2013年03月13日

アンケートという名の誘導尋問

イギリスのNGOが日本人にアンケートをした結果、死刑積極支持は44%だった。日本政府が09年に実施した世論調査では85.6%が死刑を容認したというから、その差のなんたるでかさ、いいかげんな国民性の証明か。と思ってしまうところだが、どうも実態は違うようだ。
政府実施のアンケートでは、1)どんな場合でも死刑は廃止すべきだ。2)場合によっては死刑もやむを得ない。3)わからない。の3択だったという。今度のアンケートだと、1)死刑は絶対にあった方がよい。2)あった方がよい。3)廃止した方がよい。4)絶対に廃止した方がよい。5)わからない。と少し細分化している。
微妙な関係であるが、「できればない方がいいけれど、まったくないのはどうもねえ」という中間グループについてどちらに組み入れれるかの考え方が、質問そのものの中に意図的(または意図せず)に入り込んでしまった場合、流れが大きな揺れを示す。
政府実施のアンケートは「絶対廃止」と「ぜんぜんないのはどうもねえ」という選択肢を2択で選ばせている。英NGOの場合は、相互の設問のあいだに、少しずつ曖昧さが混在している。それゆえ、「絶対にあった方がいい」と「まったくないのはどうもねえ」という揺れを分別できるようなっている。
微妙だけれど、「まったくないのはどうもねえ」という意見には、英NGOの関係者がいうように、「国民が死刑に関する情報を十分に得たうえで判断すれば、世論調査は違った結果になるのではないか」と判断できる要素が混じる。
一方、日本政府の調査結果は、「場合」をどう捉えるかくらいの判断材料しかなくなり、「凶悪犯を野放しにするのはやはり剣呑」といった傾向へ、結論を導くことになる。アンケートをする前に、誤判によって死刑になった事例や、人生の大半を死刑囚として収監されて過ごした事例などの資料を頭に入れていたら、結果はまた違うものになるだろう。誤認逮捕で警察・検察・裁判所が寄ってたかって無実のものを死に至らしめ、後にそれが誤判であったと判っても、誰も責任を取らない制度があることも、単純なアンケートの背後から浮かび上がってくるはずだ。
アンケートそのものはざっくりした質問しかしないが、その中身や背景はこんなふうに微妙なものを含むのである。こんな質問を続けたらどうなるだろう。「死刑執行後、犯人でないと判った場合、その責任は誰がどう取るか。1)国家が責任を取る。2)判断した警察・検察・司法が責任を取る。3)判断の違法性を国民審査で徹底的に追及し、関係者に適切な刑罰を科す。4)だれにも間違いはあるから許す。」なんてやったら・・・。
これなんかも、いいようでいて逆効果になる可能性もあるから難しい。いまでもいいかげんガードの固い警察・検察・裁判所が、判断を覆す可能性が格段に低くなる可能性が高くなるからだ。現在の裁判制度は判断するものが自分自身の過誤を審査するから、基本的に判断したものが在職中に過誤を認めるのは至難のワザといえる。
「あれは昔の話。いろいろとあったけど、ゴメンネ」的な判決が関の山。そのあいだにも関係者の抵抗を受け継いだものが抵抗し続けるから、判断を覆すのは困難を極める。そういったことをアンケートの前に知っていないと、死刑についての判断などは正確にはできない。誤判で殺してしまう危険を防ぐためには死刑は廃止すべきだ、という結論がでてくるには、アンケートに答える側に知の訓練が必要になってくるのだと思う。
門切り型の質問の結果から、谷垣禎一法相のように「国民感情から見て、死刑制度は支持されている」などと判断されてしまうのは不本意と思いたい。
posted by ガンコジージ at 10:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月25日

甲山事件の記憶から

今日の新聞に本文わずか13行の記事が載っていた。まず一部を引用する。

☆「甲山事件」証言の園長☆
荒木潔さん(あらき・きよし=知的障害児施設甲山学園元園長)23日、心不全で死去、79歳。・・・中略・・・兵庫県西宮市の甲山(かぶとやま)学園で1974年、園児が水死体で見つかった「甲山事件」で、殺人罪に問われた保育士=無罪確定=のアリバイを証言したとして偽証罪に問われたが、99年に無罪が確定した。」

保育士ともども、この人も検察・警察の強引さに25年も翻弄された。検察側の不利になるアリバイ証言を「偽証罪」で脅すようなマネをすることがまかり通っていたがゆえに・・・。
そんなことをされて、間違って有罪となってしまった場合、証言者の人生が計り知れないダメージを受ける。そのことの重大さよりも自らの立場保全の意志を優先させるものたちがいた。
保育士については、ウィキによると、取り調べにおいて「やってないならアリバイを証明しろ、証明しないならお前が犯人だ、証明できたら釈放してやる」等と言われた、と書かれている。そして、アリバイ証言をした元園長や同僚への「偽証罪」起訴である。
殺人罪に問われた保育士は当時22歳、無罪判決が出たときには48歳であった。元園長は40代半ばから60代半ばまで、説を曲げずに通した。それがどれほどの労苦を伴ったことか。
小説家の清水一行氏が保育士を犯人と決めつける『捜査一課長』という本を出版したのは79年。ウィキでは「この事件をモデルにした小説『捜査一課長』で山田がモデルの保育士を犯人視するストーリーを書いていたが、名誉毀損で訴えられ敗訴した。」と書かれている。
じつは、事件が発生したとき、新聞やTV報道なども、いかにも保育士が犯人臭いことをにおわせていたし、元園長や同僚たちについても「みんなあやしい」かのような報道をしていたことを、ジージは記憶している。
保育士、元園長、同僚らを巡る当初の世間の感覚がどれほどのものであったか、考えると背筋が寒くなる。
そして、いまもまだ大阪地検堺支部のような不祥事がある。新聞引用「放火事件でいったん起訴した男性について、大阪地検堺支部は起訴を取り消した。・・・中略・・・取り調べの様子を記録したDVD・・・中略・・・そこには、男性が何度も説明に詰まりながら検事の質問をおうむ返しにする様子などが録画されていた。「自白調書」を確認する際に検事が誘導していたことは明らかで、これが取り消しの決め手となった」
現在でも、表面にでないところで、以前と変わりない強引極まりないやり方が横行している。元園長の冥福を祈りつつ、こみあげてくる怒りを抑えられない。だからこそ声を大にして「取り調べの可視化を!」と叫びたい。
posted by ガンコジージ at 12:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月18日

ふたつの記事から考える

ネットを眺めていたら、ふたつの重要な記事を見つけた。ひとつは毎日新聞の袴田事件に関する記事。以下に引用。

***「捏造」の補強材料発見 証拠衣類に不自然な点***
静岡県清水市(現静岡市清水区)で1966年6月、一家4人が殺害された「袴田事件」で、袴田巌死刑囚(74)の弁護団が検察側の証拠を検証した結果、犯行時に着ていたとされる衣類は「(捜査上の)捏造(ねつぞう)」との主張を補強する材料を、新たに見つけた。これを受け弁護団は第2次再審を求める補充書を作成、静岡地裁に提出する方針を決めた。
県警は67年8月31日、血のついたズボンなど衣類5点を袴田死刑囚が勤めていた会社のみそタンクから発見。翌月12日、このズボンと同じ生地の共布(補修布)が旧静岡県浜北市(現浜松市浜北区)の袴田死刑囚の実家から見つかり、事件への関与を裏付ける証拠として採用された。
検察側が今年9月に一部開示した証拠を弁護団が検証したところ、実家から共布が見つかる8日前、捜査員がズボンの製造元から同じ生地のサンプルを入手していたことが判明。共布を発見した6日後にも、県警が製造元から再び同じ布の提供を受けていたことも分かったという。
弁護団は「同じ布を2度入手するのは不自然だ」と指摘。補充書では、製造元から最初に入手した布サンプルを「実家から見つかった」と偽装した可能性があると主張する。
弁護団は既に二つの布サンプルの開示を地裁に文書で求めており、「検察側が示せないなら捏造の根拠になる」と訴えている。
さらに、開示証拠にあったカラー写真では、みそに1年2カ月つかっていたとされる衣類に鮮やかな赤い血痕が写っていた。弁護団は「みそに長期間つかっていれば褐色になるはずだ」として、補充書では併せて捏造を裏付ける根拠になると指摘する。
補充書は地裁、地検側との次回(12月6日)三者協議の前に提出する予定。
********************

もうひとつは時事通信による、裁判員裁判についての記事。

***高齢夫婦殺害、男に死刑求刑=無罪主張被告に裁判員裁判初***
鹿児島市の民家に押し入り、無職蔵ノ下忠さん=当時(91)=夫妻を殺害したとして、強盗殺人などの罪に問われた無職白浜政広被告(71)の裁判員裁判は17日、鹿児島地裁(平島正道裁判長)で続き、検察側は論告で死刑を求刑した。弁護側は最終弁論で改めて無罪を主張した。裁判員裁判で無罪主張の被告に対する死刑求刑は初。
公判は同日に結審し、判決は来月10日。評議の期間は同9日までの約3週間で異例の長期日程となる。被告は全面否認しており、裁判員は対立する主張の事実認定に加え、有罪とした場合には死刑の適否をめぐり厳しい判断を迫られる。 
********************

ふたつを並べた理由は書かなくても通じると思う。この制度のもと、裁判員はとてつもなく厳しい判断を迫られることになる。しかも最終決断は多数決なのだから・・・複雑な気分にならざるをえない。
posted by ガンコジージ at 10:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月11日

前田検事のこれからの責任

最高検は郵便不正事件の証拠を改ざんしたとして、前田恒彦氏を今日、証拠隠滅の罪で大阪地裁に起訴する方針であるらしい。法務省は起訴直前に懲戒免職する方向だという。さて、そこでである。
シロウト判断としては、「どうせ検察はトカゲの尻尾切りに憂き身をやつすに決まっている」なんてことをどうしても思うわけで、前田恒彦氏が判決を受けて獄につながれることがあったとしても、それで終わっちゃならないと切に思うのである。
前田氏だって「こんなんでおしまいにされてたまるか」と、きっと胸の奥で考えているに違いない。願わくば、裁判の過程からでも、本を出版するなり爆弾発言を繰り返すなどして、すみやかに検察の裏の実情を暴露し、「おれはただのトカゲの尻尾では終わらないぞ」というくらいの、骨っぽさ、気概を見せてほしいものだと思う。
長年のあいだに蓄積された垢というか体質というものは、トカゲの尻尾切りなんぞで簡単に浄化されるものではない。そんなところへ仕事を得たものが、因習にぐるぐる巻きにされ、初期の青雲の志と違って新しい因習の継承者と成り下がるなんて、普通にあり得ることだろう。
だいたい、改ざんしたとされるフロッピーの問題だが、辻褄を合わせるために書き換えたとしながら、証拠として採用していないことに幾ばくかの疑問が残る。しかも、それをそのまま返却したことも疑問である。
まるで最初からバレることを予期しながら返したような気がしないではない。やり手検事の意図はなんであったのか、真実を知ることは、とてもじゃないがジージの良くするところではない。
だから、ただの願望であるだけだが、二律背反した気分を裁判の過程で順次整理していって、自分を変節させ、ここまで至らせた検察組織の闇について余すところなく暴露し、組織変革の礎になってほしいと思う。
まさかと思うが、出獄後の身の振り方について裏取引なんかしたりして、生涯にわたって口をつぐむなんてことを決め込まないでほしい。そんなことをしなくても、生き抜いていけるだけの知恵と力はあるんじゃないのか。もともと有能な人であったはずなのだから、それだけの責任を果たす気持ちは持っているんじゃないか、などと思うジージであるが、どんなもんだろう。
取り調べの可視化実現につながる事件であるだけに、協力する有力な関係者は数多くいるものと推測するのだが・・・。前田恒彦氏よ、いまとてもつらい気持ちでいるのだと推測しつつ、そのあたりやってみる気はないか、と問いたい。
posted by ガンコジージ at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月08日

やはり可視化が必要だ!

べつに容疑者としてではなかった。参考人として警察に連れていかれた(記憶では確かそうだったと思う)のに、とんでもない取り調べで、ボコボコにされそうになった。
しかし彼は、小型のボイスレコーダーを携帯していて、取り調べの一部始終を録音していた。それによると、いやはやすごいことが警察という閉ざされた壁の奥で行われていた。
そのわずかな部分がテレビで放送され、聞いていてジージは思った。まるで・・・というか、そのまんま893(やくざ)のツルシアゲじゃないか。「ワレ、シバイタロカ」というのは、ナニワ名物「松竹新喜劇」で冗談みたいに使われている言葉だと思っていたが、あれはまさに現実であったわけだ。
机をぶっ叩いたのか、それとも本人をぶっ叩いたのか判らないような、鈍い撲打音が聞こえた。そこまでやらなかったと思いたいが、もしかしたらあったかも知れない、と危惧するような音だった。
ちょうど立ち消えになりかけていた「取り調べの可視化」が再浮上しているときである。ひどい取り調べを受けた若者には気の毒であるが、これぞまさしく「取り調べ可視化」の格好のサンプルケース。これはまさに千載一遇の好機といわねばならない、とジージには思えたのだった。
こんな取り調べでは、やっていなくても「スミマセン、ヤッテイマシタ」と反射的に答えてしまう可能性は大きい。それでもシブトク頑張るなんて、基本的に不可能のように思える。少なくとも軟弱100%のジージには無理である。
闇の奥に隠されたら、権力を持ったものはどこまでも恐ろしい本性をあらわにできる。そういうことなんだろうか。
いま検察官の不正なデータ書き換えで、検察が検察を取り調べるというとんでもない事態が進行中だ。もしかしたら、取り調べられている検察官たちは、自分が取り調べを担当していたとき、似たようなことをしていたんだろうか。
いや、その逆も考えてしまう。もしかしたらいま、検察の闇を無様に曝してしまわないように、なあなあで調べが進められていることはないか。特捜検察の全体が危機にさらされないように、巧妙に引導を渡す作業が進んでいるのかもしれない。
そんなことにならないように、たとえばデータ書き換え事件をサンプルケースとして、取り調べ可視化をちょこっと試行してみたらどうだろう。そのあたりをきっかけにして、警察の闇についても本格的に明らかにしていくという方法はあり得ないだろうか。ジージの勝手な夢想でなく、これはエポックとなりうる・・・。
さて、これから警察でなんらかの取り調べを受けるときは、みんな最低でもボイスレコーダー、できればペン型ビデオレコーダーを持参するようにしよう。無茶なことをされないための自衛手段として。
ところで、TVで昨晩放映されたこの事件、今朝の新聞には載っていなかったけれど、どうしてなんだろう。これも若干疑問・・・!
posted by ガンコジージ at 09:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月22日

検察の闇が見えた

郵便不正事件で大阪地検の検事が、無罪の有力な証拠となるフロッピーディスクの日付を改ざんしたことが発覚した。彼は防衛装備品汚職の守屋氏の事件や小沢一郎関連の事件も担当しており、一連の事件はいよいよ特捜検察の暴走の観が深くなってきた。
検察の暴走はいまに始まったことではない。たとえば福島県知事の汚職贈収賄事件を見ても、彼らのすさまじい権力行使に気圧されてしまうほどである。
福島県知事は、一審の東京地裁で懲役3年、執行猶予5年の判決をうけた。そして、控訴審の東京高裁は懲役2年、執行猶予4年の有罪判決を言い渡した。
東京地検特捜部は、知事の実弟が経営する会社の土地をゼネコンが買った価格と、市価との差額1億7千万が賄賂だとしていた。そして東京高裁は、賄賂の金額が「ゼロ」だという、贈収賄裁判史上大変珍しい判断をしたらしい。贈収賄の罪はあるが、受け取った金額は「ゼロ」。
こういう不思議な判決を生む事件が、まことしやかにまかり通った。事件を担当した大鶴基成特捜部長は当時、「福島県汚職を絶対に上げろ。そうでないと俺の出世にかかわる」と部下に檄を飛ばしたと週刊誌で暴露されている。
こんどの証拠改ざん発覚について、元検事の弁護士が語っていた。「検事としてあるまじき行為です」つまり、こんなことをする検事はほかにいない、といいたいのだろうが、それがまるで信じられないのである。
舞鶴の事件では2回の家宅捜索で2000点に及ぶ押収物があったにもかかわらず、確実な物証があったのかどうか、いまだにはっきりしない。そして、10数回に及ぶ公判前整理手続きをやりながら、ジージの知る限りでは裁判が始まったという話がいまだに聞こえてこない。
東金事件でも同様に、確実な物証が見当たらない様子なのだ。これもやはり公判前整理手続きを何度も繰り返しながら、裁判のはじまる気配がない。すくなくともそのような噂が聞こえてこない。
まさかと思うのだが、いまのままでは公判を維持できないという思いがあって、検察は身動きできないでいるのだろうか。そのために容疑者となったものは、ただ無為に獄につながれているのだろうか。
フロッピーの日付を改ざんした大阪地検主任検事は、最終的に同僚によって取り調べを受けることになる。身内が身内を裁く。そのとき、トカゲの尻尾切りの意図が働かないと、だれが確信を持っていえるだろう。
ただ彼だけが特殊にそのような不正をしたのであって、ほかにそのような不祥事が起こる可能性はない、と言い逃れようとすることはありえないだろうか。このところ、さまざまな事件で、その背後に強引な捜査があるのではないかと推測したくなる、奇妙な出来事が見え隠れする。
大阪地検のお仲間である林谷検事が取り調べ段階メモを「なにげなくシュレッダーにかけてしまった」のは、じつは今回が始めてではないらしい・・・。
これはもう、身内が身内を裁くという欺瞞的な仕組みを越えて、すべてを明るみに出すやり方に踏み切るべき時期に来ているとしか思えない。裁判員裁判も検察審査会も、そのような枠組みの中で動くのなら、いくらかの意味もでてこようものを・・・。ジージはそんなふうに考えるのである。
大阪地検で郵便不正事件に関わった検事は、前田恒彦主任検事、林谷浩二検事、國井弘樹検事、高橋和男副検事、牧野善憲副検事、坂口英雄副検事。この名前、みんなおぼえておこう。検察の過去をほじくれば、もっと多くの列記すべき名前があるのだろうが・・・。
posted by ガンコジージ at 09:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月19日

裁くものの責任と罪

いま気になっている事件で「舞鶴女子高校生殺害事件」というのがある。これもまた不可解な点が多く、もしかしたら冤罪ということではあるまいな、とジージは前から思っているのであるが・・・。
08年5月に発生した事件で、容疑者として逮捕された当時60歳の男性は、小規模な窃盗の罪で、1年の判決を受けて獄につながれた。だいたいこれが不可解なのである。彼が獄につながれたのは決して殺人罪によっているのではない。
個人的に穿った見方をすると、つまり本星である殺人罪を「ありうること」として印象づけるために、女性下着1枚と賽銭約2000円を盗んだ窃盗罪で1年の刑を科して獄につないだ、とさえ思える。さらに家宅捜索をして2000点に及ぶ物件を押収したものの、どういうわけか間違いなく証拠となる物件を特定できていないらしい。
またさらに、これまでに10数回に及ぶ公判前整理手続きを行っているにもかかわらず、公判のはじまる気配がない。いや、知らないところで進展があるのかもしれないので、少なくともジージが調べた限りではそのような気配は感じられなかった、と言っておこう。とにかく、いまもまだ公判が始まったという話は聞かないのである。
東金事件と同様にこの事件の容疑者も、勾留されたままいまや人々の記憶から遠くなろうとしているように感じられる。東金事件と同様に、検察は袋小路に頭を突っ込んで、どうしたらメンツを保ったまま事態をソロッと収められるか、考えあぐねているのではあるまいか。そんなふうに勘ぐったりする。
ちかごろ「特高検察」という言葉を聞くようになった。昔「特高警察」と言うのがあって世間に恐れられたが、いま検察のやっていることが、まさに旧特高のようなあくどさにまみれているという批判を込めた言葉である。
公判前整理手続きの段階でもたもたする、それも年単位の時間を要するということは、それだけ確実な物証に欠けているということだろうと推察する。
取り調べの可視化がよくいわれるが、それと平行して“強引な取り調べによって無実の人物を罪人と仕立て上げるなどして多大な損害を負わせた検察に対し、その責任を「罪」として明確にする決まりをつくること”が必要ではないか。そうでもしなければ、冤罪で人生をぶちこわされたものがいる一方で、彼らが失うものはメンツ、出世、世間体。そんなものくらいしかないではないか。
財田事件や菅谷事件、近くでは郵便不正事件などその他にもたくさんの検察黒星事件がある。嫌疑をかけられたものたちの苦労は計り知れないものがあるのに、そうさせたものたちの失うものはメンツ、出世、世間体。それでいいのか。相手の罪を問う仕事である。真剣にやらなければ、自らも罪になるくらいの覚悟がいるのではないのか。
それなのに、いまだに無罪を勝ち取るためにがんばっているものたちがいる一方で、めでたく退官して弁護士事務所などをひらき、自らの職歴を得々と名刺の裏に刷り込んでいる諸氏もいる。
東金事件も舞鶴事件も、同じように検察の闇に呑み込まれ、個人の莫大な犠牲を強いられることになるのだろうか。そうだとしたら、あまりにも惨い現実が、この国にはまだ厳然として残っているということなのだろう。
これを許して、この国のどこに平和な日常があるのか。ジージは背筋が寒くなる思いなのである。
posted by ガンコジージ at 08:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月13日

東金事件について

事件が発生したのはいつだったろう。調べたら08年9月21日のことであった。いま事件はどうなっているのか、ジージ的感覚でいうと、忘れかけていたというしかない。まったく恥ずべきことに・・・。

千葉日報という新聞のサイトで以下のような記述を見つけた。
「2010年3月05日
供述より物証中心の裁判を (東金事件で障害者団体)
千葉県東金市で一昨年9月、5歳の女児が殺害された事件で起訴された勝木諒被告(23)について、知的障害を含む発達障害の当事者や親、福祉、医療関係者らで組織する日本発達障害福祉連盟(金子健会長)は5日午前、被告の知的障害に配慮し、供述でなく物証中心の審理を進めるよう、千葉地裁に文書で申し入れた。
発達障害の関係団体が個別の刑事裁判で裁判所に配慮を求めるのは異例。
申し入れ書は『知的障害がある人は取り調べのような圧力がかかりやすい状況では、相手の意図や誘導に沿った言動になりやすく、供述が事実と相違する事態を生じかねない』と指摘。
さらに、自己表明に不可欠な時間の概念や客観的な状況認識、冷静な判断などに深刻な障害があることから『供述以外に比重をおき、客観的で、十分に証明された確固たる証拠を中心とした審理でなければ公正な裁判にならない』と求めている。
連盟は1974年結成。全日本手をつなぐ育成会や全日本特別支援教育研究連盟、日本発達障害学会などで構成している。」

さらに、47NEWSというサイトには、4月15日付けで以下の記述があった。
「勝木被告の主任弁護人辞任 千葉の女児殺害事件
千葉県東金市で2008年9月、保育園児成田幸満ちゃん=当時(5)=が殺害された事件で、殺人罪などで起訴された勝木諒被告(23)の主任弁護人、副島洋明弁護士が辞任したことが15日、分かった。
弁護団関係者によると、今月、副島弁護士から辞任したいと連絡があったが、理由は明らかにしていない。共同通信の取材に同弁護士は『辞任したことは事実だが、理由などは答えられない』としている。
副島弁護士は、知的障害を持つ被告の弁護経験が多い。弁護側は公判前整理手続きで、独自の鑑定結果から物証の指紋や掌紋は勝木被告と一致しなかったと指摘。さらに『被告は知的障害があるため誘導されやすく、供述調書は十分な証拠にならない』として、無罪を主張する方針を表明していた。
事件では公判前整理手続きが10回行われたが、初公判のめどは立っていない。」

これ以降の事実が見つからない。よく調べないとわからないが、当ブログ09年12月31日「東金事件についての最近の動き」でまとめた事柄以上の進展がないのだろうか。
もしかしたらこの事件はおそろしく長期化する可能性がないか。一人の人間を確たる根拠もなく延々と拘束し続けながら、ひたすら月日が流れ去っていくのではないか。郵便不正事件の余波がこの事件を身動きならないものにしていないか、そんなことまで考えてしまうのであるが・・・。
posted by ガンコジージ at 07:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月05日

女巌窟王・・・共謀罪の怖さ

自民党政府が共謀罪を新設しようと繰り返し国会に法案を提出していたのは、ほんの少し前のことだ。それについての危機感は、庶民的にはほとんどなかったのではないか、と思う。その危機感のなさが、いま恐ろしい。
アメリカには共謀罪がある。この容疑によって日本国内で日本の検察によって拘束され、真偽を確かめるすべもないままアメリカに移送され、獄にいれられた女性がいる。
その罪のつくられ方は、あまりのことに頭がまっ白になりそうな酷さである。つまり、ひとりが「はい、こいつと共謀してやりました」と証言しただけで、罪が成立してしまう。自白するものは、自分の罪を軽く見せるため、「主犯はあいつです。わたしは唆されただけです」と証言する。そのようにして罪を着せられたものは、やっていないことを、たしかにやっていないと証明しなければならない。
やっていないことを証明することの難しさを通称「悪魔の証明」という。ある日あるとき、とつぜん身に降りかかった出来事に対して、至難のわざといわれる「悪魔の証明」をするはめに陥る、そうしなければこれまでの人生のすべてを失ってしまう理不尽。
この女性の場合、911以降ほとんど熱に浮かされた狂信的愛国者が充満するアメリカで、孤立無縁の戦いを強いられる。知らない間にひとりが偽証し、それを受けてアメリカの検察が起訴し、日本に犯罪者(容疑者ではない)である彼女の引き渡しを要求する。そして、日本の司法が真偽を確かめもせず、犯罪者として拘束し、引き渡すのである。
司法制度がぜんぜん違う国で裁かれることになる。日本国内では形式的な審議が拘束後わずか40日間に1回しか開かれない。移送までの期限は2ヶ月。ほとんど機械的に処理されるだけである。
一方、911によって脳内のアドレナリンが極限まで沸騰してしまったアメリカでは、陪審員制度がほとんど信用できないという。外国人を排斥する気分が強まっており、彼女は911関連で被災者救済のために実施された政府のローンを、虚偽の事実で請求したために詐欺罪で起訴されていた。
国家も国民もアドレナリンたっぷりで興奮しまくっている。そんな中で911関連で詐欺を働いた汚い外国人として、陪審員が内容を吟味もせずに有罪に傾くのは必至であった。(彼女を担当した米人の女性弁護士が、そのように語っている。)
陪審員制度の怖さを知ったように思う。それは日本における裁判員制度の怖さでもある。なにかの拍子に国家的意識に煽られて、脳内のアドレナリンが沸騰してしまったら・・・それを思うと、実に恐ろしい気がする。
アメリカでは911によって国民の気分が雪崩をうってしまった。それを利用して数々の法律がつくられ、強化され、最悪の制度が導入され、国民を煽って抜き差しならない独裁国家をつくってしまった。我らの所属する国がそうならないことを・・・。
YouTubeで“「911被災者の冤罪被害」検証報道”と検索すると、関連画像が得られる。もっと詳しいインタビュー記事は、以下のところにある。全部見るのに2時間以上かかるけどね。
http://www.youtube.com/watch?v=Wn0blcET8V8&p=E429E62DFD0839F1&index=1

かつて自民党政府は共謀罪をなんとか成立させようと、法案を国会へ繰り返し提出した。危うく成立しかけたこともあった。この出来事を見ると、彼らがなぜこの法案を成立させようとしたのかがよくわかる。
posted by ガンコジージ at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月01日

取り調べの可視化について

テレビのトーク番組を見ていて、重要なことを耳にした。取り調べの可視化について現状はどうかを議論する中で、こんな会話があったのだ。
「任意の取り調べの場合、なにしろ任意なんだから、すぐにも可視にしていいのではないか。たとえばiPodだなんだを任意に持ち込んで、ネット経由で現場中継してしまえばいいんじゃないでしょうか。できない話ではないでしょう」
ジージは「エッ!?」と目を剥いてしまったのだった。自分の取り調べ状況をリアルタイムでネットに乗せるなんて、こりゃあすごいことかもしれない。
まあそれはコメンテーターのちょっとした放言らしく、いろいろと難しい部分もあるだろうから簡単にはできないようだが、まるっきり不可能な話ではないみたいだし・・・と、そのように聞こえたのは、ただの空耳だったのかしら。だれか試みてもいいのではないかなあ、なんて、ジージは半分本気でそんなことを思ったのだった。
任意同行についてウィキペディアでは、“刑事訴訟法第198条第1項の規定では、「検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、被疑者の出頭を求め、これを取り調べることができる。但し、被疑者は、逮捕又は勾留されている場合を除いては、出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる。」と規定している。また、警察官職務執行法第2条第1項、第2項では「警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知つていると認められる者を停止させて質問することができる(第1項)。その場で前項の質問をすることが本人に対して不利であり、又は交通の妨害になると認められる場合においては、質問するため、その者に附近の警察署、交番又は駐在所に同行することを求めることができる(第2項)。」と規定されている。”と書かれている。

たとえば、「任意同行をお願いします」ときたら、「任意だから、取り調べの状況をネット配信するための道具を持参するがいいか」と聞き、了解をとっておく。
「だめです」となれば、「それじゃ行かないよ。任意だもんね」と丁重にお断りするなんて、できないのかねえ。
まあ、警察検察も海千山千の集団、あの手この手で引っ張っていこうとするわけだから、こんな簡単にできることではないだろうけれど、そこのところはジージみたいなウルトラ法律オンチなんかではなく、弁護士とか法律の専門家が率先してやってくれたら、痛快なことにならないかなあ。
「実況中継を開始いたします。ただいま、任意同行の係官がやってまいりました。これから任意に同行させていただきます。時間は○○時○○分です」
「ただいま任意同行の車のなかです。車は制限速度いっぱいで町を走っております」
「ただいま取調室に入りました。椅子はこんなの、机はこれで、取調官はこの人、他にこのような人も座っています」
「ただいま取り調べ開始です。時間は○○時○○分です」
なんてのは、冗談の世界でしかできないことなのかなあ。じっさいにやるのに、どのあたりが問題になるんだろう。
とりあえず、任意同行の部分だけでも先行して可視化を実現できたらいいかもしれないなあ・・・などと、ジージはたわむれに考えてしまったのであった。
posted by ガンコジージ at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月04日

新しく知ったこと

「免田栄 獄中ノート 私の見送った死刑囚たち」その4
ジージの知らなかったことが3つある。ひとつは、死刑囚は刑務所へ入れられないということ。拘置所に死刑執行まで置かれるのだという。なぜなら、死刑囚に対する刑罰は、唯一死刑のみなのであり、他の懲罰的な刑は課せられていないからだという。
いわれてみればなるほどそういうことか、と思う。これが法律なんだなあ、と変なところで感心してしまった。

さらに、死刑囚はどうせ寿命よりも前に強制的に死ぬのだから国民年金には加入しない。というか加入しても意味がない、とされる。そこで、免田氏のように35年半も拘置されていて出所した場合など、おかしなことになるのである。
彼の場合、彼個人が意図して国民年金に加入しなかったわけではない。国家が重大な過失を犯してやむなく加入できなかったわけである。だから、その過失が明らかになったら、当然のことながら国家は賠償責任を負わなければならなくなる。
ところが、四角四面の条文解釈で書類手続きが進んでしまうのだなあ。事情はどうあれ、積み立てのお金を払っていないんだから、書類上はどう考えても年金未加入者です、ということでハネられてしまうのである。あ、そうなの。と、これもジージは頭をかしげてしまったのだった。

その次は、もっとおかしい。根本的におかしいことなのである。一度は死刑判決が確定して、いつ殺されるかわからない恐怖に苛まれながら35年半を過ごした。そして、無罪判決が出て自由の身になったのだが、じつは死刑確定判決が取り消されていないというのである。
えっ、なんで。それはどういうこと。ジージとしては、2度も3度も首を傾げざるをえなかった。そもそも氏の釈放の仕方がふるっていたのである。
引用「判決後の身柄扱いだが、傍聴人を全て退廷させ、それから私の側にいる看守を退席させ、裁判所の職員が私の側についた。ここで検事が椅子からたって一枚の書類を裁判所に提出し、一読した裁判長は弁護人に渡し、それは私の所に来た。「本日、釈放する」と記されていた。」
釈放の理由はぜんぜん明らかにされず、一連の儀式でそれを覆い隠してしまった。理由を明らかにしたら、「原判決を破棄する」ということになるから、困るものが出てきてマズい、ということなのかなあ。そこのところ、まったくジージにはわからない。
とにかく「釈放する」けれど「死刑判決」はそのままになっているという奇怪至極な裁きになったわけだ。
無茶苦茶な判断で死刑囚を作り上げ、35年半を獄中で暮らさせた責任を負うべきものたちが現に存在し、その責任を糾さなければならなくなることを恐れたのかなあ、と考えるのはこの流れを見ると、とくべつ穿ったことでもないようにジージは思うのである。
「司法の安定」を優先するといった基本姿勢は、ここでも貫かれたということなのだろうか。まったくもってどこまでも頑な人たちであることよ。

最後にもうひとつ、触れておきたいことがある。氏が獄中にあったとき外部から送られてきた郵便物が、数個の段ボール箱に詰められて自由になった彼の所へ送られてきた。その内容の浅ましさに、ジージとしては愕然とせざるを得なかったのである。
あまりのひどさに引用する気もないが、その流れの中で、立川談志師匠が「免田はやっている!」と公の場で発言し、間違いを指摘されてもぜんぜん責任を取ろうとしなかったという事実を重ねることができるのではないかとジージは思った。
あのね、談志師匠。あんたガンコ精神の発揮の仕方を間違ってるんじゃないかね、とジージは思わざるを得なかったものだ。この国では、端切れよく言い切ってしまうと、「よく言った」と持ち上げる向きが多いから、ついつい調子に乗ってしまうのかね。

最後の引用をしておこうと思う。
「はじめに」のラスト近くにこんな言葉が書かれていた。チェコの司法記者の言葉であるという。「日本人は公の犯罪に弱く、私の犯罪に強い」
なるほど、そういう性癖が染みついているのかもしれないなあ、とジージとしては思ったものである。
ともあれ、この本オススメ。
posted by ガンコジージ at 10:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月03日

吉田巌窟王事件「免田栄 獄中ノート」 3

「5章 刑場に消えた人々」には、吉田石松翁のことが書かれている。その記述の少し前に、免田氏に対し再審開始決定がでたときの様子が書かれている。引用すると、「明日の生命の保証もない同囚たちも喜び、翌朝、房内掃除のときに全員で胴上げをして自分のことのように喜んでくれた。」とある。
だが、地検の藤井洋検事が即時抗告をし、さらに免田氏に有利な証言をする証人を偽証罪で告訴する。それを受けて福岡高裁の青木亮忠裁判官が再審開始決定を取り消してしまうのである。
なんの根拠でこのような判断を下してしまうのだろう。それは「はじめに」に書かれていたように、「司法の安定」を第一義とし、個人の命を司法に優先させないという、転倒した判断基準が裁判所の側にあったからとしか思えない。
吉田石松翁についての記述はそのあとに続けて書かれている。世に「吉田巌窟王事件」または「昭和の巌窟王事件」として名高い出来事の裏話である。
吉田翁は1913年8月13日に名古屋で起きた殺人事件の主犯として死刑を言い渡されるが、獄中で頑強に無実を主張し続け、そのため激しい拷問を繰り返される。それでもなお頑強に無実を主張し続けた結果、心を動かされた秋田刑務所所長が事実を調べなおし、仮出所の手続きを試みる。
この所長の行為は戦前の出来事としては異例ともいえるものであろうとジージは思う。それによって、かろうじて死刑囚から生還したあとも、戦中の激しい空襲下もかえりみず、さらに戦後になっても、一貫して再審請求を試み続けるのである。
だが、あらゆる努力をすべて退けられ、ついには法務省正門前に座り込んで冤罪を訴えるに至るが、なおもとりあってもらえない。そこへ安倍治夫検事が通りかかり、事情を聞いて「主張に一貫性があり吉田の主張が信用しうるものと判断し、日本弁護士連合会人権擁護部へ案内した。(ウィキ引用)」
再審開始は1962年12月6日。無罪判決は1963年2月28日に出される。じつに50年の年月が費やされたのである。無罪判決についての簡潔なまとめがウィキにある。ほんとうならここに引用しておくところなのだが、ジージはそのまとめを読んでいるあいだに感動して涙が出てきて仕方なかった。そのため、ウィキ以上に簡潔にまとめることができない。できれば関心のある人はウィキで直接読んだ方がいいと思う。「吉田石松」で検索すればすぐにみつかるので、どうぞ・・・。
免田栄氏の本ではさらにその裏話があり、こういった劇的な展開の影にも、司法権力の陰湿な自己保身のやり方が見え隠れするのである。吉田巌窟王を救った安倍治夫検事は、さらに「もう一人の巌窟王・免田栄」という文章を公表し、それによって法務省幹部の逆鱗に触れ、当時の法務大臣中垣国男によって函館地検行きの片道切符を渡されてしまう。
一度確定した判決を覆すのには、囚人本人の身を削る莫大な努力だけでなく、周辺におけるこうした人々の自己犠牲が必要とされることを、ジージは痛感させられたものである。
無実を叫ぶものは、いつ果てるとも知れない絶望のまっ只中にあって、たまたま出現する自己犠牲の精神にあふれた個人の登場を待ちつつ、賽の河原の石積みに似た行為(再審請求)を続けなければいけない。それは偶然が向うから近寄ってくるのを待つに等しい努力といえるのではないか。
偶然・・・つまり、この偶然に見放されたものは、莫大な努力を積み重ねながら、ついには死刑台の露と消えなくてはならないのだろうか。ジージとしては、裁判員裁判などというものよりも、警察・検察・裁判所(司法権力全体)のこういった理不尽にくさびを打ち込む制度の方が、よほど緊急に求められているような気がしてならないのである。
吉田石松翁は無罪判決が出ておよそ10ヶ月後に老衰によって他界する。全人生を冤罪とたたかうことに費やした人物であった。ジージはこのことにも激しく胸を打たれ、涙を禁じ得なかった。
posted by ガンコジージ at 09:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月02日

読書「免田栄 獄中ノート」その2

「はじめに」のすぐあとから、事件の全体像が語られていく。貧しい生い立ちからはじまり、事件のあった当日周辺における自身の行動をたどり、ついに逮捕されるまでと、厳しい尋問と拷問の日々が克明に綴られていく。そして自白から死刑判決へ、さらに死刑囚としての獄中の日々が展開されていく。90頁に至り、非常に特異な場面が書かれているのに出会う。
引用「旧法の確定者で、本所にいる者は毎日処刑が実行され1日に2人、あるいは1週間に7名も行なわれた。・・・中略・・・刑場に連行された者を、刑務所と藤崎拘置区の中程を通る道路にバスを止め、刑場の裏口から入れて処刑する。このために一般の人が多く集まって見物する。たいへん「開放的」な処刑がこの頃行われていた。」
公開処刑に近い状況である。そして、見物する庶民たちは、この部分には書かれていないが、無慈悲な冷笑や悪罵を死刑囚に浴びせるのである。それは、他のところに書かれた記述で推し量られる。
たとえば、刑務所の塀が台風で壊れて獄舎の窓が丸見えになったとき、道を通る庶民は、獄窓から娑婆の風景をながめる死刑囚たちを見て、ことさらに嘲るのである。

これは免田氏の前を通り過ぎていった無数の囚人たちの死に触れた「5章 刑場に消えた人々」に書かれているエピソードである。そしてここは、ただ読んでいるだけで、ジージの胃が痛くなるような苦しい感覚に襲われる部分である。そのときジージは道を歩く庶民の側にいる。嘲らないまでも目を逸らしてそそくさとその場を去る、いわゆる「良識的庶民」程度の位置にしかいない自分を感じるのである。
刑死した囚人のなかには、少なくとも極刑が妥当な判断かどうか、あきらかに疑わしいものがいる。さらにどこから見ても無実のものも多数いる。見送った死刑囚の半数近くが疑わしいと、免田氏は感じている。いや、獄中での具体的な検証から、それを明確に判断している。
そのような人々を死地へ追いやったものたちが、社会的に安穏とした立場にあり続け、天寿をまっとうして満足げにあの世へ旅立つ。彼我の落差の激しさにジージは慄然とせざるを得ない。彼らの生き様を見ていると、まるでみずからの罪をすべて死刑囚に背負わせ、それによって自分の罪が清められたと勘違いして満足しているような、あまりにも罪深い思い込みがあるのではないか、と思わざるを得ない。このことは、裁判員になる可能性のある庶民が知っておかねばならないことだと思う。人を裁く側にいる者、裁判員裁判を主導する者の無慈悲を見過ごしてはならないと思う。その無慈悲に手を貸してはならないと思う。
他人事として、死に行くものの道程を、はやしながら高みの見物で見送る庶民とならないために。いや、なにもかも遠ざけて、見ない振りをしてそそくさとその場を去り、罪を免れようとする、悪意を胸の奥深くに隠した偽善者とならないために。
posted by ガンコジージ at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月01日

読書「免田栄 獄中ノート」その1

正確には「免田栄 獄中ノート 私の見送った死刑囚たち」という。数回に分けてブログにアップする予定。まず第一回は、「はじめに」の冒頭にある文章を引用することで開始される。
「私は犯してもいない殺人の罪で死刑を言い渡され、1949年(昭和二四年)一月から34年6ヶ月の年月を、死刑という重い十字架を背負わされて、まったく自由のない獄舎で、重い心の鎖につながれた毎日を過ごしてきた。・・・中略・・・濡れ衣をはらし、社会に帰った私は、当時の熊本県人吉署捜査係長福崎良夫氏にあって感想を求めると、「俺たちは仕事でやった」と言う。私を起訴した熊本地検の野田英夫検事は「いまさら非難するな」と言った。最初に死刑の判決を言い渡した熊本地裁八代支部の木下春雄裁判長は「ご苦労さん」とだけ言った。」
このあと、免田氏はすべての関係者を実名で書く。警察、検察、裁判所において冤罪を構成したものたち、従容と死地に赴いていった死刑囚たちも実名で書く。さらに、彼の周囲に群がった、これは名を挙げることもできないほどたくさんの庶民という怪物たち。
この本を読んで、それらの魑魅魍魎たちのおそろしいまでの恣意的な意図によって、ひとりの人間が押しつぶされていく様を、ジージは見たような気がした。まさに「はじめに」というたった3頁の文章で、世の無情とたたかったひとりの人間のほとんど絶望的な苦闘を見せつけられたように思った。
上告があってからそれを棄却するまで、なにも調べないで判断に至ることを恥じない最高裁の裁判官たち。まずは司法の安定こそ個人に優先すると主張する最高裁長官。さらに、退職時の記者会見で「私は百点満点、いうことなし」と豪語した、別の最高裁長官。彼は再審請求の異議申し立て(特別抗告)を棄却しながら、自分の司法人生を百点満点と評価してみせたのである。
これらの人々が、ロクに検討もしないで、ひとりの人間の命を弄び、軽々と死地へ追いやる。そしてそれが間違いであるかもしれないとは、毫も考えないのである。なるほど、司法の番人になるには、まず無神経になることが必要なのか、とジージは思わされたものである。
ジージの知り合いのなかには、生理的嫌悪感からこういう事実と向き合うことを忌避する人もいる。しかし、この「はじめに」は、こういった本を読むのが苦手だという人でも、少し我慢すれば読み切れるほど短い。事実を事実として知る努力をいささかでもしようと思うなら、嫌悪感をほんのちょっとだけ押さえて読むことをお勧めする。
わずか3頁のこの文章は、のこるすべての頁を凝縮させたものである。免田氏の苦痛と絶望と怒りの34年6ヶ月に、少しでも向き合う気持ちがあるなら、まず読むことをお勧めする。
そして、読みながら自分も参加するかもしれない裁判員制度について、考えをめぐらせてほしい。ジージはそのように思った。
posted by ガンコジージ at 09:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月24日

裁判員の選任手続き

プロバイダの長い長いメンテナンス作業により、一日だけ穴があいてしまった。ちょっと残念!というわけで、ブログ再開。

新聞を読んでいたら、裁判員の選任手続きで「死刑制度絶対反対」の意思表示をしたら裁判長の判断で裁判員候補からはずされるとみられる(ジージ注・・・いちおう非公開なので明確な基準ではないらしい。たぶん、今後この考え方は改められるだろう)と書いてあった。ジージも死刑は絶対反対だし、裁判員制度も反対だけれど、これには「あれっ?」と思った。
このような判断で裁判員が選任されるということは、なんだかすごく一方的な気がしたのだ。これに正当性を持たせようというなら、もう一方の考えにも釘を刺しておかないと、やたらな気分だけで死刑判決が出されたり、そうでなくても有罪判断の乱用がでてくるのではないか、と思ったのだ。
気分的には限りなく有罪だと思うけれど客観的証拠がなく、一貫して否認している場合、これは「疑わしきは被告人の利益に」が原則になる。しかしやっぱり「気分としては有罪なんだけどなあ」と悩むのが普通だろう。
そのとき、「どう考えたって有罪だ」という気分を優先して有罪(ときには死刑)を迷わず選ぶ裁判員はいると思う。
だが、気分的には有罪と感じても、証拠もなにもないのなら、たとえ自白があっても、場合によったら(涙をのんでみずからの気分を殺し)無罪を選ぶことはありうる。その判断力を持たないと、裁判員になる資格なんかないのではないか。
いや、警察や検察、裁判所にしても、同様の気分に襲われるときはあるはずだ。そのとき彼らが「(死刑を含む)有罪」判断にむりやり傾くのは、気分の動向を決める基準に地位とか権威とか名誉とか沽券とか、けっきょく庶民の気分とまったく同じ、根拠のない判断にしがみつくことがあるためではないか。

こう考えてみると、「人が人を裁けるか」この設問はやはり根本的な問いかけになるのだなあ、とジージはつくづく思ったのだった。
posted by ガンコジージ at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月20日

死刑擁護85%の実情

犯人憎しの感情はジージとて同感だ。しかし考えておかなければならないのは、無実の罪で死刑になる人たちがいるかもしれない、ということだと思う。
いま、「免田栄 獄中ノート 私の見送った死刑囚たち」を読んでいるところ。通しで読み終わったら、ブログに書きたいと思っている。その触りの部分だけでも、重要な記述が多い。
免田さんが死刑判決を受けて獄中にあったとき、たくさんの囚人の死刑執行を見送ったという。そして、彼自身の感覚によれば、その半数に「まちがいなく有罪なのか否かわからない」事例があったという。そのことを考えたい。
そして、彼が自由を獲得したのち、当時の警察や検察、裁判所の関係者に会ったとき、彼らのなかには「俺たちは仕事でやった」「いまさら非難するな」というような態度で言い訳するものがいたという。完全な居直りである。
居直る人たちは、もしも死刑が執行されたあとで無罪とわかったときでも、「チッ!」と舌打ちするくらいで終わるのだろうか。そのあと、なにくわぬ顔をして同じことを繰り返すのだろうか。仕事だから仕方ない?

死を持って償えという感情はわからんではない。ジージとて、身内に同様のことがあったら、怒髪天をつく勢いになってしまうことだろう。でも、半数の「?」に接したとき、まちがいなくジージは狼狽する。たとえ相手が自白しているとしても、どうしても完璧に確かめたくなるだろう。
あんた、本当に犯人か?
精神的肉体的に追いつめられて自白していないか? 
人生にやけっぱちになって、死のうとしていないか?
そして一方で、死刑擁護論者に問いたい。
無実であるものが死刑になる可能性を考えても、死刑はあった方がいいと思うか?
自分に、他人の死を決定する権限とか判断能力とかが、あると思うか?
自分が死刑囚になるような状況に、ある日あるとき突然追い込まれてしまう可能性は、じつは誰にでもあるということを知っていて、死刑に賛成できるか?
とても甘い考えから、自分はまさか無実の罪で死刑判決なんてうけるはずがない、と思っていないか?
いくら無理矢理とはいえ、ウソの自白をするほど自分は軟弱ではない、なんて妙な自信を持っていないか?
自分が死刑に値するか否かを判断するのは、自分ではないということを忘れていないか?
死刑擁護85%の実情というのは、そのような可能性を本気で考えた末のことなのかどうか、ジージにははなはだ疑問なのである。死刑を廃止したからといって、罪をおかしたものに対して罰を軽くするということには、必ずしもならない。全体像として、ジージはそんなことを考えるのである・・・。

同時に、誤捜査・誤判断によって人を無実の罪におとした関係者の処罰についてこそ、厳しくするべきじゃないか、とも思う。いくら間違った結果を導いてしまっても、せいぜいその後の出世に響くくらいでお咎めなし、というのでは、人生に終止符を打たれたものや大きな痛手を負ったものたちの無念は晴らしようがない。
死刑擁護がどうのという前に、これをなんとかしないことには、世の中なんともやり切れない気がして仕方ないのである。
posted by ガンコジージ at 10:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月16日

守大助勾留日記『ぼくはやってない』を読む

彼の日記の部分はともかく、こういう場合、ジージ自身はいつもできるだけ事実の部分で真偽を検証するように心がける・・・ようにしている。
もちろん個人の力量の範囲ではほとんど不可能事に近いことではあろうが、とにかく心がけるようにしている。この事件の場合、やはり筋弛緩剤を点滴に混入して人を死に至らしめることができるのかどうか、という点が最も気になるところだった。
筋弛緩剤はアンプルに粉末状ではいっているらしい。アンプルの口をカットして、中に水を入れて溶かし、血管に注射して使うのだという。この事件では、点滴ビンに注入して長い時間をかけて点滴させ、死に至らしめるなどした、ということになっている。血管に注射するよりもゆっくりと注入して、死に至らしめることができるのかどうか、それは確かに疑問に思わざるを得ない。
医学的なことは、ジージはまるっきりのシロウトだけれど、点滴液に薄めていれたものを注入するよりも、原液を注射で注入するほうがよほどそういう症状をつくる可能性が高いと思う。そのような検討はされているのだろうか。また、呼吸筋が動かなくなって、呼吸困難となり窒息状態から死に至る。それもよくわからない。
筋弛緩剤は一度にどのくらい注射したら、確実にそのような状態になりうるのか、検討したのだろうか。この事件で使われたのは臭化ベクロニウム(商品名マスキュラックス(静注用))というもので、手元にある『治療薬マニュアル』によると、4ミリと10ミリのアンプルがある。
初回量は0、08ミリから0、1ミリグラム(体重1キログラムあたり)、術中必要に応じて0、02から0、04ミリ(体重1キログラムあたり)追加とある。副作用としてまずショック(気管支痙攣、血圧下降、瀕脈、低血圧など)、遅延性呼吸抑制(自発呼吸の回復が遅くなる)。そのほかに徐脈、瀕脈、低血圧などや、吃逆、気管支痙攣、発赤、発疹など、と書かれている。
静注後の血中濃度半減期は最短で11分、長くても76分。効き目がでるまで2分から3分で、効き目の持続時間は30分となっている。また、塩化カリウムや塩化カルシウム製剤と併用すると筋弛緩作用の効果が減弱するとも書いてある。
普通、点滴はあまり短時間では行なわない。急速にやると患者に負担がかかりすぎてよろしくないので、ゆっくりやる。効き目の持続時間がせいぜい30分くらいしかない薬剤を混ぜてゆっくり静注したとして、どれだけ致死量に至る薬剤を注入できるのだろう。
効き目を期待するなら、少なくとも30分以内に全量が点滴される方が有効なのではないか、とジージなんかは思う。アンプルの容量が最大10ミリグラムとなっているので、体重が50キロの人の場合でいうと、アンプル1本で初回量の2倍を注入することになる。この量が多いのかまだ安全圏内なのか、シロウトのジージにはわからない。しかし、点滴に1時間以上かかるとしたら、効き目の持続時間30分から考えて、それほど強烈な利き方をするとは思えないような気がする。少なくとも、筋弛緩剤が致死の原因たりうるのかどうか、もっと確実な根拠が欲しいように、ジージは思った。
死因との因果関係はちゃんと立証されているのだろうか。かなりひいき目に見ても、クロというよりかぎりなく灰色である、という程度にしかならないのではないか、などとジージとしては考えてしまうのである。
ちなみに、『治療薬マニュアル』では以上の記述のほか、新生児や乳児では成人よりもやや高い感受性を示す。カルシウム拮抗剤を長期間投与されている患者の場合、筋弛緩作用が増強される可能性がある(以上要約)と書いてある。判断が混乱してくる記述ではあるが、こういう部分についても、検察弁護双方はちゃんと検討しているのだろうか。まあ、本の場合は、一般向けにわかりやすくするために、ごちゃごちゃとしたところは省かれているかもしれない。もっと詳しい資料があるのだろうと思うが、そのあたりについても、ジージはいっそう知りたくなったのである。
そして、こんな医薬品に関する検討などについても、これからの裁判員裁判において、シロウトの裁判員たちがどれだけ正確に吟味できるか、ジージとしては、はなはだ疑問に思わざるを得なかったのである。
posted by ガンコジージ at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月06日

横浜事件「実質」無罪

かつて横浜事件で免訴という聞き慣れない判断が出たとき、ジージは「なんじゃそりゃ」と首を傾げてしまったものである。またそのとき、裁判というやつはもってまわった奇妙なものの考え方をしないといけないものらしい、と思ったものだ。
今度の「実質」無罪というのにも、ジージとしては同じような感想を持たざるを得ない。さらに、この事件についてのたたかいはまだ続いていたのか、と本音であきれてしまったのであった。
こねくりまわし、ひきのばし、ごむりごもっともながらやむをえずしかしまたなんともいかように・・・みたいなものの言い方を、なんと60年以上にわたって、この事件についての裁判は続けてきたんだな。法文の字句的解釈が先であって、それによって甚大な被害を被ったものに対しては、ほとんど考慮しない。そういうものなのか、裁判とは・・・。
その奇妙なやり方によって、やりたい放題した加害者がのうのうと生き延びる理不尽。

もう30年程前になるが、某テレビがドキュメントでとりあげたのを、見たことがある。ラストがすさまじかった。拷問された人と拷問した特高係官が、数十年を経て直接対決したのだ。
元特高係官は前身を隠し、豆腐屋を営んでいた。それを執念で探し出し、彼の元へ赴き、「あなたOOさんですよね」と問い詰めるのである。
問い詰められた男は「違います。違います」と慌てて否定する。この男が直接手を下したのか、そうでなかったのか、TV画面からはわからなかったが、どちらにしても彼を含めた警察の拷問で獄中死した人がいたのだ。
元特高係官のうろたえきった足元(顔は映さなかった)が、いまも目に浮かぶ。
特高刑事たちはいささかフニャケタ判断により、幾人かは戦後に有罪判決を受けたのではなかったか。しかし、当時の検事や裁判官たちはどうであったか、残念ながらジージはよく知らない。05年の再審決定のとき、雑誌「詩学」に特集記事が載っていたのを読んだが、寄る年波には勝てず、不甲斐ないことにいまはほぼ忘れている。

人間の記憶とはこんなふうにあいまいなものなのだ。今度、民主党小沢氏の献金疑惑で検察は不起訴を決定した。検察の責任はそれで終わりか?
なんとかならないものかなあ、とジージは思う。検察のこういったやり方にしても、疑いをかけられたものをさんざん痛めつけ、ときには彼らの人生を台無しにしてしまっても、検察はそのことによって罪を問われることはない。
そんなのアリか?
冗談じゃないゾ。他人の人生をヨレヨレボロボロにしておいて、それは済んでしまったものです、などと言ってテンとして恥じないのなら、そんな仕事、誰にだってできる。ジージみたいに忘れっぽいオバカッチョにでもできるじゃないか。
特高警察は、怪しいなと思ったら取っ捕まえてきて、ボコボコにして自白させればいいだけだ。それが許されるのなら、ジージにもできる・・・けど、やらない。そんなでたらめは、自分に対しても許せないもんな。
裁判官はどうだ。このブログでいうと、「権力へのへつらいの仕方」で紹介したローラント・フライスラーみたいなやつ。さらにフライスラー夫人のその後の生き方。そんなやつらが肩をそびやかして生きることを、これからは絶対に許さないでおきたい。
そういう意味においても、横浜事件の関係者たちが、出来事の風化とたたかいながら、なおも真実を追究してきたことに、敬意を表したい。でなければ、次になにかあったときでも、横暴なものたちのヤリ得になってしまう可能性を、未来に継続していくことになりかねない。そういうことを将来に向かって許してはならない、とジージは切実に思うのである。
posted by ガンコジージ at 09:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月10日

踊らされないようにしたい

舞鶴女子高生殺害事件は、京都新聞の以下のサイトが事実や経過について詳しい。
http://www.kyoto-np.co.jp/info/jiken/maiduru/080508.html
これも東金事件同様、忘れてはならない事件であると思う。
世の中が忘れてしまえば、真実はどんどん闇の向うへ溶けていってしまう。
どちらがどうという判断は簡単にはできないけれど、忘れることの罪深さをジージに突きつけてくる、重たい事件であるといわねばならない。
かなり以前にこのブログで書いた御殿場事件もしかり。いや、そのほかにも、忘れてしまいそうな事件がものすごく多い。
なんでこんなに多いのか。それほど気になる事件が多いのに、少ない判断材料を与えられただけで、わずか数日で罪の有る無しを判断させられる。そのことで忘れるべきでない事件の渦のなかに、意図しないで巻き込まれていく。
そのことがおそろしい。
はじめての裁判員裁判で有罪を宣告されたのはどんな人であったか、覚えている人はほとんどいないだろう。かくいうジージも、かろうじて記憶しているにすぎない。
いま彼はどうしているだろう。じつは、高齢の彼は獄中にあって、孤独なたたかいを続けている。
忘れてしまった世間に正面から向き合い、ひとりで異議を唱えている。是非はともかく、彼はなぜか抵抗をやめない。忘れることで彼を罪あるものとして固定してしまう世間に対し、必死になって異議を唱えている。
舞鶴の事件においても、おなじように絶望的なたたかいを強いられている老人がいる。世間からいくぶんはずれたところにいたというだけで、彼を早々と罪あるものに固定してしまう、そういう無責任に手を貸したくない気がする。
真実を知るのには、世間というものはあまりにも忘れっぽすぎる。というより、あんまりこのような事実が多すぎて、覚えているのが困難なほどである。
そのようななかで、裁判員制度はお祭りのような参加システムになっていはしないか。庶民は踊らされていないか。気になって仕方ないジージなのである。
posted by ガンコジージ at 09:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月11日

試行的徴兵制のようでないかい?

新聞に裁判員に選任された人の記者会見での発言が載っていた。ジージとしては、じつに面白いと思った。
いわく、まるで徴兵制じゃないか。いわく、守秘義務なんて守り続ける自信ないぞ。故意にしゃべろうとは思わないが、酒を飲めば、ぽろっとしゃべってしまうかもしれない。
いやまったくその通り。ほとんど徴兵制と同じ。もしかしたら、徴兵制を試行しているんじゃないか、と思うくらいの制度だと、ジージも思う。
赤紙みたいなものを送ってきて、「来い、来なけりゃ罰するぞ」「内容をしゃべったら罰するぞ」「死刑でもなんでも、しゃんと判断せんかい」「判断材料はちゃんと出しているだろう。これがあれば、3日もあったら十分じゃないか」という感じでは、やっぱり納得がいかないなあ。
お国のやることですから、間違いはございますまい、というのは菊池寛の短編小説(題名は「最後のひと言」だったかなあ?)にあったセリフだが、それにはいっぱいの皮肉が込められていた。
でも、皮肉部分をさっぱり抜き去って、丸ごと肯定で固めてしまうのはどうかねえ。死刑判決も含めて、他人の人生にシロウトが判断を下す。まさに赤紙一枚で鉄砲を持たされ、即席訓練で戦地に赴かされ、やれといわれたから仕方なく銃をぶっ放して相手を殺傷する兵士と同じじゃないか。
自分たちに歯向かってくるものはすべて悪のかたまり。だから、殺すべし!
一段高いところに立たされ、死刑から懲役に至るまで、すべての刑罰について、相手に押し付ける実動部隊をやらされる。これって、どう考えても納得がいかないなあ。
徴兵制の試行、そう考えたら、この制度の流れは極論的な理解になってしまうだろうか。そして、裁判員として関わった人が増えていくにつれて、この制度を批判することの力が失われていくことはないんだろうか。
たとえば、戦場に赴かされた兵士たちに犠牲が積み重なっていくと、逆に戦争を終わらせることが困難になっていくように。人的物的被害が拡大したあとで反対を叫ぶと、それでは戦死したものたちは犬死にというのか、という反論が出てくるように。
自分のところまで及ばなければ平和な日常をむさぼっていられるが、ある日とつぜん目の前に姿をあらわす非日常には戸惑わざるを得ない。
それは判断を後手後手にまわしたツケを払わされている、と言うことではないか。
イヤなのにやらされた、なんでわたしが(おれが)犠牲にならなきゃいけないの。
うーん、ジージとしては、そういうセリフをずっとあとになって小さい声で呟きたくないものだと思う。
posted by ガンコジージ at 09:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月25日

裁判員裁判における判断材料の信用性

足利事件を裁判員裁判でやってみる。
当時の検察は、「DNA鑑定はものすごく精度の高い鑑定方法です」と力説して、「犯人はこの人に間違いありません」と言った。さらに被告人は当初「わたしがやりました」と自白さえしている。
この場合、裁判員としては、もうまちがいなく有罪と判定するし、もしかしたら死刑が適当と判断するだろうな、とジージは思う。客観的証拠もあるし、自白しているし、これ以上なにかを疑う余地なんかありはしないわけで・・・。
しかし、これほど確定的と思われた判断が後年ひっくり返される。そのとき、最初に判断にかかわった裁判員は、守秘義務というものによって秘密を厳守しなければならず、なんの発言も許されない。
こんなときこそなにか発言しないではいられないのが人間の普通の反応と思うのだが、それをやると罰が与えられてしまうのである。これ、なんだかとっても理不尽。
さて、次は再審の場合だな。DNA型再鑑定によって再審が決定されたわけだが、検察と裁判所は最新の鑑定法だけで判断を下し、弁護側は最新の方法と旧型の手法による鑑定を同時に行なっている。
弁護側の場合は、旧型による再鑑定でDNA型の違いを判別できるか否かを調べており、結論としては、あきらかに旧型鑑定法でもDNA型の違いを判別できたはずであると主張している。
一方、高等裁判所による再審開始の決定は、最新の方法による結果のみで行なわれ、検察側も再審において最新の鑑定法による証拠採用を決めているだけである。
ちょっとややこしいけれど、ようするに検察と裁判所は旧型で再鑑定したらどうなるか、ということについてはできるだけ触れたくないみたいな感じが漂うわけで・・・。
こういう経緯の中で、まあやるはずのない裁判員裁判ではあるが、たとえばやってみたらどうなるのだろう、と考えてみる。
ジージだったら、「検察は旧型による再鑑定結果を提出すべきである」と厳しく主張するだろうな。さらに、はじめに担当した検事に質問しなくちゃいかんと思うだろうな。それに加え、いつの世でも当代最高の精度を誇ります、と胸を張って主張されるDNA鑑定の不確かさを、しつこく追求するだろうな。
例えば試料を採集する際にコンタミネーション(不要なものが混ざってしまう)が起こる可能性はないか。これは意外にも大いにあり得るらしいし・・・。
特別な例として、複数のDNA型を個人が保有する例はないか。これも広い世界には具体例があるらしいし・・・。
その他、いまはまだ判明していない事実が明るみに出る可能性も完全に消えていないじゃないか。
そんな状況で、わずか3日やそこらの会議を開いて、シロウトの裁判員になにが判定できるのかなあ。
判定するための資料が少なすぎる、という判定は出しちゃいけないのかなあ。出せる決まりになっていないとしたら、それは無理矢理でも、「いま出せ!」と言われているに等しいことだと思うし・・・。
そうだよ。数日しかない会議で、判断材料が十分かどうかは裁判所と検察にしかわからないわけで、それに疑問を持ってもなお、絶対にすぐに判断を下さないといけないなんて、無茶な話じゃないか。
ジージにはなんとなくそのように思えて仕方ないのである。
できればこういう疑問を取り除く努力が日夜払われる状況があってほしい。それがないというのなら、裁判員裁判には関わりたくない気分であるなあ。

足利事件の再審公判では、取り調べ録音テープの証拠採用と、当時の担当検事の証人尋問が決まったらしい。
事態は流動しながら進むもの。裁判員裁判にも流動する可能性に対して柔軟に対応できる体制が求められてしかるべきじゃないか・・・?
posted by ガンコジージ at 09:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月24日

検察審査会の決断

神戸第一検察審査会が神戸地検の判断に対して真っ向勝負だってさ。福知山線の脱線事故で、JR西の元3社長を「起訴相当」と議決したのだ。
ジージはうれしくなってしまった。なかなかやるねえ。庶民が裁判に関わるっていうことは、こうでなくっちゃいかんなあって思ったのだ。
新聞ではJR西の社内でもこの決定に賛同する意見が多いらしい。ということは、社内の空気それ自体が経営トップのやり方に批判的になっているということなんだろうと思う。
そのような雰囲気の中で、歴代経営トップたちは、自己保身のために事故調との暗闘を演じていたわけだ。
隠密的情報収集や調査書類の書き換え画策や提出書類の隠蔽、事故調委員や意見聴取会の公述人の人事を意のままにしようとしたり接待したり賄賂と見られかねない金品を贈ったり社員の事情聴取に向けて供述のやり方を指導したり。
そういう画策の一方で神戸地検が元3社長を不起訴としていたわけで、世のおおかたの感覚からはほど遠い検察判断が、堂々とまかり通っていたのだ。
「同委員会(JR西本社内の総合安全対策委員会のこと・・・ジージ注)の資料は全体で70〜80ページ。うち函館線脱線事故について触れたのは付属資料の中の5行程度で、審議時間は2時間あまりだった」
その事実を根拠にして、地検による不起訴理由は、「委員会で、特に函館線事故が話題になった事情は認められない」ということ。だから「事故現場カーブにATSを整備すべき義務は、同委員会の約2ヶ月前に開かれた鉄道本部内の「安全対策委員会」のトップで、当時鉄道本部長の山崎社長一人にある」としたらしい。
(事実を無視して議論もしなかったら責任がないことになる。それだったら、まともに扱わない方が保身に役立つわけで・・・それなら、5行を書き入れることさえしない方が良かったのかな?)
庶民参加による検察審査会は、検察のこの決定を覆したのだ。すでに事故から5年、来年4月に元社長たちが問われていた業務上過失致死罪の控訴時効を迎える時期が来ていた。これはかなりめでたいことと言わなければならない。
あとはこの決定を受けた神戸地検がどうするかにかかっているわけだが、さて、ジージとしては、この裁判を裁判員裁判でやったらどうかなあなどと思う次第。
どうかね、庶民感覚で判断してみようではないか。わずか3日で超特急の結論を出そうではないか。検察にも裁判所にも左右されないで、断固として元社長たちの罪を裁こうではないか、なんちゃって。
これまで彼らがいろいろと画策してきた、闇の行動についてもちゃんと明るみに出して、裁判資料としてしっかり検討したらどうだろう。
裁判員裁判は庶民が庶民を裁くなんてことではなく、権力者の犯罪についてこそ行なわれるべきで、そのときにはじっくり時間をかけて審理を尽くしたらいいんじゃないか。
そのようにしたら検察や裁判所が権力者にやさしいなんていうことがなくなるのではないか、なんて思うジージなのでありました。
posted by ガンコジージ at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月22日

足利事件再審初公判

検察の冒頭陳述の、なんというみじかさよ。ジージはビックリした。全文引用しても、これでは意味をつかめない。
「菅家利和さんは本件の犯人ではなく、検察官は、本件については早期に無罪の言い渡しがなされるべきものと考える」(な、な、なんだ、こりゃあ。わずか53文字・・・以上で全文ですよ!?)
いつも執拗に展開される「なぜの部分」が完全に抜け落ちているじゃないか。理由なしの陳述かい。
よくこんなもんで裁判をやるなあ、とジージはあきれてしまったのである。なぜの部分が抜け落ちた裁判で、こういうとき裁判官はどのようにして判断すればいいのだろう。
当然のこととして、「判断する材料を提出しなさい」ということになるんだろうと思う。そうでなければ、判決文に明確な根拠を書き残せないもんな。
いやいや、もしかしたら検察と横並びで、根拠を示さない超短文判決が出たりして。そうなると、いよいよ裁判員裁判というものに、疑問符をつけたくなってくるんだなあ。
そうなったら、検察と裁判所って、やっぱり国家権力の一翼を担っているところなんだってことが、はっきりしてくるもんな。
裁判員裁判は、そういう国家権力の片棒を庶民に担がせる制度なんだって、だれの目にもわかってしまうわけで・・・。
裁判長は「有罪の決め手になったDNA鑑定を検証するための証拠調べや証人尋問を行なうことを決めた。」「「自白」に関しても、取り調べを録音したテープの提出を検察側に命じるなど前向きな姿勢を示した」(以上新聞からの引用)という。一方で検察幹部の中には「テープは無罪とするための証拠にはあたらず、公益性もない」(これも新聞からの引用)と否定的な見解を示すものもある、とのこと。
さて、どのような判断が下されますか、この事件の推移は目が離せないなあ、とジージは思っているところなのである。
posted by ガンコジージ at 09:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月12日

裁判員と守秘義務

9日の新聞で横浜地裁で行なわれた裁判員裁判について次のような記事が載っていた。
「会見では、評議の結果について「思いと意見が通じた」と語った裁判員の発言について、立ち会った地裁職員が取材陣に報道を控えるよう促す場面があった。」
これ、いったいなにがあったのだろう。守秘義務の範囲を超えた発言をしたのだろうか。それを確認するために職員が同席しており、これは逸脱している、と判断したのだろうか、もしかしたらそうかもしれない、とジージは判読した。
法律のことは門外漢だからとんでもない間違いをしているかもしれないが、自分としてはそれほど外れていないと思っている。
で、そのことである。この守秘義務は終生ついてまわる。言論統制に似たこのような苦痛に対して、一日1万円(だったかな?)とは、そりゃあ割にあわないぞ、とジージはびっくりしたのだが、さて、どんなもんだろう。
たとえばだなあ。これはひとつの例として思いついたことだけど、判決が最終的に誤りだったことが判明したとき、裁判員たちは釈明する機会も得られないまま、陰に陽に批判の目にさらされないといけなくなるわけで・・・。そういうとき、責任は誰がとってくれるのだぞい。冤罪に手を貸してしまうことがあり得るわけで、それでも自責の念にかられたまま「守秘義務ですから」と返答するしかないのかい。いやだなあ。
国家が個人に強制した行為について、個人が徹頭徹尾、国家に成り代わって責任を負わなければならないのか。そんなはずはないだろ。公の場に出たとき、裁判所の監視の目が光っていて、まるで治安維持法みたいに「弁士注意」「弁士中止」しまいには「守秘義務違反により処罰」・・・せっかく無理して裁判に出席してやったのに、どうしてそうなるの。いや、もしかしていつのまにか言論統制みたいになっていない保証はないでしょう。ジージはついつい、そんなことを考えてしまったのだ。

「法務省 裁判員制度コーナー」の
「Q&A Q10」
に「守秘義務」について書いてある。
国民救援会の「裁判員制度へのとりくみ」の中に
「守秘義務の廃止を」冤罪救済の道を狭めるな
という主張がある。
ともに参考になるので、興味ある人は参照してみてくれるかな・・・。
posted by ガンコジージ at 09:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月10日

裁判員制度、検察審査会

秋田地裁での裁判員の選任手続きに「裁判員制度反対」のタスキをかけて臨んだ裁判員候補者がいたという。へえー、骨っぽい人がいたもんだ、とジージは思った。彼の主張はなるほどとうなずけるものであった。「足利事件のような冤罪が起きる仕組みを司法に残したまま市民に参加を求めるのはおかしい」ということらしい。
まったくそのとおりである。まるっきりシロウトの市民を冤罪に加担させるような仕組みのままで実施に移されるこの制度。あぶなっかしくってやってられないのである。これは司法無責任を固定する制度であり、シロウトの市民に責任を転嫁する制度であるといえる。しかも、最終決定はちゃんと自分たちの手ににぎったままでの市民参加のかたちだから、ますます市民をオモチャにしているとしか言いようがない。
戦争への道筋の中で、施政者たちは「お前たちも賛成しただろう」と、庶民を同罪呼ばわりして自分たちの罪を軽く見せる。確かに賛成したが、施政者たちの責任と庶民の負うべき責任とは、まったく別種のものだ。それと同様に、この制度は「お前たちも判断に参加したではないか。責任はいっしょだろ」と見せかけ、実際にはじぶんたちの権限はしっかり確保しておいて、庶民に責任だけ分担させようという制度である、としか思えない。同じ手口に乗るなかれ。ジージはものすごく危惧するのである。
一方、10月5日の新聞に「明石歩道橋事故 4度目不起訴 地検、遺族に理由説明」と書かれていた。検察審査会が3回審議して3回とも「起訴相当」としているのに、神戸地検はそれを3回とも不起訴処分としたという。ジージにしてみれば、このことのほうにより多く目がいくのである。
庶民がみずからの思いを直接司法に反映するというのは、こういうこと言うのではないか。今年5月に施行された改正検察審査会法では、地検が不起訴にしても再審査をして起訴相当が再議決されれば自動的に起訴されることになっているという。司法が権力化して身内をかばうようなおかしなことをしたとき、それに真っ向から棹をさす、そういうことなら、ジージは参加してもいいと思う。積極的にやりたいと思うジージなのである。
法律についてはまるっきりのシロウトだけれど、冤罪事件などにおける再審請求にも、もっと広く道が開けるような仕組みができればいいだろうと思う。現行制度のままではなにしろ時間がかかり過ぎ、関係者の損失が多くなりすぎる。裁判員制度は、そういう欠陥を放置したまま実施されているのではないか、そんなふうにつくづく思うジージなのである。
posted by ガンコジージ at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月14日

裁判所は縦割りピラミッド型の官僚組織

NNN「ドキュメント’09」で「法服の枷 沈黙を破った裁判官たち」というのをやっていた。裁判員制度のこともあるし、いったい裁判官というのはどのような職業人なのか、興味を持って見た。まず数十年前にはじめて自衛隊に対する憲法判断を下した裁判官のことが語られた。面白いと言おうか、情けないと言おうか、憲法判断を逃げまくる裁判官たちの実態が明らかにされて、ジージは口をあんぐり!
地裁裁判長に対して裁判所長から書簡で圧力がかかる。余計なことをするな、といった調子である。それでも裁判長としてちゃんとした判断を出そうとすると、地裁のみならず高裁や最高裁、政府までもが動揺し始める。なにをする、それには触れるもんじゃない、といった姿勢がミエミエになる。貫こうとする裁判官にしたら針のムシロだね、これは。
裁判官は名誉欲があり、それは人一倍強い、と退官した裁判官は語っている。そして、ピラミッド型の組織構造の頂点に最高裁がある。最高裁の胸先3寸で、裁判官たちの運命が決められていく現実がある。どこの組織でも同じだ、と思うなかれ。司法というものは、権力的な支配構造を持っていたらまともに立ち行かなくなる。司法は憲法を頂点とし、法を背景に成り立つ組織でなければならない。・・・と、ジージは思う。
それなのに、裁判官が最高裁の意向に触れるような判決を下したら、以後その裁判官は閑職に放り出され、徹底的に干されてしまう。そりゃあないぜ。番組中「最高裁の上告棄却を覆すことは出来ない」というナレーションがあった。もし覆したりしたら、「オレの顔に泥をぬるつもりか」ということになるらしい。オレというのにはワタシというのも含まれるだろう。女性の最高裁判事もいるもんな。
「裁判官は国民と結びついていない。意図的に切り離されている」とも語られていた。関連して裁判員制度で考える。判断を下すための日程があらかじめ決まっていること。そして、公判において被疑者が「やっていない」と否認に転じたとき、裁判員たちは事実認定が十分にできるだけの時間を持ち得るのか。これまでなら、事実かどうかを判断するのに何十回となく公判を開き、あーじゃないこーじゃないと検討してきた。それをわずか2日や3日で決めることは出来るのか。
裁判官が一人当たり年間300件の裁判を抱える現実はある。だが、「裁判官は事件清掃人である」という言葉が気になった。警察、検察、裁判所が一体となって矛盾を隠し、できるだけすみやかに事件を処理してしまおうとしたら、裁判員はそれに対抗してなにができるのだろう。プロの司法官僚たちに、うむをいわさず押し切られるだけじゃないのか。
それとも、裁判員制度によって、官僚的裁判制度に風穴をあけることができるか。たぶん、裁判員がそこまでできるようになるには、守秘義務なんて言う縛りを含めて、裁判員制度に含まれるいろんな矛盾や問題点を、きちんと整理することが必要になるだろう。それが現在の裁判員制度にはまだない。そのことを頭に入れて、もっとしっかりと考えをまとめていこう。というふうに、ジージは思ったのであった。これ、役に立つ番組だったよ。
posted by ガンコジージ at 14:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月11日

疑わしきは○○の利益に

御殿場事件をネットで調べていたら、この事件がかなりいろいろなかたちで語られていることに気づかされた。
原告側、被告側に立って、まじめに議論しようとするものや、どう考えても恣意的に考えて、ほとんど遊び感覚で茶化しているような議論まで、山のように出会った。
ジージとしては複雑な気持ちになった。そしていささか疑問に思った。
もしかしたら、こういった事件(痴漢や強姦などの事件)においては、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の基本原則が損なわれ、「疑わしきは原告の利益に」と逆転している可能性はないか、というふうに。
原告は主観を表現すればそれで十分であり、一方で被告はみずからの潔白を自分自身で明らかにする必要がある。だったら、原告はどんな言い方でも許されるが、被告はそれに論理的に反証する義務を負う。
なんということだろう。あんまり一方的すぎないか。
そのような原則の逆転が、裁判所自体の判断によって行われている可能性に、いささか疑問を持たざるを得なかったのである。
まだこれはジージが個人的に感じた可能性であるに過ぎない。これからいろんなことを調べ、考えていきたいと思っているのだが、裁判所自体がそのように恣意的に判断するに至る可能性があるとしたら、裁判員制度における裁判員は、いったいどのくらい公平な判断を独自に下せるのだろう。
まさか、裁判所の恣意的な誘導に乗っかるだけじゃあるまいな。そんなふうな大きな疑問が湧き上がってきて仕方ないのである。
いまも調べていると、この原則から逸脱した判断が、あっちこっちに存在するらしい。また逆に、これは個人に対する原則であり、公権力に対しては適用すべきでない、という考え方もあるようだ。
公権力の犯罪可能性については「疑わしきは罰する」という原則が望ましいという考え方のわけで、「こいつは、なんだかむずかしいぞ」と、ジージは思っているところなのだ。
とにかく、ボロクソになりつつある頭だけれど、これからもいっしょうけんめい勉強しなくっちゃいかんなあ、と思っている次第なのである。

posted by ガンコジージ at 14:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月10日

冤罪に手を貸す可能性はないか

裁判員制度を考えていて、御殿場事件(御殿場婦女暴行未遂事件)というものの存在を知った。ジージとしては、これを裁判員制度でやったとして、どうなるかを考えたくなった。
この事件の場合、裁判員は事前にどのような資料を与えられることになるだろう。
また、元少女が暴行を受けたとされる日付を間違えていた(嘘の証言であったとも言われている)事実は、いつどのように裁判員に明らかにされるだろう。
取調べ中にひっくり返ったとしたら、裁判員に提示される資料にその間の経過はちゃんと含まれるだろうか。もしかしたら、ひっくり返ったあとの修正された証言しか目にすることは出来ないんじゃなかろうか。公判で弁護士が指摘したときに気がつく程度なんじゃなかろうか。
裁判員制度でこの裁判が行われ、かつ裁判員が担当しているあいだに証言がひっくり返ったとしたら・・・日付の認識が変わっても証言自体は合理的である、といくら検察が主張してもだれも納得しないに違いない、とジージは思う。
それよりなにより、わずか3日ほどで、その証言がひっくりかえるような局面が訪れることはあり得るのだろうか。はなはだ疑問である。
また、裁判員が担当しているあいだにこの変化がなかったら、彼らは(いや、ジージ自身でもあるのだが)彼女の証言を信じるか信じないか、どちらを選ぶだろう。
まさかと思うが、証言がひっくりかえっても判決を急がされることってあり得ないか。こういうときは日を改めて、別の裁判員でやるのかな。だいたい裁判員の意志で日程を変更できるのかな。不勉強の至りで、このあたりすべて、ジージにはよくわからん。
少年たちは素行に問題があった。となると、印象の悪さは避け難く、こいつらならやりそうだ、という予断に基づいて判断を下してしまう可能性も多いにあり得る。なさけないことにジージも「然り!」と言わざるをえない。
元少女の証言した日付は、あっけなくひっくりかえってしまった。公判でそれをひっくりかえしたのは警察や検察ではなく、弁護士や被告家族たちの時間をかけた努力だった。そのとき彼女は日付を1週間前に修正し、検察はすぐにその修正を鵜呑みにした。
とにかく「素行が悪いのだからやったに違いない」みたいな判断はしたくないなあ。
冤罪事件が後を絶たないこと。いまのままの裁判員制度では冤罪事件に手を貸すことになりかねない状況があると思わざるをえないこと。一審の判断が大きくひっくり返ることは、ほとんどないということ。そう考えると裁判員制度というものは不安のかたまりでしかない。制度のシステムがまだ不十分なものであるのだとしたら、裁判員になること自体を拒否するしかないのではあるまいか、と思ったりして。よくわからんので、これからもじっくり考えにゃいかんと思うのだけれど・・・。
それにしても、検察はなんで、日付の証言が大幅に修正されても一片の疑いもなく受け入れたんだろう。いや、裁判所もそうだよな。裁判所は警察・検察に加担して事実をねじ曲げたんだろうか。裁判員制度の中での裁判であったら、裁判員もまたそのねじ曲げに力を貸すことになるんだろうか。責任転嫁・・・。歯車が進み出したらぜったいに後戻りしない、なんていうただのメンツとか意地とかに関わる判断なんだったら、そりゃあイカンゾナ、と思うんだけどねえ。

以下、調べていて見つけた、参考になるブログなど
「長野智子blog」不思議な裁判 http://yaplog.jp/nagano/archive/114
     御殿場事件を長期にわたって取材している報道キャスターのブログ     
「傍聴記」http://www.geocities.jp/waramoon2000/bou_tokyo_h061213.html
     平成18年、東京高裁で開かれた「御殿場事件」の初公判傍聴記録
「日本国民救援会」http://www.kyuenkai.org/index.php?FrontPage
     裁判員制度の詳しい説明と問題点の整理に役立つ
     そのほか、いろんな冤罪事件についてわかる。
「ウィキペディア」http://ja.wikipedia.org/wiki/御殿場事件
     事件の概要を知ることができる。また、
     外部リンクで「ザ・スクープ 少年10人“えん罪”事件」の報道映像。
posted by ガンコジージ at 15:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月07日

裁判員制度について考えた

性犯罪における裁判員制度の在り方について、いろんな議論があった。ジージも複雑な気分で眺めた。
被害者の苦痛に思いをはせた。また、裁判員が全員男か女かで大きく変わる可能性を持っていること。そのことにも、複雑な気分にさせられた。
殺人との重さの置き方にどんな違いが出るのかも考えた。
全般的な問題として、冤罪の可能性について裁判員はどんな責任を取り得るのかも考えた。
たった2日ですべての疑問を払拭して判決にたどり着くことができるのかも考えた。そろえられた資料は、検察・弁護どちらの資料も平等にあるのか。そうならば、どちらの資料の方が多いのか。
まさか、検察・警察側の資料しかないんじゃあるまいな。それだったら、一方的というべきではないか。ジージはいい加減に考えていた自分を恥じた。
犯した罪に対して必罰の感情の方が大きくならないか、とも思った。つまり、裁判員の気分は検察寄りに大きく傾かないか、そんなことも思った。
我が家でも、奥さんと二人でいろいろと議論しているところだ。
場合によったら、裁判員になることを拒否する選択肢もあり得る、そういうふうにも思った。
ラベル:裁判員制度
posted by ガンコジージ at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする