を走行するパレスチナ人の車両に対する投石事件でした。
2009年12月11日に、イツハルのイスラエル人入植者の集団が西岸ヤースーフにあるモスクに放火しました。放火犯はまた、建物の床にヘブライ語の脅し文句をスプレーで吹きつけましたが、中には「全員焼いてやる」というものもありました。

先に述べたように、イスラエルは、慣例法を反映させたハーグ条約第43条に基づいて、西岸における公衆の秩序と安全を保証する義務を負っています。さらに、「残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い」に相当する暴力行為が公務員等(治安部隊を含む)の黙認の下、私人によって行われる場合、イスラエルには拷問禁止条約第16条に基づいて、そのような行為を予防する義務があります。WCLACは、報告書にまとめた事例の多くは、当該の女性に対する残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱いにあたると確信しています。
WCLACが記録した事例の多くはヘブロン地域とナーブルス周辺の村々に集中しています。入植者が原理主義や過激主義を信奉していて、地元のパレスチナ人住民に対して暴行を働いたりパレスチナ人の財産に損害を与えたりする傾向が強いところです。男性が仕事に出かけて留守になっている日中、女性は通常家にいて子どもや身内の高齢者の世話をしているので、特に攻撃を受けやすいのです。
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次回は「ヘブロンにおける事例」を掲載。
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2011年01月20日

ある報告書「2009年度版」について 3

過去に見た映像記録からの印象を語ろう。映像では、ガザを爆走する軍用車両に抗議の訴えをするのは、ほぼ女性と老人に限られた。男たちの姿を見るのは稀であった。すぐに拘束されるか、射殺の危険にさらされるため、表立ってなにかをするなど到底できなかったからだ。報告書は語る。連載3回目・・・!
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a. 女性が被る影響

暴力の事例には、女性が検問所で待っている時や仕事を終えて徒歩で帰宅する途中に発生する単発的な事件もあれば、長年にわたって、隣接する入植地〔住民〕からの暴力行為やその脅威にさらされているという継続的な事例もあります。このような地域社会では、ヘブロンおよびアシーラ・アル=・キブリーイェからの証言が示すとおり、女性は、自分自身、家族、隣人、所有物、家畜などに対する攻撃に何年間も耐えてきました。
イスラエル兵の駐留は、パレスチナ人の女性にとっては安心をもたらす存在でも保護してくれる存在でもありません。この報告書で紹介している、入植者による暴力事例の多くにおいては、兵士は入植者による暴力から女性を守ってはいません。ハドラがWCLACに述べたとおりです。「ー何人かの兵士が入植者のそばに立っていましたが、私たちを守るための何の行動もとってはくれませんでした。」ハリーマ(証言7)とファーティマ(証言6)の場合は、暴力行為の直接の加害者は複数のイスラエル兵と警官でした。パレスチナ当局がイスラエル市民を統制することはないので、パレスチナ人の女性は、暴力と嫌がらせに対してほとんどまったく何の保護もない状態に置かれています。MはWCLACにこう語りました。「状況は悪くなる一方です。でも、誰にも何もできないのです。」
ほとんどの場合、女性は夫に助けを求めることもできません。〔占領下の〕パレスチナではそれが普通です。助けを求めた結果、〔行動を起こした〕夫が逮捕・勾留されることになってしまうからです。ハリーマがイスラエル兵に襲われていたとき、夫と息子は見ていることしかできませんでした。「私も、家の窓から、私を助けるすべもなく見つめている息子たちと夫のことが心配でした。彼らは、
理由もなく逮捕しかねない兵士らが恐ろしくて動けなかったのです。」
イスラエル人入植者や兵士からの暴力は多くのさまざまな影響を女性たちに及ぼします。たとえばハリーマのケースでは、襲われたときに手首に大怪我をしましたが、それだけでなく、怪我をした結果、就労することも家事をこなすこともできなくなり、自分も家族も、経済的社会的な打撃を被ることになりました。入植者による暴力と嫌がらせに日常的にさらされていることから生まれるストレスと不安によって、女性の体に影響が出るケースもあります。ハナー・アブー・ハイカルは次のように説明しています。「私も姉妹も母もみな、さまざまな病気に悩まされています。日常的に被っている困難のせいだとしか思えません。」
WCLACはまた、暴力と嫌がらせを受けている女性の心理と情緒にも深刻な影響が及んでいることをつきとめています。多くの女性が恐怖と不安にとりつかれたままになっています。被害にあった女性の中には、攻撃がまた起きるのではないかという恐怖感から、それ以前のような暮らしを営むことができない、とWCLACに話す人もいます。ここに証言1として記録されているアーヤートもその一人です。彼女はWCLACに、襲撃後は、襲撃が繰り返されることをおそれて、受けていた講習に行くのをやめたし、家からまったく出る気にならないと述べました。イスラエル兵から脅かされ、入植者からは日常的に嫌がらせを受けていたファーティマは、自宅にいてさえ不安でならないけれど身を守るすべは何もない、と聴き取り調査で述べました。「兵士の姿を目にしたり大きな音を聞いたりするたびにパニックに陥ります。我が家を出て、どこか別のところで暮らしたいぐらいです。」
女性たちはまた、日常的な暴力と嫌がらせが子どもに及ぼす影響についても心配しています。幼い子どもが暴力にさらされているのに、母親には守ってやるすべもないという場合があります。Mは、侵入する入植者に対処するため兵士が村にやってきたときに催涙ガスを浴びた娘の様子について述べています。「私が末娘の様子を見に行くと、娘は口のまわりを泡だらけにして泣いていました。催涙ガス
のせいだったと思います。私は娘が心配で恐怖のあまり叫びだし、大声で夫を呼びました。」アシーラ・アル=・キブリーイェのハドラは、その証言の中で、幼い娘の受けた影響について述べています。「末娘のルバーは1歳半で、やっとかたことで話し始めたところですが、窓を指差して『入植者、入植者』と言い、家の周囲で物音がするたび泣き始めます。」・・・・・・続く
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2011年01月19日

ある報告書「2009年度版」について 2

昨日に引き続き、TUPによるパレスチナの証言特集の2日目。いよいよ、本文の始まりである。
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パレスチナ女性に対するイスラエルの人権侵害報告書-- 2009年度版

シリーズ【1】ー暴力 1/4

パレスチナ人の女性は、イスラエルがパレスチナを占領した結果、日常的な暴力にさらされています。女性たちは、ヨルダン川西岸地区[訳注1]に住むイスラエル人の入植者から暴力を被っています。これらの入植者は武装している場合も多々あります。女性たちはまたイスラエル軍による暴力の犠牲者でもあります。
暴行事件の責任者に対する取調べや訴追がほとんど行われず、加害者の責任追及はなおざりです。女性は自分たちの事件の場合、どんな対応も行われないことがわかっており、イスラエル警察に訴える手続きに対しても恐怖の念を抱いているので、被害を訴え出ない場合が少なくありません。

 訳注1)ヨルダン川西岸地区 [パレスチナ東部一帯。国連のパレスチナ分割案(1947年11月採択)では、アラブ国家の領土とされていたが、1967年、ガザとともにイスラエルによって占領される。以降「西岸」と表記]

国際人道法上の枠組みとしては、武力紛争下で戦闘行為が行われている間、民間人は包括的な保護の対象となっています。占領当局であるイスラエルには、被占領地の法と秩序を維持し、統治下にある民間人の保護を全うすべき国際人道法上の責任があります。オスロ合意における安全保障のための取決めがどうであれ、締約国であるイスラエルが負うべきこの義務は不変です。イスラエル政府に課せられた義務は、民間人に危害を及ぼさないことはもとより、占領国側の住民の手による暴力から保護する義務、さらには、保護下にある住民の福祉を保証する義務にも及びます。

国際司法裁判所は、分離壁[訳注2]についての勧告において、国際人道法が被占領地にも適用されることを確認しています。市民的および政治的権利に関する国際規約(ICCPR)第9条1項の下でパレスチナ人も「身体の安全についての権利」を保持しており、国連人権委員会[訳注3]はこの条項を、私人が加える脅威も含めて管轄区域内の住民の生命に対する脅威から個々人を保護するための、相応で適切な措置をとる義務が締約国にあることを意味するものと解釈しています。

 訳注2)分離壁 [壁建設の中止と撤去を求める国連決議(2003年10月21日)や国際司法裁判所の勧告(2004年7月9日)が出された後も、イスラエルはテロリストのイスラエルへの侵入を防ぐという名目で建設を進めており、パレスチナ人の暮らしに大きなマイナスの影響を及ぼしている]

 訳注3)国連人権委員会 [2006年に人権理事会に改組され、旧人権委員会は発展的に解消。以降「国連人権理事会」と表記]

ICCPR第7条に記載されている、「拷問又は残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い若しくは刑罰」の禁止は、普遍的かつ絶対的なものです。

人権理事会は一般的意見第10号で、締約国には、その管轄区域内で拷問や虐待を予防し、それらの行為を罰するために、立法措置をとるだけではなく、行政・司法その他の方策を実施する明白な義務があると述べています。そのような扱いや刑罰を禁止したり犯罪として規定したりするだけでは、第7条を履行したとはいえないのです。

さらに、「残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い」に相当する暴力行為が公務員等(治安部隊を含む)が黙認するなかで私人によって行われる場合も、イスラエルには拷問禁止条約第16条の規定により、そのような行為を予防する義務があります。ICCPR第2条第3項には、同規約に定める権利を侵害された人は誰であれ効果的な救済措置を受けるものとし、締約国は、権限ある当局によってその人の権利が定められ、そのような救済措置が履行されるよう保証しなければならないことが明記されています。

またイスラエルには、女性差別撤廃条約(CEDAW)により、パレスチナ人の女性を民間人および政府関係者の暴力から保護する義務があります。CEDAWの監視を行う委員会は、「女性に対して国際法全般あるいは諸人権規約に定められた、人権および基本的自由の享受を妨げたり諸権利を無効にしたりする、性別に起因する暴力は、同条約第1条の趣旨に照らして差別である」と明言しています。

しかしながら、法律で禁止されているにもかかわらず、政府関係者、特にイスラエル軍は女性を含むパレスチナ人市民に対して暴力行為をはたらいてきましたし、そのような事件を効果的に調査することも、責任を負うべき当事者に対して適切な措置をとることも怠ってきました。さらにイスラエルは、入植者によるパレスチナ人に対する攻撃の予防も、これらの罪を犯すイスラエル国民に対する適切な法の執行もまったくできていません。
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2011年01月18日

ある報告書「2009年度版」について 1

TUPによるパレスチナの証言特集。ものすごく長いので、数回にわけて掲載する。
「パレスチナ女性に対するイスラエルの人権侵害報告書-- 2009年度版」という。
イスラエル人入植者の暴力は日常的であり、執拗を極める。当ブログでも09年9月15日「レイラ 17歳」でその一端を書いた。10年8月10日「YouTubeの映像から」にはシナゴーグ(ユダヤ教宗教施設)を襲撃するイスラエル警察の映像も紹介した。ほかにもあると思う。参照されたい。

〔以下に連載第一回目として、TUPの前書きを掲載する。本文は明日から・・・。〕                  

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◎女たちの証言ーー占領下パレスチナで生きるということ
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1967年に始まったヨルダン川西岸地区とガザ地区に対するイスラエルの占領は、44年目を迎えようとしています。
占領とは何か? 死傷者の多寡で紛争を測る従来の定義に従えば、占領下のパレスチナで起きていることはジェノサイド(大量殺戮)ではありません。しかし、パレスチナ人社会学者サリ・ハナフィは、こうした従来型の定義では、占領下パレスチナで進行中の事態の本質を表すことはできないとして、これを「スペシオサイド(Spaciocide; 空間的扼殺)」と名づけました。パレスチナ人が生きている空間それ自体を破壊することで、彼らが自らの土地で生きていくことを不可能にする、という意味です。パレスチナでは、人間が物理的暴力で大量に殺される代わりに、人間が人間らしく生きる可能性それ自体が、構造的暴力によって組織的かつ集団的に奪われているのです。

この「パレスチナの女性の声」シリーズは、そのような占領の現実を生きている19人の女性の肉声をまとめた報告書(2009年刊行)の翻訳です。作成したのはWCLAC(女性のための法律相談センター)という団体です。普遍的な人権擁護の一分野として、パレスチナにおける女性の権利擁護のために活動する上で、「女性の眼を通して語られる物語を聞くことなしには、パレスチナ社会が被る長期的被害が及ぶ範囲を評価することはできない」(事務局長 マハ・アブダヴィエ)という問題意識から聴き取り調査が行われ、文書にまとめた内容について証言者本人の確認を得た上で英訳され発表されました。
(英文報告書: http://www.wclac.org/english/publications/book.pdf

パレスチナの現状について様々な立場からの報告を入手することができますが、そこで暮らしている女性の生の声を通して、特に女性であるために被っている被害を立証するものは大変貴重なものと言えます。また、「女性の物語は占領の残酷さ、差別および暴力の証拠であるばかりか、パレスチナ人女性の強さとしたたかさを証拠だてるもの」(同報告書序文より)でもあります。
報告書は大きく分けて「暴力」「移動の自由」「住居と家族の離散」「家屋の取り壊し」という構成になっています。この報告書がパレスチナに生きる権利の回復のため、また世界のすべての地で人が人として生きる権利を確保するために活用されますように。

前書き:岡真理、向井真澄/TUP
翻訳:岡真理、キム・クンミ、寺尾光身、樋口淳子、藤澤みどり、向井真澄/TUP

凡例 [ ] :訳注 ,〔 〕:訳者による補い
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2011年01月03日

映画「アバター」09年、米

以前このブログで書いた記憶がある。10年3月9日の「『アバター』と『ハート・ロッカー』」の記事である。
昨年度アカデミー賞が決まったとき、ジージは即座に思ったものだ。「両方とも見てないけれど、やっぱりアバターじゃなかったな」と。
そのときの主たる記述「『アバター』はウケる要素をてんこもりに詰め込んで、その狙いが当たったとしか思えなかったのだ。3D技術とかその他の高度な技術というものにしても、侵略者と抵抗するものの対立に現在のアメリカを重ねるというストーリー展開にしても、描かれた異星の自然環境のすばらしさにしても、狙いがあまりにもミエミエで共感できなかったのである。
たしかに現在のアメリカに充満しつつある気分をそこまで煮詰めてまとめあげた力量は、たいしたものだと思う。製作の期間を考えたらずいぶん前からいまの状況を読んでいたということもできるわけで、それはものすごいワザである。
しかしジージには、それはプロがプロ意識に徹して『作る』ことを意図した、商業主義的意図の産物の範囲を抜けていないように思えたのである。こうすればウケる。こうやれば驚く。こう表現すれば納得してくれる。すべての作為があからさまに感じられてしまうのである。」(以上自ブログからの引用)
「アバター」の背景は明らかにネイティブアメリカン(アメリカインディアン)と白人たちのたたかいを意識したものになっている。そして現在につながるアメリカ大帝国が遂行している戦争の歴史と(この大帝国がそのまま発展していったと仮定した)未来像を示している。
だがしかし、類型はあまりにもたくさんありすぎて、現在のアメリカ帝国に対する批判にすら成り得ていない。アバターが原住民と溶け込んでいく過程は、「ダンスウィズウルブズ」そのものである。
「ダンスウィズウルブズ」では南北戦争終結後、心に傷を負った騎兵隊兵士が、西部辺境地帯へ単身赴き、野生のオオカミを通して、現地に住むインデアンと交流し、ついに彼らの一員として白人社会から姿を消していく。「アバター」の主人公がパンドラ星の住民となっていくように・・・。
70年代初頭の映画界にそれなりの衝撃を与えた「ソルジャーブルー」の時代との重層と比べても、「アバター」のそれは思ったほど強いものではない。「ソルジャーブルー」では、ベトナム戦争における「ソンミ村虐殺事件」と「サンドクリークの虐殺」が重ねあわされ、(映画の出来不出来は別にして)観るものははっきりとそのことを意識したものであった。
一方、「アバター」のラストにおいて、地球人たちは戦いに敗れ、地球へ強制送還されていく。アバターとして反乱に参加した元海兵隊兵士は、アバターではなくパンドラ星の住民として生きる道を選ぶ。
映画はそこで終わるが、しかし歴史は絶対そこで終わらないことを確実に暗示させる。戦いはこれからいよいよ激烈さを増していくだろうと、観るものは感じざるをえない。
戦いは単なる企業の敗北でしかなく、欲望にまみれた地球は無傷なのであり、莫大な利益を生む鉱石は、まだ無尽蔵にパンドラ星の地下深く眠っているからだ。
次にやってくるのは、敗北の教訓を得て、新しい戦争技術を駆使した、別の欲望集団であることは目に見えている。パンドラ星の未来は、ラストシーンですでに見透かすことができる、といわねばならない。
映画がここでさらに飛躍を目指し、地球との関係において、まったく別の模索を開始していたとしたら、「希望」は開かれた「パンドラの箱」から、確実に星全体を包む規模で広がっていたに違いないと思うのであるが・・・。
「ソルジャーブルー」については、以下のブログがすごく詳しかったので、紹介しておく。

『私の歴史夜話』 映画『ソルジャー・ブルー』を歴史する

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2010年12月25日

「平和が好き」と言った人

あるとき、遠くに住んでいる知り合いの女性が、その地方で9条の会を設立した。そのとき、その女性の知り合いの女性がぼくに電話をかけてきて、「あなた、どうする?」と聞くのである。ふたりの女性はけっこう仲のいい間柄であったはずだった。
「えっ、ぼくのところでは別の9条の会があるし、参加するならそれに参加するだろうと思うけれど」と答えると、「じゃあ、参加するの?」とさらに聞いてくる。
ぼくは答えた。「特に参加する必要を感じないなあ。ぼくはひとりでブログから発信しているのが好きだし、あなたが参加するかどうかはぼくに聞いて決めることじゃないでしょう。ご自分で考えれば?」
「わたしだって平和は好きですよ。でも、わたしわからないんだもん」
「わからなかったら、情報を自分で集めて、自分で判断して、決めればいいじゃん。インターネットでいろいろ研究するもよし、あなた自身の出版物で広いお友達がいるでしょうから、教えてもらうもよし、自分のブログでお試し発信してもよし」
「で、あなたは、参加しないの?」
「集まりがあって、意義を感じたら適宜参加するけど、基本は自分でいまやっていることを続けるってことかなあ」
「そう」
彼女はしばらく考えてから答えた。
「わたし、様子を見るわ」
「様子を見るって、つまり、参加しないってことなの?」
「いますぐじゃなくって、様子を見てから」
ぼくは内心で思っていた。「様子を見る」つまり「敬して遠ざけておく」ということなんだな。たぶん、自分のブログからのお試し発信もしないだろうな、と。
ぼくのところへ電話をかけてきた時点から、参加する気などなかったのだろう。参加しなくてもいい根拠を探していたのに過ぎないだろう。
「平和は好きよ。だけど、わたしわからないもの」という言葉には、それから先、あらためて「知ろう。これから知っていこう」という意志をまったく感じられなかった。
あれから何年経ったことだろう。いまも彼女は様子見しているのか、はたまた様子見することも忘れてしまったのか、ブログにお試しのあとは微塵もなく、彼女なりの「平和」を満喫している。
これから時代が大きく変遷していく。そうなりつつある中で、彼女なりの「危機感」で右往左往していくのかもしれない。「わたし、平和が好きなのに。戦争嫌いなのに」と心の中で呟きながら。
で、ぼくも9条の会には参加していない。というか、いろんな運動団体があるけれど、世の中の動きを知るために個々の会合へ参加することはあっても、それ以上積極的に関わってはいない。
それにしても、「平和」という言葉。使い古していつのまにかホコリにまみれさせていないか・・・ぼくは、自分自身の立ち位置も含めて、いま、そんなことをふと思う。
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2010年12月24日

国境を越える言論の自由 ー ウィキリークスの挑戦

TUPからのお知らせで、ウィキリークスについての記事が送られてきた。いかに紹介しておく。

「2010年春、無防備のイラク市民を米軍兵士たちがヘリコプターから無差別に射殺する衝撃的なビデオを公開して以来、ウィキリークスは「アフガニスタン戦争日記」「イラク戦争ログ」、そして「大使館ファイル」と立て続けに膨大な量の内部告発データを公開してきた。ウィキリースの創始者・編集長ジュリアン・アサンジは、ペンタゴンによるその暗殺計画が明るみに出、スウェーデン政府か
ら国際指名手配が出ているにも関わらず、次のプロ ジェクトでアメリカの巨大銀行の汚職を暴露すると、ひるむことなく公言する。

資本主義と戦争という大規模な多国籍「組織犯罪」を暴露するウィキリークスの情報公開活動については、評価が大きく分かれている。「ジャーナリズムとは何か」「情報公開の是非を判断するのは誰か」という「報道の自由」の基本的な前提が、いま改めて問われているのではないか。

NHKの放送と「大使館ファイル」の公開を機にウィキリークスへの関心が高まるいま、月刊『世界』2010年9月号(岩波書店刊)に寄稿したウィキリークスに関する記事をTUP速報として再配布し、この問いかけをTUP読者の皆さんと共有しようと思う。現在、その後の情勢の変化も追った続編を執筆中であり、それについてもいずれ紹介できればと考えている。」

           TUP:宮前ゆかり


「国境を越える言論の自由 ー ウィキリークスの挑戦」続きを読む
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2010年12月23日

TUPよりお知らせがありました

ひとつは本日晩の渋谷での集まりです。もうひとつの『イラク戦争の子どもたち』は写真展で、昨日から12月27日まで開催されており、場所は同じということです。詳細は以下の通り。

<テロリストと戦っているはずだったのに本物のテロリストは私だった>
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本語で聞く〈冬の兵士〉の声ーーイラク・アフガン帰還兵の証言朗読会(12.23)
〜〜『イラク戦争の子どもたち』写真展も同時開催(12.22〜27)〜〜

その女性は私たちに食べ物を届けようとしていた。
それなのに、私たちはその人をチリヂリの肉片に吹き飛ばしてしまいました。
(ウォッシュバーン海兵隊伍長 28歳)

2006年4月18日、私は、初めて公式に確認のとれた殺人を犯しました。
何の罪もない男でした。
名前は知りません。
(ターナー海兵隊上等兵 22歳)

〜*〜*〜*〜

『冬の兵士 イラク・アフガン帰還米兵が語る戦場の真実』
 反戦イラク帰還兵の会/アーロン・グランツ著 TUP訳 岩波書店刊

2009年8月の発売以来、ありのままの戦場の姿を伝える「冬の兵士」の証言は版を重ね、現在第5刷、合計刷部数は6500部に迫るまでになりました。この書籍の元になった証言集会を開催した反戦イラク帰還兵の会から、実際の証言者を含む多数の元兵士が様々な機会に来日し、各地の証言集会などで戦場での体験を語っています。

自らが見聞きし、時には手を貸した苦い体験を、淡々と、また怒りをこめて兵士たちは語ります。初めて人を殺したときのこと、民間人でいっぱいの町に迫撃砲を撃ち込んだ日のこと、老人や子どもを路傍に放り出した時のこと。そういった体験のひとつひとつが繰り返し夢に表れ、帰還兵の心と日常を蝕んでい
ます。

絞り出すように語られる体験を日本語で聞く機会をもうけました。派手なアクションも火薬の臭いもないけれど、かれらの言葉の端々にはまぎれもない「戦場」があります。12月23日6時、お誘い合わせのうえ渋谷においでください。
(藤澤みどり/TUP)

時 :2010年12月23日木曜日(祝日)18時〜20時(開場17時50分)
場所:渋谷アップリンク・ファクトリー(定員70名)
   http://www.uplink.co.jp/info/map.html
料金:700円(メール予約)/1000円(当日)
 予約アドレス:fuyunoheishiアットマークyahoo.co.jp
出演者(順不同):
 根岸季衣、田根楽子、西山水木、隈井士門、河村寛之、万田祐介、飯島啓介、木村徹(シグマ・セブンe)、桐木仁(シグマ・セブンe)、松坂朗(映画人九条の会)

〜*〜*〜*〜

[同時開催]

森住卓写真展『イラク戦争の子どもたち』

イラク戦争はほんとうに終わったのだろうか。日本が国として、いち早く支持を表明し、税金を使って軍を送り込んだ戦争で何が行われたのか。
『イラク戦争の子どもたち』は2003年3月〜4月、大規模戦闘が続くイラクで撮影されました。写真に写る子どもたちの全員が、その後ひとりの家族も失わずにイラクで生きている可能性は多くはない。

時 :2010年12月22日(水)〜27日(月)12:00〜22:00
場所:渋谷アップリンク・ファクトリーギャラリー
   http://www.uplink.co.jp/gallery/
料金:無料

森住卓氏のプロフィール等については氏のホームページをご参照ください。
   http://www.morizumi-pj.com/

お誘い合わせのうえお出かけください。
会場でお会いしましょう。
お問い合わせは fuyunoheishiアットマークyahoo.co.jp まで。

**************以上、TUPより*****************

あわせて、当ブログの「冬の兵士」特集記事も見てやってください。よろしく。
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2010年12月11日

義父の場合

義父は搭乗していた空母ナントカが沈没し、南海の無人島にかろうじて漂着し、餓死寸前の目に遭いつつ米軍の艦砲射撃に追われ、生死の境を彷徨ったのだという。
志願兵であり、かなり長いこと海軍にいた6尺豊かな偉丈夫であったのだが、戦後およそ1年余りして帰ってきたとき、骨と皮にやせ細り、まるで別人のようであったと知るものは言う。
精神状態もとても尋常とはいえず、家の中にじっと坐っていると、まるで幽霊のように見えたらしい。そして、切れると激しく感情を爆発させ、家族を怯えさせた。なかでも妻を怯えさせ、ずいぶん苦労させたという。
そのような状態は少なくとも10年続いたというから、マイ奥さんの家族にとって、戦争の終わりは、少なく見積もっても公的な終戦よりも10年以上長引いたことになるものと思われる。
そしてもちろん、表立っての平穏が戻って来たとて、内面における葛藤はさらに延々と続いたことだろうから、もしかしたら、義父とその家族の戦争は、彼が死んでのちもちゃんと清算されずに残り続けて、いまもあるのかもしれない。
そこでジージは思うのである。義父及びその家族にとっては、「亡国」ではなく「亡魂」とでもいうような過酷な年月が、戦争の終結後にも連綿と残ったのではないか。そして、義父にとっては「魂」の再生という辛い作業が、死ぬまで続いたのではないか。
そのような内面的葛藤を持ちながら、彼の戦後人生には、さらに過酷な運命が幾度となく襲ってきた。彼の内面の苦闘を理解できない周囲からは、厳しい批判の目を向けられもした。たしかに、葛藤を処理しきれない彼は、批判されるような振る舞いにも及んだものと思われる。
彼は「魂の救済」を自分ひとりの力で行わなければならなかった。そして結論を持った。
「戦争はやっちゃいかん。どうしても、やるのなら勝たなけりゃいかん。負けるなら絶対にやるな」
思想的にはとても保守的であった。反戦、非戦の勢力が唱える「平和」「民主主義」の言葉を好まなかった。たとえ口にしても、その中に潜む空虚さに耐えきれないものを感じていたようだった。
いまにして思う。義父はたぶん、自分の魂を破壊し尽くした戦場を、現実の自分の生き様として、なんとか自らの人生に定着させようとしていたのではないか。決して忘れることなどできないとしたら、生きてきた証しとして、それが自分の人生にとって無駄でなかったと、確認したかったのではあるまいか。
死んだ戦友たちも、決して無駄死になどしなかった。みんなそれぞれに意味のある生を生き抜いて死んだのだと確認したかったのではないか。
じつはジージもそう思う。無駄な死はひとつもなかった。戦争で死んだものたちの死は決して無駄死になどではなかった。彼らはみんな必死に生き、生き抜こうとして果たさずに死んだのだと思う。それは、彼らの内部に結晶する有意な意義である。他から与えられた評価などではない。
ひとつだけ意見が異なるのは、それほどまで必死に生き抜こうとした彼らを安直に死地へ追いやり、かつ戦後も多くの死者と亡魂の生者をあとへ残したまま安穏と生きたリーダーたちの存在である。
ジージは、いま政治の世界で上等なスーツに身を包み、すこぶるおいしいものを食い、御殿みたいな家に住んで、「天下国家のために次の戦争は勝たないといかん」などとうそぶくリーダーたちが、鼻持ちならない。彼らの巧みな口車に乗せられたくないと思うだけである。
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2010年12月03日

久しぶりの映画見物

ひさしぶりに大阪へいったついでに、映画館へ出かけた。というか、一日ヒマができたので、しかたなしに映画を見に出かけたのである。
ずっと前、およそ15年くらい前には3つ並んでいた映画館が、なんといまは8つもあるらしい。びっくりしてしまった。どうせ時間つぶし、なんでもいいや、と思って映画館フロアへのエレベーターを出ると、なんだかまるっきり昔と雰囲気が違う。
だいたい映画館の受付みたいなものがない。空港の案内所みたいなのがあって、大勢の人が一列に並んで順番に説明を聞いている様子だ。「なんだこりゃ」と、目を丸くしてしまった。8館全部の総合受付みたいなものらしい。そこで希望の映画のチケットを買うんだという。
とにかくジージも並んだ。希望の映画をいうと、「お席はどのあたりがよろしいですか」と聞く。なんと全館指定席なのだ。へえ、ぜいたくなもんですな、と感心した。「オススメは」と聞くと、なんとなく要領を得ない返事。一番前でもいいような口調だけれど、館内の様子がわからないので、ちょうど真ん中あたりを頼んだ。
で、時間待ちをして入館すると、「なんじゃこりゃ」であった。まるでマッチ箱ではないか。100席にも満たないような小ささ。ジージが想定していた真ん中というのとはまるで違っていた。一番後ろがジージ的には真ん中の概念に近いくらい。最前席なんかに座っていたら、寝転んでいないと画面が見えないのではあるまいか。
いくら小さくてもいい。せめてスクリーンとの距離は適切にとっていてほしいなあと思った。平日の午後といいながら、けっこう席は埋まっている。映画好きな人たちは健在というところか。それ自体は好ましかったし、映画もそれほど退屈しないものだった。いや、となりに座っていた30代くらいのキャリアウーマンらしい女性は、ちょびっと涙ぐんでいる風情でもあった。
映画が娯楽産業としてなかなか成り立ちにくい状況があるとはいえ、こうしてちゃんとしたスクリーンで見るのは、テレビとかなんとかポッドとかいうチビチビ画面で見るのとは大違い。そのことを実感できるくらいの受け入れ態勢はとっていてしかるべきじゃなかろうか、なんて思った。
ちなみに、映画は「アメリア 永遠の翼」・・・30年代の米人女性飛行士で、数々の記録を打ち立て、最後に世界一周の途上、太平洋の波間に消えた人の生涯をつづった作品であった。わりと良かったと思う。リチャード・ギアは好みがわかれると思うけれど、ヒラリー・スワンクは適役だった。感想の詳細はいつか書こうと思う。
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2010年11月30日

中華街へでかけた

横浜中華街へは行ったことがない。だが、神戸元町にある中華街へ出かけたことはある。
一度目は地震のあと、何年かしてルミナリエという光の祭典がはじめて開かれたときである。当時はまだ地震の記憶が生々しく、倒壊家屋等の跡地も随所に残っていたと記憶する。
ルミナリエ会場へ向かう人の群れはものすごいものであった。たぶん数十万人という単位になったのではないかと思う。ぞろぞろと無数の足音が続き、人々は光の祭典の真ん中を通り過ぎていった。
そのときジージは何歳であっただろう。たぶん40代であったと記憶する。マイ奥さんや子どもたちといっしょに、光の渦へはいっていったのだが、無数の光に包まれたとき、ふと気がついたのだった。
ものすごい雑踏でありながら、人々のささやきがかもし出す雑踏らしさは微塵もなく、ただひたすらぞろぞろと歩く足音だけが耳について仕方なかったのだ。言葉が雑踏を支配していない不思議さ。そして雑多さを失ってひたすら前進することに専念する、乱雑さを失った足音。
輝きわたる光の中にありながら、人々はなんと孤独であったことだろう。なんと重い経験を共有していたことだろう。それはさながら自らの隣に震災で逝った死者たちを引き連れた、巨大な葬列のようですらあった。
あまりに静かすぎる雑踏は、こうしてルミナリエの光の祭典の下を、通り過ぎて行ったのだった。
そんな1度目の体験の道筋に、元町の中華街があったのではなかったか。そこも人的物的に多大な損害を地震によってこうむったと思われたが、祭典の道すがらのぞいたいくつかの店は、それなりの立ち直りのさなかにあるように見えた。控えめな彼らの接客態度にも、道行く人々への配慮を感じたものだった。
2度目の訪問は、つまり今回である。長い関西在住期間にあって、なんとたったの2度しかなかったことに我ながらあきれつつ、平日夕方の中華街を歩いた。マイ奥さんとふたりでである。そしてびっくりしたことには、マイ奥さんも「こんなにのんびり歩いたことは初めて」というのであった。
ふたりで出店を眺めて回りながら、安価な食物をひとつとかふたつとか購入し、立ち食いで歩く。あわせて1000円にもならない出費であった。それでも腹いっぱいになり、お土産つきで、ホテルへ戻った。人出はわりとあったと思う。観光客も店の人たちも、国際情勢がどうあろうと関係なく、自然に向き合っていた。これが当たり前の関係なんだと思った。国会であるとか、ナントカデモであるとか、目を血走らせる必要がどこにあるか。そんなことを感じさせる風景であった。またいつか来ようと思った。
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2010年11月21日

沖縄のいま(琉球新報から)

以下に新聞記事を引用しておく。
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仲井真氏先行伊波氏が猛追 琉球新報・OTV電話世論調査(2010年11月15日)
知事選への関心度
28日に投開票される第11回県知事選が11日に告示されたことを受け、琉球新報社と沖縄テレビ放送は合同で12〜14の3日間、県内11市の有権者を対象に電話世論調査を実施した。本紙の取材を加味して序盤情勢を探ると、無所属現職の仲井真弘多氏(71)=自民党県連、公明、みんなの党推薦=が一歩先行し、無所属新人で前宜野湾市長の伊波洋一氏(58)=社民、共産、社大推薦、そうぞう、国民新党県連支持=が追い上げる展開となっている。
無所属新人で幸福実現党の金城竜郎氏(46)は伸び悩んでいる。ただ3割近くの有権者が投票する人をまだ決めていないことから、今後の情勢は流動的で、残り2週間の攻防が当落を左右する。
調査では、今回の知事選に関心があると回答した人は全体の88・5%を占めた。投票に「必ず行く」「たぶん行く」と回答した人も94・5%に上り、選挙への関心の高さを示した。
地域別では、仲井真氏が大票田の那覇市で先行し、本島南部でも勢いがある。伊波氏は地元の宜野湾市でリードするなど、本島中部で浸透を見せる。
政党支持別では、自民党が支持率を23・9%に回復させてトップとなり、仲井真氏は自民支持者の8割超を固めていることが追い風になっている。伊波氏は社民、共産、社大支持層の7〜8割を固める。民主党の支持率は自民に次ぐ12・5%で、伊波氏が6割を取り込んでいる。
一方、支持政党なしと答えた人が4割近くを占めており、無党派層の動向は今後の焦点となる。
早急に取り組んでほしい県政の課題(複数回答)は「基地問題・普天間問題の解決」(47・9%)、「経済対策・産業振興」(47・3%)が拮抗(きっこう)して高く、「医療・福祉」「子育て支援・教育対策」と続いた。
普天間飛行場返還・移設問題で、名護市辺野古への移設の是非を聞いたところ「反対」が68・1%、「賛成」は18・7%だった。先島地域への自衛隊配備の是非では「反対」が43・8%で、「賛成」の37・0%を上回った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【調査方法】12〜14の3日間、県内の有権者を対象にコンピューターで無作為に作った番号に電話をかけるRDD(ランダム・デジット・ダイヤリング)方式で実施した。有権者がいる世帯にかかったのは823件で、514件の回答を得た。
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以上「琉球新報」の記事でした。
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2010年08月10日

YouTubeの映像から

イスラエル国内における抵抗について知ったのは、06年のヨルダン侵攻時におけるネット報道からだった。そこで見た映像は、たかだか10人にも満たない人々が、か細い声をしかし果敢に上げている様子だった。
そのときすでに底流は広がっていきつつあったのだと思う。同時に、圧殺する側の行為もいっそう強烈になっていったのだろう。それとも、もしかしたら、ジージが迂闊にも知らなかっただけで、抵抗はもっと前からあったのかもしれない。反省を込めて、現在の映像を探す。

☆まずはじめの映像は、パレスチナ人を強制的に退去させようとするシオニストたちの試みである。雨水を貯めた池を巨大な石で埋め尽くす。散水装置を破壊して持ち去り、野菜畑を壊す。なんのために?

Al-Baqa'a Valley Cistern Demolition

☆下の映像は上の映像のさらに詳細な記録である。白い煙は催涙弾か、それとも実弾だろうか。フレームの外から、住民の叫び声がする。

Israeli Border Police Destroy Vegetable Fields in Al Baqa'a Valley

☆下の映像は街路の移動を制限されているために、たいへんな思いをしている様子。階段を昇り、屋上に出て鉄梯子を昇り、建物の頂上に達し、壁を降り、また鉄梯子を降り、次の鉄梯子を下りて階段を降り、ようやく目的の部屋に達する。

Documentary: "The Rooftops of Hebron" - Restrictions on movement

☆道路を隔ててイスラエル人入植者とアラブ人の家が並んでいる。イスラエル人の子供たちによって、アラブ人の家に石やガラス片などが投げつけられる。その予防のために金網を張っている。子供たちの投石する様子が見える。
また、イスラエル人の女性が悪態を突きまくる様子も写っている。イスラエル軍は、アラブ人による反撃を防止するために立硝しているようである。
映像を撮影したのは「ブツェレム」という、ユダヤ系反シオニスト運動の組織らしい。はじめに幸せそうに入植地の現状を語るイスラエル人女性が映されるのは皮肉。

Documentary: The Actions of Settlers in Hebron (Tel Rumeida)

☆次の映像は、ラビたちがいまどういった闘いをしているのか、その困難さを物語る。罵倒され、小突きまわされ、突き飛ばされ、蹴飛ばされ、やられ放題である。

Zionist Thugs Beating Up Jewish Rabbis

☆内部分裂の激化。イスラエルの警察が完全武装でシナゴーグ(ユダヤ教の教会)に乱入する。たとえ反シオ二ズムではなかったとしても、そこに居合わせれば、とうぜん矛盾に気付かされるだろう。銃を向けるものの姿よりも、向けられているものたちの姿をよく観察したい。どのような人々がそこにいるか。1月17日当ブログにおける「庶民による庶民なりの責任のとり方」の、マルチン・ニーメラー神父の言葉が、映像を見る側に突き刺さってくる。

Israeli Police Attack Synagogue

「様子見、様子見、さらに様子見!」で腰が引けているあいだに、なにも起こらなければいいが。
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2010年07月31日

紙のランドセル

ボール紙のランドセルについて新聞に投書があったのはだいぶ前のこと。そういえばジージはどうだったかと考えたのだが、これが、なかなか思い出せない。
じっくり考えて、まず小学校入学最初のころ(だと思うが)布製のランドセルを背負っていったのを思い出した。で、「ボール紙じゃなくって布製?」と思った。
ボール紙よりましだったのかなあ、と思ったわけだ。でもおかしい。あのランドセルは硬かった。革製品のようにしっかりしていた。少なくとも最初のうちは・・・。
布だけであの硬さはだせないだろう。それでようやく思い至ったのだった。「あれこそまさにボール紙のランドセルだったんだな」
そういうことらしい。たぶんボール紙の上に布を張ってあったのだ。革のように見えたのは、留め具のベロだけだったかもしれない。だから、乱暴に扱っていたらすぐカバーが破れ、とれてしまったのだろう。カバーのつなぎ部分がちぎれ始めたときの様子を、うすぼんやりと思い出した。
1年も持たなかったのは、紙製であったためだ。ジージもまた、ボール紙のランドセルを背負っていたらしい、と判った。では、その次に背負ったのはなんだったのだろう。だんだん思い出してくる。
次は風呂敷であった。母が「風呂敷はなんにでもなる便利なものなんだよ」といって、教科書の包み方を教えてくれたような記憶がある。だがジージは包むのがヘタクソで、やたら乱暴に扱うものだから、ときどき、中身が道へズルッと落ちてしまったものだった。
そのころになると、クラスの中でランドセル組が少しずつ減ってきた。つまり、かなりのものが紙製ランドセルであったのではないかと推測される。風呂敷組はどのくらいいたのか、記憶にない。複数いたと思うが、ようするに、カバンがなにかということなど、まるで関心がなかったのだろう。
とにかく、次に少しずつ目立っていくのは、男の子では肩掛け式のキャンバスバッグというようなものだった。ジージは長らくキャンバス地のバッグをほしいと思っていたが、いつごろそうなったのか、記憶が定かでない。
キャンバスバッグは、3年生のときには確かに持っていた。ということは、かなり長いこと風呂敷組であったのだろう。後年のナップザックみたいなものを母が手作りしてくれたような記憶もある。
姉は遠足に行くとき、まちがいなく手作りのナップザックを背負っていった。当時すでにほとんどの子は手作りではなかったと思うので、姉がいやがったのも無理はない。姉が「遠足いきたくない」などとだだをこねていたことを思い出す。
流れとしては、ボール紙製ランドセルから風呂敷。それから手作りナップザックであったと思う。3年生で肩掛けキャンバスバッグ。これが中学卒業まで続いた。
キャンバスバッグ組は6年生になる前に、幾人かの数を占めていたように思う。ランドセル組ははっきり覚えていないが、小学校末でも多数いたことは確かだ。
では、女の子はどうであったか、それがぜんぜん記憶にないのである。ランドセルはかなり少数になっていたと思うが・・・。このごろ、幼少時の記憶が薄れていくのがちょびっと悲しい。
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2010年07月16日

共同体の必要性 その1(相対的貧困)

ジージの子ども時代を考えると、貧困というものそのものが与えた影響は、貧困が相対的な関係にある場合には、じつはそれほど大きくないのではないか、と思わざるを得ない。なぜなら、ジージよりもはるかに貧しかったものたちが、それなりにすくすくと育つことができたということに、いろんなところで気づかされるからだ。
あるときまで、ジージは自分がかなり主観的で、ひがみっぽい性格かと思っていた。一部それは否定できないが、いまはそれは主要なことではないと思うようになっている。貧しさが心に与える傷が、なにかで飛躍的に増幅されてしまうことがある。そのことをいま、感じているのである。
「なにか」とは、なにか。それは共同体の存在であると思う。貧しくても支えあえる共同体があったか否か、孤立せずにいられたか否か、それが問題なのである。ジージは「三丁目の夕日」を生理的に嫌悪して、どうしても受け入れられなかった。それはつまり「三丁目の夕日」には、ジージたちの存在する場所がなかったのである。安心して居られる場所がなかったのである。
ただあるがままにそこに存在していられる。とりあえずそこにいけば自分の座れる椅子がある。そこでは、自分もまただれかを支えるものであり得たはずだ。比較することなどなかったはずだ。そういう場所があれば、貧困であろうとなんだろうと、ほとんどどうでもよかったのである。
「三丁目の夕日」の世界は、そこに居場所を持っていた人々には、とても心地よいところであった。そして、その時代には、3丁目的共同体に所属する人々が、公汎に存在した。ぼろぼろと取りこぼされていく人たちがいることを知らないまま、大多数がそこにいられたのである。
懐かしいものは勝手に懐かしがるがいい。しかし、そこに所属する権利を与えられなかったものは、どうすればいいのか。ジージの怒りに似た感情は、その問いに由来していたといえる。

で、現在を考える。「だれでも良かった」という自暴自棄な気分で無差別殺人に走る若者たち。家庭内では母親が子を殺す。子が親を殺す。それらすべての人々のなかに、欠落しているものがあるのではないか、とジージは思う。
つまり、居てもいい場所がないこと。ボロボロヨレヨレになっても、そこにいればいつでも安心していられる場所にいない絶対的孤独感。みずからの存在を決定的に薄くしていく社会の酷薄さ。支えられるばかりではなく、支え役になれる場所にいると感じられる、意味のある存在感、安心感。
共同体の内部で育ったものたちには、意識するとしないとに関わらず、共同体の存在を潜在意識的に自然に認知する思考回路ができあがっている。だから目の前にいる誰彼が、共同体を認知できない思考回路にハマっているのを理解することができない。そのような意識のズレが、片方の孤立感や孤独感を増幅し、その一方で、意識せずに自らの対極にあるものへの、もう片方の無理解を放置する原因にもなる。というか、なるのではないか、と思ったりするのである。
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2010年07月08日

貴重な蛋白カルシウム源

あれは小学校3年生のころであったろうか。父が洗面器にいっぱい、不思議なものを持って帰ってきた。そしてにこにこ顔で、「これは栄養価がものすごく高いのだぞ」といいながら水をいれ、塩をぱらぱらまぜて、そのまま練炭火鉢にのせた。ジージは中をのぞいて仰天した。魚の頭とか骨とか内蔵らしきものとか、いろんなものがごちゃまぜになって、はいっていたのだ。
「なにこれ!」
と聞くと、父はにやりとして言ったものだ。
「これは魚のアラだ。魚屋がきれいなところをさばいたあとの骨や内蔵だ。まだ食えるのにもったいない。ほんとうは、こういうところにこそ栄養がいっぱいあるんだゾ」
ジージはなるほど、と思った。これだけたくさんあったら、たらふく魚が食べられる。おまけに栄養満点なら、言うことなしじゃないか。うれしくてたまらなかった。
魚屋の店頭の看板を描いているとき、ふと目に付いたのだという。そこで魚屋に聞いてみた。「それ、どうするの?」と。
「もったいないけど、捨てるしかないんだ」と、魚屋が返事をしたとき、父は即座に決めたらしい。(やったね、これはいいことを聞いたぞ)
それで、仕事を終えたとき、切り出してみたのだ。「それ、ちょっともらえないか」と。「いいよ、どうすんの」と、そのあとの会話はジージは知らない。とにかく洗面器いっぱいの頭や骨や内蔵が、ほくほく顔の父といっしょに帰ってきて、ただちに火鉢の上へのせられたのだ。
しばらくしてぐつぐつと湯気が立ち始め、いかにも煮魚の匂いというやつが漂ってくる。すぐにでも食べてみたいところだが、父が「待て待て。あせるんじゃない。もうちょっとしっかり煮込まないといかん」といってジージたちを制止する。
その後の記憶は断片化して都合のいいように組み直されているらしい。あいまいな記憶では、ニコニコ顔の父と母、そしてジージを含めた子どもたち、計5人が火鉢を取り囲んでいた、と思う。そして頃合いを見て、父が熱い湯気を立ち上らせている洗面器に指を突っ込み、骨をひとつつまみとったのだ。
口を大きくぱくんとあけて、モグモグ。「よし、食え!」ジージたちが「わあっ」と喚声を上げて洗面器のアラに殺到した。
「これからしばらく、魚屋からこれをもらってきてやるから、欲しいだけ食え。かあちゃんも遠慮せんと食え」
そうだ、気がつけば母は、ジージたちに食べさせるのを優先し、自分は控えめに少し口にしていただけだったのだ。
それからかなり長いこと、火鉢の上には魚のアラを入れた洗面器が常設されるようになった。ずっと火鉢に乗せっぱなし。固い肉も柔らかくなるし、魚の種類によっては、骨まで柔らかく食べられるようになる。
タンパク質とカルシウムの超格安補給源が確保された。ときには白菜などをまぜて、鍋料理もやった。それは我が家の食生活における革命といえた。ジージはそれまで病気がちであり、骨も筋肉もへなへなひょろひょろだったが、おかげでずいぶん体質・体格が改善されたのである。
魚のアラは、当時の我が家にとって救世主みたいな存在であった。それがいつまで続いたのか、なぜかはっきりとした記憶がないのであるが・・・。
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2010年07月07日

なにごともきっかけである

理系に興味を持つ子どもが少なくなってきているという。それもあって、このごろ子どもたちに興味を持たせようと、やたらおもしろそうなことを催す集まりが多い。
というか、テレビでも手品の親戚みたいなパフォーマンスで子どもたちが「ホウッ!」と眼をひらいてくれるように、至れり尽くせりのアイデアを披露する番組が目白押しで登場している。
水でロケットを飛ばしたり、静電気で物体をふわふわ浮かべたり。いったいどうなっているのか、さっぱり見当がつかないような難しい原理が背後に潜んでいるパフォーマンスまで含めて、いろいろあるようだ。
これならたしかにパフォーマンスそのものにはみんな興味を持つだろうなあ、とジージも思う。だが、問題はお遊びのあとの説明だろう、とも思ったものである。
原理がけっきょく難しいと、せっかくの楽しいパフォーマンスもオジャンになってしまうのではないか。ものすごくおもしろい出来事だったのに、あとの説明がワカラン。それでやっぱりチンプンカンプン、てな調子で首をかしげる子どもばかりになっていきはしないか。なんていうように、ジージは危惧したのである。
ジージなんかにしてみたら、そんな難しい原理には興味を持たないに決まっているのだ。おもしろいパフォーマンスを見終わったら、講師の説明なんかすぐにあっちへポイ。いましがた目にしたパフォーマンスだけに気持ちが向いていて、以後の講師の努力はまったくの無駄に終わることだろう。
現象はできるだけ簡単で、びっくりがちゃんと詰まっていて、原理も至極簡単。ちょこっと講師が説明したらそれで判った、という単純な説明で十分なのである。
必要なのはきっかけではないか。きっかけをつかんだら、あまり難しいことはいらない。簡単な原理が判れば、そのあとは自力でいいのである。自力が残っていることが重要なのである。
ジージの場合、小学校3年生のとき、担任の先生が乾電池と豆電球を持ってきて、「乾電池の両側にこの線をくっつけると、こうなります」と言いながら、ニクロム線をぺたっとやったとたん、豆電球がパカッと明るくなった、それだけである。
それがジージにとってどれだけびっくり仰天であったことか。「わあっ!」と、口をあんぐり。そのあとすぐ、図書館にすっ飛んでいき、本を手に取った。また小遣いをもらったら、すぐに乾電池と豆電球を買い、一日中パカパカとつけまくっていたのである。
そして気がついたら、ジージは理科系の学校を目指していたのだった。その後の人生は、どういうわけか次第に理科系とは無縁になっていったのであるが、とにかくきっかけはそういうことなのだ。
そういうわけで、至れり尽くせりで自力の部分を潰してしまう教え方や、けっきょくチンプンカンプンの教え方には、ジージはいささか疑問を感じざるをえないのである。
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2010年06月09日

あなたまかせ症候群

「○○を当選させない市民の会」という車が走っているのにであった。選挙が近いからなのだろう。ご苦労なことである。そして、「彼らも市民なんだよなあ」なんて思いつつ、ちょっと前までそういう車が走るのを見かけたことがあったかなあ、とも考えてしまった。
なにかが変化する可能性のある時期には、あちらとこちらのどちら側にも、揺れの振幅の大きな部分が出現するものなのだ、と思ったのである。
ある種の期待感を持ったものと、その反対に危機感を持ったものの対立的構図が、鮮明になっていく。そうだとしたら、良きにつけ悪しきにつけ、いまは変化する可能性のある時期なのだろう。
最終的にどちらへ変化するかは、いま現時点でキャスチングボートを握っている部分の中途半端さがどの程度であるかによって決まってくるもののように思う。いや、その中途半端さを見て、庶民の意識がどのように舵を切るかによっているのだと思う。いいかげんに向き合っていれば、ノゾまない方向へ行ってしまうことも充分ありうる。
ん? いまジージはそのことを、いささか他人事みたいに表現しているかもしれない。評論家的な目線で、この世が推移していくのを眺めているような・・・。
そういえばこのあいだ、社民党が連立政権を離脱したとき、ある高名な評論家が「福島さん、あんたどうするの」「いや、だから、あんたどうするつもりなの」「だから、どうするつもり?」などと、やたら詰問口調で責め立てていたが、あれと同じかもしれない。答えを求めるのではなく、返答に詰まるのを期待して詰め寄る。そういう問いかけをするのは、自分自身は究極の答えに対し責任を持っていない、と認識していてこそできるもの。ある意味姑息なやり方である。
しかし、官僚はもっと姑息なんだなあ。「首相、どうしましょう」「こうしてみようか」「それはだめでした」「じゃあ、こうしようか」「それもだめでした」「それじゃあ、これならどうかな」「それはすでにやっております」「ふーん」「で、首相、どうしましょう」「ほかになにか、いい方法はないのかねえ」「それは首相、みずからお考えいただきませんと、わたしどもとしましては」「ふーん」「で、首相、どういたしましょう」という会話を延々と続けたりして。
いやいや、話が脱線したけれど、自分を含めた問題で重大なことが決まろうとしているとき、「イヤ」「どうするの」「知らないよ」で済ましていたら、それはやっぱり評論家なんだろうなあ。
いま現時点でキャスチングボートを握っている部分の中途半端さを見限るとしても、ただあっちからこっちへ揺れるだけだったら、あらゆる決定に自分を含めない、ひたすら「どうするの」「どうしましょう」と問いかけるばかりの「あなたまかせ症候群」になるしかないわけで・・・。
ジージもときどきそうなるんだ。いや、「頻繁に」と言ったほうがいいかもしれない。反省しよう。大きな揺れが、不本意な方向へ動いていかないように、できるだけ長く、億分の一の力を発揮できるように、日ごろから心がけておこうと思う。
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2010年06月08日

ガザ支援船襲撃についての海外の記事

全文を掲載すると長くなるので、部分的引用にとどめる。詳しくは以下のHPで読むことができるので、関心を持った人は当該サイトへジャンプして読んでいただきたい。

「命を救うために尽力する勇気のない欧米のリーダーたち」

**いちばん感じた部分(ジージの主観的選択による)**

こんな状態に至ってしまったのは、いったいどうしてなのか。それはたぶん、私たちみんなが、イスラエルがアラブ人を殺すのを見るのに慣れてしまったからだ。たぶん、イスラエル人がアラブ人を殺すのに慣れてしまったからだ。そして今、イスラエル人はトルコ人を殺している。ヨーロッパ人を殺している。この 24時間で、中東で何かが変わった。そして、イスラエル人は(自分たちが行なったこの殺戮に対する超常的に愚かしい政治的対応を見る限り)何が起こったのかをまったく把握していないように思える。世界の人々は心の底から、こうした非道な行為はもうたくさんだと考えている。沈黙しているのは政治家たちだけなのだ。
【イスラエルの外交騒動】
●ゴールドストーン報告書:2009年11月
2008年12月、イスラエルはガザからイスラエルへのロケット砲撃をやめさせると宣言して、キャストレッド作戦を開始した。3週間で1400人を超えるパレスチナ人が殺戮され、 13人のイスラエル人が死んだ。南アフリカのリチャード・ゴールドストーン判事をリーダーとする国連調査委員会の報告書は、イスラエルおよび、ガザ地区を統括しているハマースの双方に戦争犯罪行為が認められるとしたが、より大きな責があるのはイスラエルだと言明した。イスラエルはゴールドストーンの調査に協力するのを拒否したばかりか、報告書は先入観に基づいており、事実を歪曲していると言い張った。
●ハマース幹部の暗殺:2010年1 月〜5月
1月、ドゥバイのホテルでハマースの幹部マフムード・アル=マブフーフを殺害した実行犯たちがイギリスとオーストラリアの偽造パスポートを使っていたことが判明したのち、両国政府はイスラエルの外交官を国外退去させた。アル=マブフーフ殺害への関与について、イスラエルは否定も肯定もしていない。イギリスは、このような形でイギリスのパスポートが使われたのは「絶対に認容できない」と述べ、オーストラリアは、これは断じて「これほど親密で友好的な支援関係を続けてきた国」のふるまいではないと述べた。
●入植地建設宣言:2010年3月
イスラエルは、アメリカのジョー・バイデン副大統領が訪問しているさなか、イスラエルに併合されている西岸地区にユダヤ人のための家を新たに1600戸建てるという計画を発表した。これは合衆国からいつにない激しい反発を招き、ワシントンは、中東和平プロセスの再開の努力を台無しにするものだと述べ、国務長官ヒラリー・クリントンは、これはアメリカに対する侮辱だとまで言った。ネタニヤフ首相は、自分の知らないうちに官僚たちが計画を作ってしまったのだと言って、バイデンに謝罪した。今日(6月1日)予定されていたホワイトハウスでのバラク・オバマとの会談はネタニヤフ側からキャンセルの申し入れがあり、ネタニヤフは急遽イスラエルに戻って自由船団事件に対処することになったが、この会談そのものは、イスラエルとアメリカの同盟関係に入りかけたひびを修復するのが目的のひとつだったと考えられている。
●核の秘匿:2010年5月
イスラエルが中東唯一の核保有国であることは公然の秘密だが、イスラエルは核兵器の拡散を防止する世界条約への加盟を改めて求められることになった。先週、核拡散防止条約(NPT)加盟国は、中東全域における大量破壊兵器の保有・開発禁止について討議する会議を2012年に開くことを決定──これは、アメリカ合衆国を含む189のNTP締約国の全会一致で採択された。これによって、イスラエルは、NTPに加盟し、国連の査察団に核施設を公開しなければならない局面に追い込まれたことになる。
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2010年06月02日

見ない、聞かない、知らないから存在しない

数字が増えるにつれて危機感が増していった。ところが数字が判らなくなったら、気分は安定してきた。そういうことってあるものだと教えられる出来事をつい最近経験したっけな。
それは去年の中頃から騒がしくなった新型インフルエンザ騒動のこと。はじめはテレビや新聞紙上を賑わしていた感染者・患者の総数が、あるときからぱったりと見えなくなってしまったのだ。
当初、空港で検疫の職員がものものしい格好をして走り回っていたのも、いつのまにか消えてしまった。空港検疫なんぞもやっているやらいないのやら。その後しばらく、マスクをした男女の群れが、街を行き交っていただけであった。
そしてどうだろう。新聞やテレビでインフル報道が見られなくなるにつれて、庶民のあいだから危機感は薄れていった。内心に不安感は残っているのだろうが、表面的にはパンデミックやらなにやらが急速に治まってしまったみたいな空気が、世間に広がっていった。
溺れるものは藁・・・という心境なのだろうか。見えないもの、聞こえないもの、話題にならないものはもとから存在しないもの、という疑似的安全感覚をすんなり受け入れて、世の中は平穏に戻っていった。
感染拡大の終結宣言なども聞いたような聞かなかったような・・・。「はて、そんなものあったかしら?」である。
行政が特別に留意したのは、ほんとうの事態がどのように推移したかを隠したことだけなのに、気分とはまったくショウモナイものである。
同じことはアフガニスタン・イラク戦争における米軍やアフガニスタン人、イラク人の犠牲者数の推移にも現れていた。ジージの極々常識的なものの見方をする友人の中には、「イラク戦争もアフガニスタン戦争もまだやっていたの。知らなかった」などとのたまうお気楽な人までいる。
それを聞いたときには、開いた口が塞がらなかったものだが、今度は天安艦沈没事件である。これについて「戦争前夜なんだよ。いますごく危なくなっているんだよ」と話せば、なんとジージが好戦的に語っているかのように忌避されてしまう空気がある。
さらに語ろうとすると、目を閉じ耳を塞ぎ、「わあわあわあ」などと雑音を発して遮ろうとする。「やめて、話さないで!」「戦争は嫌いなの!」「聞きたくないし、知りたくないの!」そして、怒鳴られておしまい。
悲しいことである。そのようにして徹底的に避け続けても、ついには避けきれずに戦争は血みどろの手を差し伸べて、すべてのものの胸ぐらをわしづかみする。イスラエルによるガザ支援船襲撃事件も、遠い彼方の話で終わるのだろうか。そしてEUの経済危機も・・・。
いつまでも身近にならないおとぎ話の世界を飽かず漂う、罪なき我ら。
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2010年05月22日

終末というもの

なにを隠そうニュートンはキリスト教シオニストだった・・・らしい。2060年に終末が来ると彼は信じていた・・・らしい。CSでいま怒濤のごとく各種番組が放送されているキリスト教終末論のひとつで、そのことを知った。
終末のときに向けてユダヤ人がエルサレムに集まり、3度目で最後の神殿をつくる。そこはアルアクサーの丘で、神殿が造られると同時にハルマゲドンに至ると考えていた・・・らしい。
ようするにユダヤ人が聖書に書かれた予言を実現するカギになると、はやくに考えていたのである。彼は聖書を徹底的に研究し、その結論に至った・・・らしい。
なるほどねえ。反宗教、反キリストの出現とイエスの再臨、死者の復活、ハルマゲドン。みんなニュートンの思想の中に盛り込まれていたわけだ。いや、べつに彼が最初に発明した考え方でもない・・・らしいけれど。

そしていまでも同じ思想はいろんなところで見かけられる。映画やTVでも然り。人類がいなくなった後の世界はどんなものになるかとか、新しい伝染病の拡大で人類はどのような影響を受けるかとか、地球のコアの停止、巨大な太陽風の襲来、ほかに小惑星や彗星の衝突とか超巨大地震とか、ノストラダムスやマヤの予言(2014年に人類は絶滅する)なんてのもある。
こういったことを、人間の奢りに対するある種の警告みたいなものとして受けとるぶんには、それなりの意味もあろうものを、これを本気にしてしまうのはどうかなあ、と思ったりして。
いま、一部には、中東の情勢に聖書の解釈をぴったりと当てはめ、ほとんどマジで終末へ突っ走っている勢力があるらしい。
いわく・・・第2次大戦後、ユダヤ人がイスラエルに集中し、ついにエルサレムを奪還した。それに対して反キリスト(現実に目の前にいるイスラム教徒たち)は世界を恐怖で支配しようとしている。911以降、世界はまさに最終戦争(ハルマゲドン)へ突入しつつある。つぎは(アルアクサーの丘への)神殿の建設であり、それもいまやかなり現実味をおびてきている。キリストはあとわずかで復活するであろう。
とまあ、詳しく見ているわけではないので、この要約が正確かどうか自信はないが、おおむねそんな感じらしい。選ばれたものたちがケイキョという現象によってこの世から消え、天上に一時退避する。そのあと世界は崩壊し、残されたものたちは絶滅する。すべてが終わったあと、ケイキョによって一時退避していた選ばれたものたちが再び地上に降り立ち、地上の楽園が始まる。

その崩壊のあとをどう生きるかも、映画や小説などでよく見かけるテーマになっている。よくみると、アニメなんかの世界ではかなり以前から展開されている。大人気の「エバンゲリオン」なんてのはまさにそれそのもの。これぞまさしく終末思想の応用系であった。
「風の谷のナウシカ」は終末後を生きる人々を描く。残されて苦難を生きる人々として描かれているが、やはり選ばれた人々の一群といっても過言ではないのかもしれない。
いろんなかたちでいつの間にか刷り込まれている、迫り来る危機への心の準備。ともすれば気分が誘導されてしまうことへの危うさを感じたりして・・・。
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2010年05月12日

節約生活について

新聞に載っていた。一ヶ月の平均食費62260円也。首都圏に住む子どもを持つ30から50代の主婦を対象とした調査の結果だという。
そこでジージは思った。首都圏はやっぱり物価が高いのかなあ、と。我が家の場合、いまを去ること20年前、関西の都市圏(大阪梅田から電車で10分ほど行ったところにある駅の近く)に住んでいた。バブル真っ盛りの頃である。中学生と高校生、子どもふたりの4人家族。で、だいたい月の平均食費は6万円くらいであった。ときどき節約癖を起こしてやたらと節約をしてみる。それでようやく4万円くらいに圧縮できた。しかしそこまで圧縮するのはものすごくたいへんなので、6万円を目安に食費を組み立てたものであった。
その逆もやったことがある。9万円をメドに実行してみる。つまり50%増しである。これはすごく贅沢に感じてあまりよろしくないいと思い、ひと月でやめた。
新聞記事には「食べ残しなどで食品を捨てる量について『少ない』と答えたのは58%」とも書いてあった。「少ない」のである。捨てないというのではないらしい。基本的に捨てることがある、らしい。ここでもジージは思った。これは昔からなのだが、我が家では「捨てる」ことがないのである。みんな使い切る。週のはじめに冷蔵庫の中はいっぱいになっている。そして、週の終わりにはほとんど空っぽになっている。そして買い込む、というサイクル。
そういうやりかたを基本としてきたので、余るという概念がなかった。大根の皮はキンピラにする。出涸らしたお茶の葉っぱはツクダニにする。いまは粉末にして飲み切る。エトセトラ。
そういえば、廃テンプラ油を捨てたこともない。古くなる前に使い切る。使い切れないほどたくさんを一度に使わない。例えば天ぷらを作るときでも、できあがって残った油を処理する段階で、おそらく他の家で使い終わった状態の油残存量と比べたら何倍も少ない量しか残っていないに違いない。
これは最初からそうしていたのではなくて、マイ奥さんがいろいろと工夫して油の使用量を決めていって、結果的にそうなったのである。工夫の勝利!
いまの物価水準は、90年前後の水準と比較してどの程度になっているのだろう。よくわからないが、同じと見積もっても、首都圏はやっぱり食品の値段が高いんだろうなと思わざるを得ない。
それでもジージとしてはひとつだけ提案してみたい。金額の圧縮を考える前に捨てない工夫をすると、かなりの節約が自動的にできていくのではないか。それを1週間のサイクルの中でたとえば日曜日は冷蔵庫満杯、土曜日は冷蔵庫空っぽ近し、そして日曜日に再び冷蔵庫満杯という具合にやっていくと、ちょうどいい買い物の量とか捨てない食生活とかをいつの間にか組み立てていけるようになるのではないか。新聞記事を見ていて、そんなことをつらつらと思ったものであった。
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2010年04月20日

RSSとかウィジェットとか

ブログの右下にウィジェットというものを取り付けた。「琉球新報」の提供する「嘉手納基地移設関連の記事」についてリアルタイムに読めるものである。
なぜこれをつけたかというと、ジージの日常においてはどうも新聞報道が偏っていて、本土のいささか無関心的気分しか漂ってこないからである。
沖縄の気分が感じられる報道を見るのは、本土では無理なのかな、とあきらめ半分であったのだが、ふと思いついて調べて見つけたのだ。RSSという方法によって無料定期購読する方法や、このブログに取り付けたウィジェットというもので常時自動的に知る方法があったのだ。
これはいい。というわけで、まるで針の穴から覗くみたいな心境ではあるが、とりあえず「嘉手納基地移設関連の記事」をウォッチする体勢をとることになった次第。
やはり、いちばんの当事者である沖縄県民の声を感じないと話にならないわけで、そういうことのためにはもしかしたら、かなり便利かもしれない、と思うわけで・・・。
興味のある記事をクリックすると、詳しい内容が見られるヨ。ときどきコマーシャルがはいるのは愛嬌ということで御免してね。

ついでに東京新聞の記事をRSS購読できるかどうか調べた。なぜかというと「高校授業料無償化」の対象から朝鮮学校を除外することについて、かなり興味深い報道をしていたらしい。これを知ったのはつい最近のことである。情報が遅くなるのは、お仲間もなくひとりで調べてひとりで記事を書いているためであろう。
残念ながら、東京新聞の特集記事はRSS配信されていないことを知った。リアルタイムで知ることができないというのはまことに残念である。
また関連して、昨年12月4日、在日コリアンの子どもたちが学ぶ京都朝鮮第一初級学校(京都市南区)で起きた出来事について、某ブログで紹介されていた東京新聞の記事を孫引き的に引用しようと思ったが、長くなるのでブログの当該記事をここに紹介しておくことにする。
「永世中立宣言」を国会と政府に要求しよう!・・・これがブログ名
以上、東京新聞の記事を知らない地方の人たちのために紹介した次第。現にジージはぜんぜん知らなかったので・・・。いや、まさかオラッチだけが知らなかったのかなあ。ひとりで書いているとこういうことになるんだなあ、と痛感。
関西在住の人たちは、こういう情報を身近で知ることができたのだろう。だから、すごくタイムリーに反応することができただろうと思う。まことに残念!
ちなみに朝鮮第一初級学校をウィキで調べてみると、「日本の幼稚園・小学校に相当する教育を行っている各種学校(非一条校)である。」ということであるらしい。騒動はそういう場所で起こったのである。
posted by ガンコジージ at 09:55| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする