2018年12月27日

<明治の実相>なにを近代化したのかの探求

23面「文化・文芸」欄に「『自己責任』明治近代化に源流 権力者に矛先向かない『通俗道徳』 今も残る意識 分断進んだ平成」がある。「自己責任論」とはなにか。「20年にわたって口の端に度々のぼり、平成の世相を映し出すキーワードの一つと言えよう」「社会契約によって成立する近代国家では国が守ってくれないならば、国民が納税などの義務を果たす必要はなくなる。自己責任論は権力者の責任をあいまいにする」「こうした現代の自己責任論と、近代化を進めた明治時代の『通俗道徳』という考え方の類似性」「『通俗道徳』は江戸時代後期に市場経済が広がり、人々の生活が不安定になるなか、自己を律するために広まった」「明治になると、村単位で請け負っていた年貢から、個人単位で税金を納めるようになり、助け合いの仕組みは崩れる。新政府に財政的な余裕はなく、弱者まで手が回らない。通俗道徳は政府に矛先が向かず、自分で責任を背負いこんでくれる、支配者にとって都合の良い思想だった」「バブルの崩壊で状況は様変わりした」「従来の仕組みが壊れかけ、かつ、政府がたくさん金を使えない。明治と似たような状況」「『働かないで金をもらっている』との理屈で生活保護受給者など、より弱い者をたたく」「他人のことを考える余裕がなく、誰かを助けていると自分が損をする、と思い込む。連帯の基礎がなくなり、社会の分断が進んでいる」「明治維新から150年がたった。『自己責任論』が日本社会にへばり付いたまま、平成はまもなく終わる」(本文引用)
ブログ主はいま、明治維新と、その後に発生した自由民権運動・困民党のことをいろいろ勉強中なのだが、この記事を読んでかなりの部分、同調できたと同時に、もう少し突っ込んでくれたら大いに読みでのある記事になったのに、と思ったものだった。明治の人権思想家植木枝盛が「維新は第1の改革」「自由民権は第2の改革」と端的に語っているように、明治の10年代以降しばらくのあいだ、明治政府と自由民権諸結社、各地に勃興した困民党の運動は、「第1の改革」が武家社会の下克上の様相を示したのに対し、10数年の遅れながら、はやくも社会変革がこの国の人々のあいだに深く浸透し始めていたことを物語っている。じつのところ日本近代史の中で、この時期の歴史はほとんど語られることがなく、なにがあったかを詳しく知る機会が奪われてきているが、知られてはならない歴史として、封印されてきているとみて差し支えないのではないか。
先の植木枝盛が中心に創った「東洋大日本国々憲按」には、不当不法な政府・官憲に対する武力抵抗権や革命権を定める条文があったという。わずか数年間で民権運動の参加者は30万人を超え、民権結社総数はわかっているだけでも2千数百、おそらく3千を超える結社が全国にひしめいていた。それに対して明治政府は集会条例、新聞条例、讒謗律などを公布、言論弾圧を強めた。困民党運動への弾圧も激化する。西南戦争以降、国家財政が逼迫し、経済恐慌が起こり、さらに全国的な飢饉の大波が押し寄せる。そのなかで、窮地に立たされた明治政府がとったのは自由民権の徹底的弾圧と困民党の圧殺、被支配階層の分断だった。分断の方法はすでに徳川の時代から連綿と続く社会構造の上下分離を近代化し強化すること。つまり情報統制下で江戸期から引きずってきた「通俗道徳」の維持。またはその概念の近代化によって不満の矛先を権力者から逸らし、「我こそは旧体制を克服する改革者」とするイメージの逆転戦略。大日本帝国憲法発布で熱狂を煽り、民族排外主義で敵を外部に創り、日清・日露戦争で強国を演出。徴兵制を軌道に乗せ、皇国史観教育を完成させるに至る。その流れは先の戦争で一時的に抑制されたものの、戦後70数年にわたる旧支配層の必死の画策で延命させられてきた。いわば「自己責任論」とは、支配層の責任が問われないようにするための巧妙な誘導策であり、天皇制をも利用して責任を上下に散らし、盤石の自己無責任支配構造を維持しようとする最良の方策なのだろう。23面の記事は、そのことの周辺をなでてサラリと通り過ぎていった、ある面では重要な、しかしもったいない記事だったといえる。
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2018年07月28日

「五日市憲法」新井勝紘著:岩波新書

23面「読書」欄に「五日市憲法 新井勝紘<著> 民権国家の夢と明治の躍動映す」がある。評者の保阪正康氏は近代日本の草創期の選択すべき国家像は4つあったとし「1)先進帝国主義の後追い 2)帝国主義的道義国家 3)自由民権思想の国家創設 4)幕藩体制を継承する連邦制国家だが、明治初年代から10年代には民権国家の誕生もありえた。それほど自由民権運動は広がった」(本文引用)と書く。このあたりの歴史は不勉強でよくわからないが、50年ほど前、若干の議論の端っこに参加した記憶があり、まるっきりというわけでもない。そのかすかな影響ゆえ、最近になって「明治維新ってなんだったのか」という想いが強くなり、次第に国家権力上層部の内部争い(クーデター)だったのではないか、という説に徐々に近づいていた。明治維新というポイントに合わせただけの浅い考えだったが、この書評の一文「明治初年代から10年代には民権国家の誕生もありえた」に接して新しい考え方に目覚めさせてもらった。旧体制内のクーデター派によって引き起こされた変化が、次のステップへの可能性を開きかけた、ということがあり得たのかも・・・と。
「本書によると、全国の民権結社は、1874年から90年までの17年間で2128を超えたという。これらの組織が中央政府への自由民権運動の下支えになっていた、と著者は見る。つまり民権憲法擁護の勢力でもあったのだ」(本文引用)。ほほう、なるほど。クーデターによってはじまった変革の波は、そこにとどまらず、より広い人民階層を巻き込みながら、大きくうねっていこうとしていたということか。幕末の「ええじゃないか」騒動のなかにも、おそらく直感的な起こりはあったのではないか、などと想像した。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ」(ウィキ引用)。この動きが維新後、どこへどう消えたのか、不勉強のままでいたけれど、パッと出てパッと消えるなんてことはあり得ない。「新憲法の制定は、伊藤博文ら政府の限られたメンバーで密室で行われたのに対し、民権憲法は各地の結社を中心に各層の公議公論によってつくられた、との分析は興味深い」「民権憲法が主流になっていれば、との思いに改めて駆られる」(本文引用)。2段階革命の可能性があったことを思わせ、その動きがまだ生まれたばかりの新権力を揺るがすものとなり得たとき、明治政権がかなりの危機感を持って弾圧に臨んだ可能性も感じ、その歴史を追いかけてみたくなった。これは現在にまっすぐ通じる物語のはじまりを理解する思考訓練の旅になる、そんな気がした。
五日市を地図で探すと、奥多摩湖に近く標高929メートルの御岳山のふもとにあった。八王子はそこから直線で20キロほど。テレビの娯楽番組で、江戸町奉行所の配下で昼行灯を装う闇の仕掛け人中村主水がしばしば八王子に飛ばされそうになって震え上がる場面がある。「えっ、あんな辺鄙なところへいくの?」というのだが、五日市はそれよりさらに辺鄙なところだったようだ。そこで五日市憲法という歴史に記されるべき優れた憲法が編まれた。幕末「ええじゃないか」騒動の自然発生的ポピュリズムから抜け出た本当のポピュリズム運動が、当時は打ち捨てられたかのような山村の中から、満身の底力を発揮して浮かび上がってきた。そう思うとなにやら希望が湧いてくる。目指すべきところが見えてくるような気がする。まだ気分であるだけだが、いま市民運動は課題から課題へ迷走している。その迷走に惑わされることなく、大きな流れを形成するための、細いけれども確実な水脈をつくっていく動きの大切さをひしひしと感じる。あ、この「水脈」という言葉、いまはあんまり好きじゃないんだよね。どうしてこんなおかしな先祖返りが起こるのか。現在の政権の迷走が過去の亡霊を引っ張り出したというべきか。これも明治維新がなんであったの、その後の時代がどのようにつくられ、どのようにここまできたかを知る、ひとつのサンプルではあるのだと思うけれど。あの人の存在そのものがマンマ亡霊なんだよな。
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2018年07月09日

「手話の歴史(上・下)」の書評を読む

7日の16面「手話の歴史 (上・下) ろう者が手話を生み、奪われ、取り戻すまで ハーラン・レイン<著>」の書評が秀逸。評者は佐伯一麦氏。「想像してみる。突然、周囲の皆が自分の理解できない言葉を話している世界に放り出されてしまった。身振り手振りでどうにかコミュニケーションを取ろうとすると、それは固く禁じられ、あくまでもそこでの言葉を学ぶことを強制させられる。そのさい、母語である日本語と対応させて学習するのも御法度。そんな感覚で、ろう者は聴者が絶対多数の世界の中で長い間生きてきたのだろうか」(本文引用)。まずはこの冒頭の文を読んでハテナマーク。いったいなにを言いたいの、と。
手話は17世紀革命前夜のフランスで始まって、アメリカに伝播して発展したという。この本は、その過程で「<ろう者は聴者の社会に合わせて生きるべきであり、その妨げとなる手話は認めてはならない>とする口語法の支持者たちから強く否定され、そうした逆風の中で、ろう者たちの自然な言語である手話を守り、取り戻すまでの熾烈な戦いの歴史を詳述したものである」(本文引用)とする。かなり分厚く、読みきれるかどうか写真を見ただけで自信がなくなる本だが、ここまで書評を読んだだけで、もっと中身を詳しく知りたくなる。
2分冊の第1部は渡米してアメリカ初のろう学校をつくった人物の回想録の形をとった自伝的読み物になっている。「ろう者に発声と読唇を強いる口語主義が支配的となるにつれて歴史の闇に追いやられることとなったものの、それ以前に確かに存在していた手話の言語的な固有性が臨場感をもって再現される。また、多様性を追求し、愛おしんだ人となりもよく伝わってくる」(本文引用)とあり、これならなんとか読めるかもしれない、と感じた。第2部は電話の発明者グラハム・ベルがなんと手話追放のリーダーとして「君臨」していく様を描く。「ベルは、ろうを人間の多様性の表れとしてみるのではなく、避けられるべき障害として捉える優生学者だった。ベル自身が、難聴の母親と幼時に失聴した妻を持ったことが発話にこだわることとなった一因だったから根が深い」(本文引用)。たしかに、彼自身がなんらかのかたちで苦しんだことは想像に難くない。だが、聴覚障害者の側から捉えるのではなく、彼自身の内部に巣食った苦悩から思いを解き放つ機会を得られなかったことが、彼をして手話追放のリーダーたらしめてしまったことに、大きな不幸を感じさせた。
「原題は『WHEN THE MINDHEARS』。心が聞くとき、とでも訳せるだろうか。評者は、荘子の『豈に唯だ形骸にのみ聾盲あらんや。夫の知にも亦たこれあり』という言葉を想った。あたかも、優生保護法による聴覚障害者の強制不妊手術の実態があきらかとなりつつある現在、言語は耳で聞くものと思っているものにこそ、原題の持つ意味を考えつつ読まれてほしい本である」(本文引用)という評者の指摘に唸ってしまった。「聞こえない、見えない」は、「聞かない、見ない」というかたちでお前たちの中に厳然と存在する、という荘子の言葉の深さにも打たれた。そして旧約聖書のバベルの塔を思い出した。神に近づこうとしてバベルの塔を建設した人間を罰するため、神は塔を破壊し、多様な言葉で人間を分断した。人間は互いを理解できなくなり、争うようになった。
言語は人間の感性から遊離した、ただの記号に過ぎない。遊離した記号を意思疎通の手段と選んだその瞬間から、人間は心で語ることも、心で聞くこともできなくなった。言語は人間の感性を簡略化し、空疎にした。手話で表現される個性のありよう、またその多様さを、言語の使用によって形骸化されつくした感性の残りカスは、認識する力さえ持てなくなった。音楽、絵画、詩、文学、哲学その他モロモロは、言語の誕生によって遠ざけられた(人間の重要な属性である)感性を復活させる試みといえるのかもしれない。この書評で手話の熾烈な戦いの歴史を教えられ、ふとそんなことを想った。この本、必読!
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2017年10月22日

江戸時代とか明治維新って何だったの?

16面「書評」欄に奇妙なコミックの紹介がある。「差配さん」(塩川桐子著)といい、書評の表題は「江戸の人情(ニャン情?)噺にほっこり」。表紙にはでっかく猫の絵が描かれている。「なんだこりゃ?」と思って書評を読むと、ラスト「差配さんを中心に展開される人情(ニャン情?)噺に、ほっこりと心温まる。端正な作画と粋なセリフ回しは名人芸。本来の姿で描かれたときの猫たちの可愛さもたまらない。生きとし生けるものへの愛を感じる連作集である」(本文引用)というわけで、さっそく読みたくなった。
このごろ時代劇ドラマが面白くて、いろいろ見ている。「鬼平犯科帳」とか「剣客商売」とか「大岡越前」とか「遠山の金さん」とか「水戸黄門」とか。ほかにも江戸人情噺や勧善懲悪物などいっぱい見ているが、近ごろ妙に食傷気味なのだ。ストーリーはおおむね、武士階級とそれ以下の町民・農民層さらにそれから除外された階層などの区分が、さりげなく、かつ厳然と当時のままに存在し、相互の階層の関係は、上からの慈悲か暴虐が意思疎通の基本なのである。たとえ抵抗があったとしても、下層の意志は徹底的に弾圧され、わずかに慈悲を行う上層内部にある気まぐれ分子によって多少は緩和され、下層のものたちは、涙と喜びの笑顔で、おきまりのセリフ「ありがとうごぜえますだ」を口々につぶやいておしまい。葵の御紋付きの印ろうや裃の類が最強の殺し文句になったり、庶民用代替品で背中の桜吹雪になったり。
結局、武士階級とそれ以下の関係は確固不動のものであり、その階層階級序列から締め出された人々についてはほぼ触れず仕舞い。明治維新の描き方も基本、武士階級の内乱で、庶民が主役になるような驚天動地は馬鹿騒ぎ程度にしか描かれず、残念ながら、歴史の彼方に埋もれていくだけ。時代劇の基本は、武士階級の支配が絶対の前提として微動だにしないことであり、最終的に明治維新の志士たちの英雄的生き様に収斂していくこと。
明治をつくったのは、武士階級の下層のものたちであったということ。彼らの果敢な戦いがあってこそ現代があるのだ、ということ。そこで、首をかしげるのである。これらの描き方の行き着くところは、支配階級の上部構造が、その中身をちょこっと変化させたものの、いまもまだ有効なものとして庶民に認識されるよう、連綿と思想操作され続けているような気がする。現代の政治それ自体が、維新以来150年経ってもなし崩しに変化しつつ、支配階層の中身を強引に維持するよう、多様な試みを繰り返す。
15面に「国家がなぜ家族に干渉するのか」という本の書評がある。「近代の国家は家族に深く関与してきた」「本書によれば、いま国家の家族政策がとくに関心を持っているのは、『子ども』をめぐる問題である」「国家が関心を向けるべきは『正常な』家族モデルを示すことではなく、それぞれの生き方を断念しなくてもすむ生活条件を一つひとつ保障することである」「本書は、多様な生き方が必要としている政策とそうではないものとの違いに光をあてる」(本文引用)
当ブログは小津安二郎の映画についていろいろと書いてきた。戦中の「父ありき」にみられる国家と個人の家族関係の衝突。それが戦後の「東京暮色」にどう引き継がれたかについて、など。思えば国家は、いまもまだ人々を支配階層の思うがままに差配しようと目論見続け、それを「美しい国」などと思い込ませて明治維新の精神風土に回帰させようと必死に試みている。テレビドラマがすでに民心を絡め取る道具になっている。コミック「差配さん」の話に戻ると、この作品の奥に、支配するものたちの思惑を超えた別の視点の存在を、ちょこっと感じた今日の朝。台風が近づいている中での衆院選投票日、この国の庶民の家族観が試されている。
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2016年06月13日

書評:エドガル・ケレットの著書

14面の書評に「あのすばらしき7年 笑いと日常 その陰にあるもの」という興味深い記事があった。「あのすばらしき7年」というのが本の題名で、作者はイスラエル生まれのエトガル・ケレット。
「海外で、自分の生れた国を背負って発言することになるのはつらい。自国の悪いところが身にしみていても、弁護せざるを得ない。しかも自国では、国の悪口をいいふらすやつとして扱われている。口をとざしたくなる場面だが、他人が抱いているイメージからは自由になれない」(本文引用)。ブログ主が日常味わうほろ苦い感覚に近いものがあるなあ、と思った。
よそからの移住者と従来からそこにいる住民とのあいだに、表に現れにくい感情的なすれ違いが、往々にして生まれる。そのすれ違いの尖った先端にたまたまぶち当たったときの思い。表に現れにくいのではなく、相互のあいだにまったく交流がないことから互いの認識不足が溝を深くし、感情的すれ違いを増幅する。気持ちのすれ違いが、心の奥底に深い傷をつくる。静かに血を流させる。
たぶん移住者は、まず第一に聞き手になることが必要なのだろう。元からの住民も決して一枚岩ではなく、積み重なって澱となった重たい気持ちのなかにひっそりと佇んでいる。既存の社会関係のなかでは吐き出せない閉塞感が、出口を求めて彷徨っている。
聞き手たる移住者は、たしかに地方の閉塞感を突き破る力を持っている。しかしそれも、立ち位置が定まらないかぎり、有効な力を発揮できない。そして、最終的に地方の閉塞感を突き破るのは元からの住民たちでしかあり得ない。移住者はきっかけを提供できるに過ぎない。移住者には持続性が欠けているからだ。持続するのは元からの住民だけであり、移住者が持続性を確保するには、幾世代かの経過が必要になる。
と、こんなことをつらつら考える今日この頃の心境。そのとき、エドガル・ケレットの「あの素晴らしき7年」についての書評は、少しだけだが、ブログ主の孤独な思考に筋道を与えてくれた。奇しくもこの記事を読んだ日曜日、近所で開催された原発事故関連の映画会に出席し、上映後の話し合いでケレットの心境をなぞることになったのだ。
映画上映のあと、会話はどんどん映画の主旨と離れ、間近に迫った参院選に集中していった。ケレットの想いに影響されたか、評者円城塔の巧みな評論に誘導されたか、ブログ主はその場の空気に強い反発を覚え、あえて棹を差したくなった。「話が選挙に集中している。それはここにいる人たちの気持ちが、すでに原発事故や福島から離れていきつつあることを意味する。原発事故に戻れ、福島に戻れ」(以上要旨)。いささかカッコつけが過ぎたけれど、言わずにおれなかった。もっと自前の考えとして定着させるべきだな、と思いつつ、いまだ未熟なままで・・・。
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2016年01月01日

辺見庸「1☆9☆3☆7」読後感

身辺でわりとこの本に共感を覚える人が多いようだ。でも、ブログ主は必ずしもこれに没入する気にはならなかった。読み始めた最初に、冒頭部のひらがな多用の不思議な効果にとらわれた所為があるかもしれない。
ひらがなの多用によって、文字が含む意味を視覚的直感的に捉まえにくくなる、という奇妙な効果を感じたのだ。こんな書き方でずっと続くのかと思い、まず辟易した。数ページ読んで、ぱらぱらと全体を眺めてみると、ひらがな多用は必ずしも全編通じてあるわけではなく、なにかの法則を持って増えたり減ったりしているようだと気がつき、これは意図された書き方なのだと思った。とくに、途中から漢字が増えて読みやすくなったあと、ラストでふたたびひらがなが増えることに、さらに意図された狙いを感じた。
そして彼が詩人であり、漢文の素養もそうとうある人らしいと知り、ひらがな多用をなにかの表現形式として意図的に用いているのだと結論した。その意図を知ることは、そんな彼の狙いをどこまで理解できるかにかかっているのかもしれない、などとも。
読み進めるごとにひらがな多用の部分と通常の漢字仮名まじりに近づく部分とが交錯していく。そして推測する。事実を事実としてよく理解すべき部分は漢字仮名まじりに戻り、筆者の思考が深まる部分はひらがなが多くなる。彼の思考の深まるところでは、彼の思考はひとつひとつの意味を正確にとらえる以前の混沌の中へ沈んでいくように見えた。そして思った。
事実を事実として捉えることは、既存の概念を利用するか、または自身の中にあって固定された観念を利用することによって、客観的であるべきものを容易に加工し、客観的であるべき事実をすぐさま観念の奴隷と成し、そこで思考停止させてしまう。もしや、辺見庸は「そんなに簡単に固定されてたまるか」と叫んでいるのではないか、と思った。混沌を受け入れ、混沌の中で自ら思考せよ、と叫んでいるのではないか、とも。
不必要とも思われるひらがなは意味を理解するまでに一拍の間(いっぱくのま)を必要とする。その短い時間が、“観念の自由な流動を妨げようと自動的に働く思考の自己防衛的動作”を抑止する。またはそのような効果をもとから意図して、辺見庸は用意した。そう考えるのが合理的な気がした。
だから、自分の問題意識はいま、ここにあるが、意識はどれだけ考えても固定されはしない、固定されたら最後だ、と彼は自分に言い聞かせ、また読み手にもそのように訴えているのではないか。したがって、彼が提出した幾つものエピソードについても読み手はこれに捉われる以前に、自分の固定された観念に捉われるな、と文章の間から訴えており、それゆえにラストに再びひらがな多用の文章に帰っていくのではないか、などと。
じつはブログ主は、彼の文章を順番に読み進んだあとでこのラストに接したとき、一瞬またかと思い、辟易した。「しつこいな」と感じざるを得なかった。さらに告白すると、この本を読んだのは1ヶ月ほど前のことだが、読後感想をいまようやく・・・書けた。
先に結論として持っていたのは、ひとつの危惧だった。彼が“運動”そのものを主導する存在ではないがゆえに、彼の文章が一見して展望を意図的に遠ざけてしまう可能性を感じ、それは運動するものの意識をやたら鋭く尖らせ、主観的に過酷なものにしていく可能性がある、という危惧・・・。
しかし認めなければならない。運動は柔軟であって然るべきだが、思考を停止させるような安易な流れを形成し、結果として時代に翻弄されるようになってはならないことを、彼は直感的に自からの問題として捉え、読み手にも訴えているのだ、と。硬直したところに敵の罠は潜り込む。だから・・・!
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2015年10月28日

iPadで長文を書くのはたいへんだ

九州へ用事で出かけている途中の新幹線車内。暇で仕方ない。本を持ってくるのを忘れたからだが、景色もつまらないので仕方なく週刊誌を買った。
新聞広告で興味深い見出しを見ていたのでなんとなく購入。興味深いものはそれなりの読み応えを感じたが、おおむねくだらない記事が多かった。最初はいろいろ興味を持って読んだものの、あまりのつまらなさにげんなりしてしまった。ここで紹介することもないものばかりでオールカット!
全体に低俗路線。いろいろ取り混ぜてはいるものの、最終的には御用報道ここに極まれりだった。他の週刊誌もそうなのか、そうでないのもあるのか仔細は不明。でも、ネットでは週刊プレイボーイや女性自身などでときどき光る記事を目にすることもあるから、たまたま手にしたのがサイテーだったのかもしれない。
週刊誌の売り上げが低迷しているそうで、ネットで格安でまとめ読みできるシステムもあるらしい。読みたい記事があったとき、余計なところを読まずに済み、値段もネットの方が格安だったらいよいよ売りあげ低迷になりそうな気配濃厚なのを感じた。
読んだ記事中では唐牛健太郎の生涯を丁寧にルポしたものがよかった。調べ尽くすのは不可能としても、もっと突っ込んでいたら彼の不思議な人物像を圧倒的迫力で描けたのではないか、と思った。もったいない気がしつつ、破壊的な人生の遍歴者が背負う物悲しさを感じることができた。 当時の学生運動のリーダーたちには、中国からの帰還者が多かったという。
かつてよく聞いた名前がゾロゾロ出てきたが、なんとなく彼らのその後が浮かび上がってきて、そこにもどうしても漂うなにかしらの複雑な色彩を感じ、物悲しさを共有したような気がした。 なんだろう。いったん踏み込んだら骨の髄まで取り込まれて生涯離脱不能になる、強烈ななにか。そんな危険ななにかに取り憑かれ、あがき続けた人たち。遠い彼らから、誰の心の底にも潜む悪魔的生き様を見せつけられた気がした。
身近には存在しなかった類の人たちである。だが、気がつけばすぐ隣にいたと思える人たちでもある。さらに、いつのまにか自分自身の内部にも潜んでいる恐ろしい存在であることも否定できない。まさに人間のすぐ隣でぽっかり口を開け、踏み外したものが落ちてくるのを待ち構えている闇。または闇に飲み込まれながらうごめき、他人をもひきずりこもうと腕を長く伸ばす不穏な生き物の姿を見た気がした。
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2015年06月21日

自らの不幸をサリゲナクやり過ごす人々

いまマンガがおもしろい。「これは!」と思うマンガが散見される一方、書店の小説コーナーを覗いても、買って読んでみようかと思う小説は少ない。
また、マンガがおもしろいからと言って、よく売れているのが、というわけではない。なにげなく手にしたのがいい。その延長で、小説の類いにもふと手にして興味を憶えるようなものがみつかることはありうる。だが、冒頭だけ「これは!」と思うものの、購入して途中で読み捨てるものはけっこうある。
小説は引きつける力を失っているのかもしれない。逆に、文芸批評によってその価値を鮮明にされるような、複雑に織り込まれた暗闇を隠し持つようになったのか・・・。
小説は映像に勝てない、と吐露した知り合いの作家氏がいた。言葉だけですべてを表現する小説は、イメージの具体化を読み手の能力に依存するが、映像は視覚と聴覚をも表現として動員できるから負けるとかなんとか、敗北の弁を語っていた。マンガにも似たような側面があるのかもしれない。
マンガで、これはと思うものにしばしば出会う不思議。読書欄で、18面に「ボーイ★スカート」(鳥野しの作)が取り上げられていた。「女が男ものの服を来ても平気なのに、なぜか男が女ものを着ると奇異な目で見られがちだ。特にスカートはNGアイテム。にもかかわらず、ある日突然、スカートをはいて登校してきた男子高校生と、それを取巻く人々を描いたのが本作」(本文引用)とある。ふーん、なるほど。
日常の中に侵入するちょいと横ズレした非日常。いまのマンガはそういうものを描くのが好きなのかも。で、頭に浮かんだのが、ついこのあいだ読んだ「なりひらばし電気商店」とか「ぽいぽいさま」とか、題名を忘れた「なりひらばし」系のSFっぽい作品。
「なりひらばし」では、40年後の近未来、リデュース、リユース、リサイクルの3R法が施行され、すごく地味ですごく日常が統制され、静かだけれど監視のうるさい東京の片隅が描かれる。「環境を守ったりもとに戻すための費用を汚染者が負担すべき」(本文引用)とする環境保全復元費を、一般庶民も負担しなければならない。
これは省エネ節電のスローガンと似ている。エネルギーや電気を生産するものに(減エネ減電といった)制限を加えることなく、消費するものたちにのみ無理を強いる。そんな試みは、いますでに進行中だ。極限まで行くとこうなるのかね、と想像する世界の、ありふれた日常が展開される。
題名を忘れた同様な設定のマンガは、一部をネットで観た。政府の大規模な実験でミスがあり、外界と見えない壁で隔絶されてしまった街の一角。見えない壁のおかげで、たまたまそこにいた住民は、出るに出られない檻に閉じ込められてしまう。そんな中での日常を描いた作品だった・・・ような。
どちらも現在を延長した近未来を描くが、設定は「なりひらばし」より深刻で、しかし語りは淡々としている。そしてこれは原発事故に見舞われた福島の現状を織り込んでいる、と容易に想像できる。
「ぽいぽいさま」は「星守る犬」の作者が描く、ゴミの山で暮らす神主の話。「なりひらばし」と正反対に、邪魔なはずのゴミが人間の心に深く食い込んでくる。人は、語りかけるゴミの声を聞く。
平穏な日常の中に潜む汚濁をサリゲナク避けて通り抜けようとしたのに、ついに辿り着いてしまった奇妙な未来。そういえばアベシの珍妙な言説の数々は、マンガで表現すればただのオバカと笑い飛ばせても、現実には醜悪極まりない悪夢となる。そのとき人々は先人たちがしたように、男の子のスカート姿と同様、持続する警告をよそ目に、自らの不幸をサリゲナクやり過ごそうとするのだろうか。
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2015年05月08日

本「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」

いま国会で憲法論議がたけなわだ。といっても結局は議論の入り口で終始し、自民党の数に任せた強行採決で突き進んでいくのかもしれない。そんな危惧が現実味を帯びる今日この頃、折よくというかなんというか、矢部宏治著「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」という本を読んだ。
読了してさて、どう評価したら良いんだろうと首を傾げてしまった。いろんな右からいろんな左まで、主張のつまみ食いぎゅう詰め寄せ集め。ここまでぎゅう詰めだと、個々の主張を個別に検討しても核心からズレたことになりかねない、と危惧するほどである。
著者は結論として、「基地」や「原発」をなくすには、GHQに押しつけられた憲法を国民自身の手でしっかりとつくり直す必要がある、と主張する。そして、戦後史形成の中枢となる天皇の責任を厳密に問うよう、読むものに求める。ただし不思議なことに、ざっと全体の半分を使って天皇の歴史的責任を追求しながら、ラストの結論では突然それらの視点が抜け落ちてしまう。
憲法がGHQに押しつけられ、国民の総意を反映しない矛盾に満ちたものであり、天皇を頂点とするこの国の支配層の対米従属的意図が貫徹されているというのなら、天皇の歴史的責任を問う前提なしに憲法を刷新することは出来ない。にもかかわらずなぜ著者は、ラストの結論からこれを外すのだろう。また、著書の多くのページを費やして天皇の責任を書きながら、天皇を持ち上げつつ遠回しに責任転嫁し、結果的に自分たちを免責する巧妙な罠を仕掛けたこの国の支配層をほとんど断罪しないのはなぜだろう。
著書の多くを占める強烈な主張と裏腹にラストの結論は軟弱に思える。というより、到達すべき目標をあまりに高いところへ持ち上げ読者の気分を誘導した反動で、結論の落としどころを見失っているのではないか、とさえ感じるような書き方である。
雑誌「世界」5月号で、河合弘之が「日米原子力協定」に関連する著者の指摘を批判している。記憶で書くと“鹿を射止めるのに側にいるライオンをまずやっつけろというに等しい”といった内容だったと思う。
日米原子力協定についていえば、レーガン政権下で日本が手にした包括合意条項の放棄で論議を進めることは可能なはずだ。包括合意条項は再処理に関するフリーハンドの権利であり、これの確保(再処理、高速増殖炉、ウラン濃縮の3特権確保)で、日本は原子力開発を大きく進める機会を得た。それゆえ包括合意条項(または個別合意条項も含めて)を放棄し、廃炉に向けた新協定締結と、保有するプルトニウムの米国への返却をメインに盛り込む論議は有り得る(といってもこれ自体が相当困難な交渉になるが)。
基地の問題も同様に、憲法改正を喫緊の突破目標とする必要はない。これらの事態を前進させたあとで流れを確定させるために憲法を改めさせる方向性はある。当面必要なのは、天皇に責任をなすり付け、政界でノウノウと生きている戦前戦中の亡霊の末裔たちの責任を、国民的合意に基づいてどれだけ追求できるかに係っているのではないか。
著者の方法論は、逆のルートを示すことで解決を無限遠方に押しやる奇妙な論法に陥っている。ラストの結論が雪崩をうつように軟弱化したのは、著者自身が遠大な目標設定の前に呆然自失した結果ではないか、と邪推したくなるほどである。
天皇の最近の発言が天皇家の安定的維持のためにするものだったにせよ、時代に即した適切な発信であることに変わりはなく、これを過去の反省に基づく意思表明とみるなら、逆を指摘するより、別の流れを作る絶好の機会であるとも思う。それなのになぜ著者は多くの頁を割いてこれを展開し、喫緊の課題を遠い未来へ投げ出してしまうのだろう。
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2013年12月05日

本「トップシークレット・アメリカ」

副題は「最高機密に覆われる国家」という。今日の朝日の「読書」頁に「911以降、米国では国家安全保障を扱う政府機関や企業が倍々ゲームのように増殖している」とある。「1200を超える政府組織、25万人以上の従業者、そして政府から業務を請け負う民間会社の人員を含めると、じつに85万人以上の人間がなんらかの『最高機密』にアクセスしている」と、別の書評にも書いてあったが、変な話だと思った。
85万人以上が「最高機密」にアクセスできるとなると、それは「機密」でもなんでもありゃせんじゃないか、と思える。「あまりにたくさんの情報が機密にされたため、そうすることで守ろうとしたシステムをかえって動けなくしている」とこの本の著者は指摘しているそうだ。
ようするに矛盾が生じてくるのだろう。たとえば、あっちにもこっちにも機密があって、本来擦り合わせが必要な事項でも機密の壁で隔てられ、なすべき判断から遠ざけられてしまう。そういうことがあり得るわけだ。
ただでさえ膨大な情報が氾濫しているのに「無数の最高機密に覆われ、ジャングルのごとき迷宮と化した」(楽天ブックスの「商品説明」より)と書かれているアメリカの現実は明日のどこかの国の姿を暗示しているようで恐ろしい限り。
朝日の書評では「機密の緩和・解除は容易ではない。政治家にとって大きなリスクになるからだ。むしろ『念のため』と言う判断がさらなる機密を生み出す。自らの不正行為を隠すために機密指定されるケースも珍しくないという」と書かれている。
さらに重要な指摘は「テロリズムの最大の目的が恐怖心や不安感によって相手を萎縮させることにあるならば、実は、米社会は『テロとの闘い』に着実に敗北しつつあるのではないか」という点である。
ハリネズミは全身いっぱいに増やし過ぎた自分のハリで傷つき、その痛みに耐えかねて他者をいっそう傷つけずにはおかない。そんな感じだろうか。
アマゾンの商品内容紹介では「政府機関のみならず民間機関も組み込まれた機密情報機関網は、莫大な予算が注ぎ込まれて巨大な規模に膨れあがり、情報は錯綜し重複し、統御の限界を超えて機能不全に陥っているという」と書かれている。そりゃそうだ。先に書いた通り、機密と機密のあいだに擦り合わせの介在する余地はない。それがあったら機密は機密としての性質を自動的に失ってしまうに違いない。
最初に機密を取り扱うものたちが、キズを恐れ責任を回避するのを常とする官僚である以上、機密の量は自動的に膨大なものになっていかざるを得ない。また、政権を担当する政治家たちがどれほどあがいたところで、擦り合わせのない機密をまとめあげる力量などあるはずもない。
とにかく興味深い本だ。朝日書評と楽天商品紹介とアマゾン商品内容紹介だけでこれだけのことが書ける。興味をそそられ、さらに考えさせられる。
これだけ機密にあふれたアメリカで、おそらく可能な最大限の真相まで迫ったワシントンポストの記者たちに敬意を表するとともに、こちらの状況を振り返ってしまう。こちらではこんな覚悟のある仕事をする報道機関があるだろうか。奮起を望む!
目次は以下の通り。「永遠に続く警戒態勢/トップシークレット・アメリカ/あなた方が知る必要があるのはそれだけだ/神に誓って偽りは申しません/地図に出ていないアメリカの地理/巨大政府と情報のジャングル/一つの国に地図は一つ/不審な行動を通報せよ/機密を扱う人たち/対テロビジネス/無人機作戦/暗黒物質/一つの時代の終焉」
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2013年04月16日

「桜の園」が「さくらんぼ畑」?

グーグルアースを組み込んだホームページを創ってみようとただいま奮闘中。おかげで今月はすでに2回も、ブログの更新をしない日があった。だいたいグーグルアースの利用規約を読んでも、なかなか頭に入ってこない。もう歳なのかなあと思う。そりゃそうだ、じき70になるのだから。
ジャバスクリプトの構文を作るのも骨が折れる。忘れっぽくなっており、回転の遅い頭が壊れそう。まだ時間はかかるが、でもなんとか目鼻がついてきたというべきか。
なにをつくっているのかというと、グーグルアースで放射線測定地図をつくり、公開したいと考えている。これで表示すると、放射線の分布について、広い範囲にわたる視覚的理解が進む、と思うわけで。
さいわいグーグルアースの利用規約では、一定の条件を満たせば自由に使っていいということになっているようだ。制限があるので、それを守り、利用できる点、役に立つ機能は最大限利用しないテはない。
あとすこしで終了する。自分でも出来上がりを楽しみにしている。と書いたところで、このごろなんで原発に集中しっ放しなのか、自問する機会を得るような新聞記事に出会ったので、熱中の半ばでひと休みし、そのことに触れてみたいと思った。
「桜の園 じゃなくて さくらんぼ畑?」という記事である。チェーホフの戯曲に邦題「桜の園」という作品がある。戯曲も読み、民芸の公演も見た。
戯曲を思い起こせば、たしかに没落貴族所有の「桜の園」が売られるという悲哀が、なんとなくぴったりこない印象はある。売られるというより、買い手があることに疑問符が沸くのである。一方、演劇では題名にぴったりの優雅な衣装に身を包んだ立派な俳優さんたちが熱演していた。彼らはまさに「桜の園」を演じていた。「さくらんぼ畑」ではあり得なかった。チェーホフを取り入れた日本の文化が、彼の戯曲をそのように強く印象づけていたのだ。
だが2011年8月、群像社が「桜の園」ではなく戯曲の新訳を「さくらんぼ畑」として刊行した。転機は311だったという。群像社社長は津波と原発の映像に接して気持ちを変化させた。
「あいまいな叙情に寄りかかるのはやめて現実を直視しよう、と思った」「震災後の言葉は震災以前と同じではありえないはずだ。同じ言葉を使うことは以前と同じことを続けることになる、と強く思いました。『桜の園』を使うのは日本人に以前と同じ反応を期待することだ、と」「破壊され汚染された漁場としての海が、戯曲中のつぶされた畑と重なった」(以上本文引用)
なるほど、311後の現在は、311前と一続きの世界ではあり得ない。巨大地震は激変の始まりに過ぎなかった。原発事故が激変を動かしがたい(永遠ともいえる長い時間、持続される)現実とした。そのとき表現が311前と同じでいられるとしたら、それは激変した現実と向き合えていないことを証明するだけのことなのだ。
表現者は激変に向き合わない限り、表現者としての位置を失ってしまう。それでもなお地位を確保する表現者は、激変しつつある現実を311前に引き戻そうとするものたちの先兵として、手先となってひたすら文字を紡ぎだす。その指先に自分の欺瞞を流し込む作業に熱中する。彼らは自覚できない無様な加担者に成り下がるしかない。
群像社の直感的な決断は、そのことを表現者に突きつけているというほかない。あとは、表現者がどう応えるか。厳しく問われるはずであるが・・・。
とまあそんなことを考えた次第。パソコンとの格闘は、自分の現在における表現はこれしかない、と決めた上でのことなのである。
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2012年01月03日

漫画「JIN ー仁ー」

例年、正月になると、わが家には漫画がたくさん持ち込まれる。帰省した家族が運んできてくれるのである。今年の目玉はTVで人気になった「JIN ー仁ー」(村上もとか)と「テルマエ・ロマエ」(ヤマザキマリ)。
「JIN」は幕末と現代を医者の主人公が、タイムスリップして行き交う。「テルマエ」は古代ローマ帝国の浴場設計技師が、様々な時代の日本の浴場とローマの公衆浴場のあいだをタイムスリップして行き来する。よく考えるとストーリーのとんでもなさを解消するのにタイムスリップという手法を使うのは、映画でも漫画でも共通して見られる、やや安直なやりかたのようだ。
発達した現代と遅れている過去とのあいだにあるギャップをどうとらえ、どう克服していくか、そんなところをテーマとするのが基本のようだ。
前置きはこれくらいにして、そろそろ「JIN」に移る。これは全20巻を超える大作らしい。今回わが家に持ち込まれたのは11巻までだから、読んだといってもおよそ半分だけである。
現代の進んだ医術を幕末に持ち込んだ医師南方仁が神業のような技術で時代に新風を吹き込んでいく。それはすでに過ぎてしまった時間の中身を大胆に変えていくという、まさに神の所業に似た行為であった。
とまあ、縦糸横糸の複雑さはいろいろあるとして、半分までの読了では、作品の大テーマはそれほど鮮明に見えてこない。それより、次から次へと登場する難題に真正面から向き合っていく南方仁の、知力を尽くした直球勝負が見所となって、わりと退屈しないストーリー展開ではある。
全巻を見ていないから総論的にはなんともいえないが、ひとつだけ書いておきたいことがあったので、あえてここに書く。
それは単行本2巻目のコレラとのたたかいにおける人間模様。幕末期のコレラ大流行の恐ろしい状況と、現代の東電原発事故とが対比され、いささか複雑な気分をともないつつ、感じ入ってしまったのである。
身近でコレラ患者が発生したとき、人びとは怖れ、忌避し、遠ざけて目をふさぐ。いいかげんな医療がまかり通って、患者の増大を止められない。死が日常と化していく。そのとき緒方洪庵の協力を得て、南方仁はコレラとの真っ向勝負に臨む。
史実では緒方洪庵が「水分補給」の方法を考えつき、大流行を押さえ込んだのではなかったかと思う。そのあたり、うまく事実をねじ曲げながら描いているものだと感心しつつ、それよりも、南方仁のやり方でコレラを克服できるかもしれないと知ったときの、人びとの心の有り様が、放射能禍におとしめられた現在の日本列島の状況と鏡に映った鏡像ように重なるのを感じて、いたく感動させられるのである。
助かる方法がある。それならそのことのためにみんなで力をあわせよう、という共同意識が静かな決意とともに、南方仁を囲む人びとのあいだから沸き上がってくる。そこには恐怖も忌避もない。目をふさいで遠ざけておくエゴイズムもない。
単純なことなのである。方法がわかれば向き合える。有効であることがはっきりと示されれば混乱しない。事実から目をそらして虚偽の善意で意識をちりばめなくても済む。まやかしの方法に惑わされないでいられる。凛とした姿勢を保っていられる。そういうものなのかもしれない。
漫画は単純だけれど、ときどきこんなふうに真実を垣間見せてくれる力も持っている。それはもしかしたら、読むものがなにを求めているかによっているのかもしれない・・・などと思いつつ、「うんっ、これはなかなか良いなあ」などと感じ入ったのだった。
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2011年11月13日

童話「トミーが3歳になった日」

知り合いが創作童話の批評を依頼してきた。送ってきた創作童話は、311以前であったらどこにでも見かけられただろう、幸せな家庭を描いていた。不安とか皮肉とか、ましてや批判めいた考えなど混在する余地のないくらい完璧に抜き去った作品だった。
それが、311後の視線からは、そんな作品の奥にさえ、深い悲しみに彩られたノスタルジーを感じて、セピア色の絵柄の風景まで思い浮かべてしまったのだ。読んでいて自然に頭に浮かんだのが「トミー」だった。
「トミーが3歳になった日」・・・テレジンのユダヤ人強制収容所の壁に隠されていたスケッチブックからつくられた作品である。収容所の中で、監視の目をかいくぐりながら、父親が我が子に向けて思いのたけを伝えようと必死に描いた絵をもとにした童話だが、受領した創作童話にも同じ味があった。いや、「トミー」の中には、もっとはっきり「yes」「no」が語られていた。
だから、現実に対するアイロニーの空気や抵抗の視線は、「トミー」の中にこそ熱く流れていたものの、創作童話の中ではあえて意図的と思えるほど徹底的に削除され、それが逆に欠落感を強調することになり、読むものの心の不安定を助長したように思えた。
つまり、削除が逆転して強調に変化したと言い得るような緊張感が読み取れたのだ。いまこの時代は、過去と相似した雰囲気を背負いながら流れつつあるのではないか。いまを生きる親たちは、テレジンの父親のように失われた時代の記憶を抱えながら、そんな時代があったことを語り継ぐ。自らに言い聞かせていく。そんなことが思い浮かんだ。
やはり、わずかな滞在でしかなかったとはいえ、福島での経験が大きく作用しているのだろうか。たとえば高速を走っているとき、矢板市のあたりから放射線量がぐんぐん上がり始めた。その数値に驚いてすぐ、パーキングエリアで降車したとき、幼稚園児を乗せたバスがどこかへ出かける途中らしく、20人ほどの黄色いチュニックたちがエリアの路上にわらわらと沸き出したのに、とても気持ちを揺さぶられたのだ。
それ以降、通り過ぎる街々でまるで閉じ込められるようにものすごくたくさんの人たちが生きているのを見た。なかには多くの小さい子どもたちがいた。赤ん坊もいた。
この放射線の中で、さまざまな事情を抱えて脱出もままならず放置状態におかれ、一方で壊れた原子炉はいまにも倒壊して人類がいまだ遭遇したことのない高濃度の放射能を列島にまき散らす可能性がある。それらのコトを十分承知していて、放射線に怯えながら、出るに出られないオリの中で生きている人びとが多数そこにいる。
福島はこの国の将来を象徴しているだけで、日本列島のかなり広範な地域で同様の出来事が発生する可能性がある。そう思うと、手放しの「幸せ感」を強調する作品が、いままでとは違って過ぎ去った時代のノスタルジーを表現するようになってきているのだと思わざるを得なかった。
新しい創作童話は、時代の底流がこんなときにあって、意図するか否かを問わず、自然に時代を背負ってしまったのかもしれない。または、時代が作品の奥にくっきりと焼き印を押したのかもしれない。
幸せを悲しみとともに感じる時代になったのか。テレジンの外に幸せが存在しなかったように、放射線で人びとを閉じ込める区域の外にも、いまや自由や幸せの感覚は薄くなりつつある。
ふたつの時代が重なり合おうとしている。いや、断じて重ねあわせてはならないのだと思いながら、「トミー」と創作童話を並べて読んだのだった。
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2011年08月20日

「人間と環境への低レベル放射能の脅威」序章から生態学的考察まで

判りにくいところが多く、そういうところはすっ飛ばして読む。それでもなんとか理解することは出来そうである。まず序章から要約してみる。いま最もオドロイているのは、以下に「***」で括って要約した部分である。わかりやすくするために、一部、原文に変更を加えている。
***ペトカウは1972年3月「リン脂質細胞膜に対するナトリウム22の影響」という論文を発表した。その中で「X線の短時間大量照射にも耐えられる細胞膜が、放射性物質による、弱いが長時間持続する放射線照射によってたやすく破壊される」と書いた。***(つまりずいぶん早い時期の研究であるということがわかる)
関連した記述***この細胞膜の障害は、核兵器や医療被曝などのように、細胞核中のDNAに打撃を与えるのとは完全に違う、生物学的メカニズムによっている。細胞膜は放射線によって生成する活性酸素で破壊される。***
ジージとしては、それなら極めて高い線量率による活性酸素の大量発生は、いっそう大量の細胞膜破壊を生むのではないかと思うのだが、そうではないらしい。
***活性酸素が同じ場所にたくさんつくられると、互いにぶつかりあって安定した普通の酸素に戻ってしまう。だから、高線量のほうが細胞を破壊するのには非効率ということなのである。***
ようするにぎゅう詰めに押し込められると、お互いで潰しあって細胞をやっつけるまもなく活性酸素はなくなってしまう、ということらしい。
この本の著者であるグロイブの「低線量放射線において威力を振るう間接的な活性酸素型の障害は、骨髄の中で前駆細胞から常に新しく生まれ変わらなければならない免疫系の細胞にとっては、とくに深刻である。」という記述もある。
序章まとめ***その後も続けられた研究によって、さまざまな疫学的証拠が確認されたが、残念なことにそれらは、大規模な核実験や無数の原子炉が世界的に建設され、長い年月がたってのちのことだった***

第I章 生態学的考察
ここは基本的に足早に過ぎていくだけだが、以下の引用は特記されるべきところであると思う。それゆえ、文章の順序を少し変えて書き記しておく。
***我々は太古の時代から長い間、自然放射線の泉の中で無害のまま生きてきたという主張があるが、それは、そもそも生存に関する経過を無視している点で誤りである。以前は自然淘汰のおかげで、人間は自然放射能に曝されてもその障害は消えていき、将来の子孫には伝わらなかった。
(だが・・・)医学の進歩のおかげで、近代社会では病人と虚弱者がより長生きできるようになった。これにより人類の持つ責任は、新たな大きなものになった。いまは、自然であれ、人工的であれ、遺伝的障害を与える影響は放射線量ゼロの地点から始まるということに、誰も疑問を持っていない。
自然の放射能も高すぎる線量の放射能を持っており、放射線はどんなに少量の増加も防がなければならないのである。***
まとめると、自然放射線も遺伝的障害を与えるが、これまでは自然放射線障害は自然淘汰で次代に継承されることはなかった。医学の発達した現代では、人類は自然放射線の影響を無視できなくなってきている。・・・というわけで、表現にいくらかの違和感を感じつつ、生態学的人類の捉え方の厳しい一側面として、いまはとりあえず理解しておきたい。
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2011年02月18日

小説「苦役列車」について

古い文体だなあ、というのが読み出してすぐの印象であった。作者が大正末から昭和初期の破滅型作家「藤澤清造」に影響を受けたと書いている通り(というか「藤澤清造」という作家の作品を読んだことがないので推測するしかないけれど)たぶん文体も似ているのだろうな、と思うのに充分なものが、そこには充満していた。
芥川賞の選者山田詠美氏が「おそば」「お刺身」などの「お」言葉や、「おれ」ではなく「ぼく」などの表現を「あまりにもキュート」と書いていたが、当初はこれら作中表現について違和感を感じつつ、読み進むにつれて「キュートかどうかはわからないけれど、これはこれで、現在と過去を重ねあわせる技巧として、あり得ることだなあ」と感心したりもした。
こういった文体にするだけで、現代の一断面を時代的視点で感じさせてくれるような気がしたものである。
しかしその一方で、内部に沈潜していくだけで、ひたすら破滅への道を歩いていくしかない貫多の生き方を、いかにも「自己責任(この言葉、ジージは大嫌いであるが)」以外のなにものでもないように装わせることには、やはり違和感を感じざるを得なかった。
個人の中に存在する社会の有り様をまったく感じさせない造りには、嫌悪を催してしまった、といってもいい。「社会や政治を呪うことさえできず、何事も身近な他人のせいにするその駄目っぷり」(選者島田雅彦氏評)は個別の人物の描きようとしてはありうるとしても、彼が背負っている背景としてそこはかとなく浮かんでくる「社会や政治」が、ここにはまったく感じられなかった。その点はやはり残念であった、とジージとしてはいいたくなったものである。
ラスト、「最早誰も相手にせず、また誰からも相手にされず、その頃知った私小説作家、藤澤清造の作品コピーを常に作業ズボンの尻ポケットにしのばせた、確たる将来の目標もない、相も変わらずの人足であった。」の記述のうしろから、埃っぽい街の雑踏が透けて見えなかった。
そのことによって、労働の底辺で切り刻まれていく無数の人物群像につながるなにものかが欠け落ちてしまう。それによって嗤う対象とは自滅していく貫多であり作者であるということを究極で確認していく、生きながら死んでいくしかない者たち・・・もともと自滅とはそういうものなのかもしれないと切実に感じさせるラストであった。
たとえば、映画「ウェンディ&ルーシー」のラストシーンでは、暗い貨車の中からさらにその向こうの森へ広がっていく重く冷たい空間が映され、光がまだ遠くにしかない状況がわずかワンショットで描き出される。救いのなさでは同様であるにもかかわらず、希望を押しのけようとするものの存在の先に、まだ残っているなにものかがあるのを感じさせる終わり方に通じるなにか。そんなものを要求するには、この国の現状はまだ暗すぎるというのだろうか。
本当は甘ったれているわけでもなんでもなかろうに・・・つくづくと思うジージであった。
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2010年08月28日

芥川賞「乙女の密告」 その2

アンネはオランダのある町の隠れ家にいた。そこはどこでもない場所、オランダでもドイツでもイスラエルでもない場所だった。そこに隠れながら、アンネは自分を問い続けた。その問いかけの結論を、みか子が自らのジレンマにおいて解明するのが「アンネ・フランクはユダヤ人です」という言葉であった。
オランダでもドイツでもイスラエルでもない隠れ家に住み、最後に辿りついたのは、わたしはユダヤ人です、わたしはユダヤ人のアンネ・フランクです、ということだった。
それは「今、わたしが一番望むことは、戦争が終わったらオランダ人になることです!」とのあいだにいっけん矛盾を抱えているように感じられる。だがそこに、「トーラーの名において」に書かれているユダヤ人のとらえ方が、ひとつの筋道を与える(・・・ジージはそのように考える)のである。
どこでもない居場所(隠れ家)で反問を繰り返しながら、彼女(そして「乙女」みか子)は自分が自分であるのは、ユダヤ人(自分の名前)以外ではありえない、と知った。そして、自分の存在を他者によって定義されるのではなく、自らによって定義する、ほかのなにものでもない自分自身という存在に昇華したのである。
彼女はユダヤ人であることを否定しようとしたのではない。国家への帰属を否定したのである。どこでもいい、好きな国で生きる。しかもわたしがユダヤ人であることは不変である、ということ。
密告? それを密告と捉えるのは、自らのアイデンティティーの置き方を他者の基準にゆだねたものの勝手な解釈である。彼女は胸を張って、自分自身の意志で、ユダヤ人(わたし自身)であることを選んだ。
その選び方のなかに、国家としてのイスラエルに所属するわたし(乙女として括られるわたし)というとらえ方は微塵もなかった。ユダヤ人(わたし)はどこにいてもユダヤ人(わたし)であるという誇り。国家(乙女)などという刹那のものとは違う、すでに居ながらにして数千年の蓄積(自分自身としての蓄積)を持つユダヤ(自分)の歴史。わたしはそれに裏付けられているということ。それさえあれば居るところはどこでもかまわない、ということ。
国家(乙女)を自分の外に置くその強烈な意志の解明を、他者は「密告したもの」として誤ってとらえてしまうだけである。彼ら他者が、自らのアイデンティティーの決定を自分以外のもの(国家または乙女)にゆだねてしまっているが故に、そのようにしか見ることができないのである。
それゆえにみか子は、「今、わたしが一番望むことは、戦争が終わったらオランダ人になることです!」という言葉のなかに、自分自身の矛盾を感じて、立ち止まっていたのである。アンネに矛盾などなかったのである。
バッハマン教授の言葉「ユダヤ人の祖国とは世代を超えた記憶の彼方にあるのです」は、複雑な意味を持って捉えることができる。
そしてみか子の言葉「わたしはジルバーバウアーに真実を語ってしまった。ついに、わたしは自らを名乗ってしまったのだ。」「密告者はわたしだ」も同様に・・・。
ラスト、みか子の直感にいくらかの動揺が漂うように見えるのは、作者の意図の揺れなのだろうか、それともジージの理解が不十分なせいだろうか。それについて、まだジージはよくわからないでいるのである。

本ブログ記載「トーラーの名において」1〜6は、「乙女の密告」理解の参考になるのではないか、と思う。ここで引用しなかった多くの記述が、「乙女の密告」をより深く読み込む材料になる・・・と自負する次第。気になったら読んでね!
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2010年08月27日

芥川賞「乙女の密告」 その1

今回はメモも取らずに読んだので、ほとんど直感的な印象にとどめられる。また、本作を読んだばかりで、選者の選評は読んでいない状態での書き込みになる。
この作品を読む前に、「トーラーの名において」という本を読んでいた。これはまったくの偶然であったのだが、この本を読んでいたおかげで、作者赤染晶子氏が「乙女の密告」で意図していた部分の判りにくさをくぐりぬけ、かろうじてその向こう側を(ほんのわずかだが)覗き見ることができたように思った。
この作品はアンネ・フランクのユダヤ人としてのアイデンティティーの模索を軸に、乙女たちのアイデンティティー、さらには現代日本に生きるものたちのアイデンティティーをさぐるかなり意図的な作品であった、とジージには思えた。
その問い方はかなり独特なものであった。「乙女たち」というあやふやで、もろい概念のなかに集うものたちの実体のなさ。それを唯一絶対のものとして周囲のすべてを囲い込もうとする暗黙の圧力を少女漫画的な手法で展開してみせる。
よく読めば、その方法はまず最初に思考ありきで、思考にあわせて特性を持たせた人物群を配置しているように見受けられる。悪くいえばパターン的になりがちなところを、戯画化の手法で包んで新鮮味を持たせ、定型化を免れたということもできそうである。
ともあれ、この作品が提示するアイデンティティーについての問いかけは、もしかしたら作品が展開したその先がまだあるかもしれないと思わせる、奥深さを持っている。まず、ユダヤ人について「トーラーの名において」で展開されている見方をジージ的に要約した文章を、8月8日の本ブログ「トーラーの名において 5/6」から引用してみよう。
「イスラエル国が崩壊してもユダヤ人がユダヤ人であることは揺るがない。端的に言うならば、ユダヤ人のアイデンティティーはたかだか数十年の歴史しかないイスラエル国にあるのではなく、数千年にわたってイスラエルの民をひとつに保ってきたユダヤ教にこそある。シオニズムはイスラエルを国家として捉え、ユダヤ人のアイデンティティーの中心に据えるが、本来のイスラエルの意味は、土地に対する執着や民族的アイデンティティーとは無縁のものであった。」(以上、ジージの要約)
つまり「トーラー」は、「国家」をユダヤ人の存在根拠の中心に据えない捉え方があること。「(ユダヤ人のアイデンティティーは)土地に対する執着や民族的アイデンティティーとは無縁のもの」であるとする捉え方が、シオニズムの対極にあることを説く。
そのことを念頭において「乙女の密告」を見ると、まず関わってくるのが、主人公みか子の「つまずき」である。みか子は「アンネの日記」の朗読で最後のいちばん大事な一節をどうしても忘れてしまう。「いま、ワタシがいちばんのぞむ事は、戦争が終わったらオランダ人になることです!」
この部分でつまずくことの意味は、じつはこの作品の質を決するという意味で、とても大きなものである。それは、最後に麗子様が消えることや、貴代が自分の名前を取り戻すことにもつながり、その結論として、「わたしは密告します。アンネ・フランクを密告します」という言葉にもつながっていく。
アンネを密告したのは乙女自身であったということ。それは、個のアイデンティティーを模索する切実な旅の結論を意味していた。

               いつとも知れない明日へつづく
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2010年08月09日

「トーラーの名において」 6/6

まとめきれなかった個々の記述で重要と思われるいくつかについて、該当する頁から抜粋しておく。

☆シオニストの3原則
「シオニストと反ユダヤ主義者が、(1)ユダヤ人は宗教集団ではなく、他から明確に区分される一個の民族である(2)ユダヤ人はその受け入れ国に統合されることは決してないであろう(3)ユダヤ人問題の唯一の解決方法は、彼らが現在住まっている国から立ち去ることである、という3つの原則において見解を一致させていることが浮き彫りにされた。(155頁)」

☆トーラーの教え
「われらが聖なるトーラーは、われわれが、メシアが到来するまで流謫の境遇を生き、政治に対していかなる関心も寄せてはならないと教えている。(中略)われわれの望みは、もっぱら創造主の戒律に従って生きることのみである。そして、われわれが<聖地>に住むことの利とみなしているのは、もっぱらこの土地の聖性に身を浸し、そこでしか実行できない戒律を順守しながら暮らすことなのである。(162頁)」

☆ショアー(ホロコースト)の濫用
「イスラエル国によるショアーの利用形態はさまざまである。まずもって、ここ数十年のあいだ、ショアーはイスラエルの外交にとっての強力な道具であり続けてきた。それは、600万人の犠牲者の集団的相続人として提示された国家に対する批判を押し殺し、逆に共感のみを募らせる効果を果たしてきたのである。しかし、いま、この使用法も効力を失いつつあるように見える。ヨーロッパにおいて、戦争を体験した世代が権力の座からほとんど姿を消した今、一部には、イスラエル国がショアーというこの強力なカードを濫用してきたのではないかと考える向きも出てきたのだ。(298頁)」

☆解決のための提案その他
「ヨルダンと地中海のあいだに位置する土地を、そっくり全世界の市民のための自由国に作り替えてはどうかという案(322頁)」
「『レーヴ・ターホール』の活動家たちは(中略)現実的な解決策として、彼らは、パレスチィナ人への主権移譲のほか、非宗教的な民主国家を新たに創設するという案も受け入れている。(中略)加えて、『レーヴ・ターホール』は、イスラエル国が居住のためにはあまりに危険になったとして、イスラエル人に国外への移住を勧告している。(342頁)」「イスラエルにおいては、ドイツなどEU諸国のパスポートの発行件数が、ここ数年、急激に増加してきているという。(342頁)」
「より根本主義的なシオニズム批判者たちは、イスラエル国を歴史上のあるまじき誤謬とみなす。唯一可能な解決は、(中略)獲得された国家主権を放棄することである。このことはまた、以後、ユダヤ人がユダヤの特殊名のもとになされる政治行動を一切放棄することをも意味する。(342頁)」

☆「ポストシオニズム」という言葉がすでに存在すること。必然的な共闘の関係
「本来、超=保守の名にも値するハレーディ(ジージ注:伝統的なユダヤ教を実践する人々の総称)たちが、この件(ジージ注:反シオニズム運動)に関しては左翼系の活動家や知識人と同じ陣営に居合わせることになる(345頁)」

以上、とりあえず「トーラーの名において」のジージ的要約を終了する。
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2010年08月08日

「トーラーの名において」 5/6

ジージ的に学ばせてもらったこと。
“イスラエル国が崩壊してもユダヤ人がユダヤ人であることは揺るがない。端的に言うならば、ユダヤ人のアイデンティティーはたかだか数十年の歴史しかないイスラエル国にあるのではなく、数千年にわたってイスラエルの民をひとつに保ってきたユダヤ教にこそある。シオニズムはイスラエルを国家として捉え、ユダヤ人のアイデンティティーの中心に据えるが、本来のイスラエルの意味は、土地に対する執着や民族的アイデンティティーとは無縁のものであった。”と本書は語る。
ジージ的に解釈したのは、神の国を自らの内部に打ち立てて自由を得る。国家は仮の場所であり、それに執着せず逆らわず、あくまで聖なる信徒集団として、敬虔なユダヤ教徒として、最後の審判の時を待つ。執着し、トーラーに背けば、過去の2度にわたる流謫に勝る苦難を味うことになるだろう、といった意味のことが本書の主旨のようだ。
非常に宗教的な記述が多く、ジージ自身が生齧りでいた旧約聖書におけるユダヤ人の苦難の数々が、読み進むうちに、文字通りの苦難であると同時に、たぶんに宗教的色彩に昇華された苦難というべきかもしれない、などと思うようにもなったのであった。
ただキリスト教を中心に、周辺の理解がいつのまにか混乱を来し、彼らの苦難を世俗的な意味に貶めたことはありえないか、と思ったりする。それが西欧東欧のキリスト教社会を排他的行為に駆り立て、ユダヤ人をいっそうの苦難に陥れたのではないか(これは宗教生齧り居士のジージの中では、いまのところまだ必ずしも明確な根拠を持っていないのであるが・・・。)
ラビたちの大多数が1940年代なかば、パレスティナの未来に関する議論喧しい中、「聖なるトーラーは、われわれが、メシアが到来するまで流謫の境遇を生き、政治に対していかなる関心も寄せてはならないと教えている。そして、この教えは、われらがアラブの隣人たちにとっても不都合な点をまったく含んでいないのだ。われわれが流謫の境遇にあるあいだ、われわれの望みはもっぱら創造主の戒律に従って生きることのみである。」と主張したという。
一方、ラブキン氏自身が感じているように、ハレーディすなわち伝統的なユダヤ教を実践する人々が本来、超=保守の名にも値する人々であることは、本書でも指摘されており、345頁を読むと、彼らが反シオニズムの行動において左翼系の活動家や知識人とたまたま同じ陣営に居合わせることに、戸惑っている様子さえみてとれる。
それでも彼らが、彼らにとって本来対立物となるはずのものたちともあえて共同歩調をとり、シオニズムに果敢に反対の意志を表明して向かっていくのは、すでに事態がポストシオニズムを現実的課題に想定する時期にきていることを、彼らが肌身にひしひしと感じているからだと思われる。
連続の(1)で見たイスラエル人女性の禍々しいまでの表情は、解決への道筋をなにに求めるかの違いはあれ、危機意識がその底部において互いに共通していることの証しともとれる。
本書では、ある意味不思議なことに、キリスト教シオニズムについての記述は全部あわせても数行にしかならない。だがしかし、本書以外のさまざまなところでラブキン氏が展開する文章を読むと、彼が敵対物の構造について持っている認識の基本的正しさを認めざるを得ない。たしかに、キリスト教シオニズムは危険な存在になっている、と思う。
全世界を覆い尽くすように、人類を徹底的な破滅に導く試みが、いままさにイスラエルを中心軸に据えながら進みつつあることを、いかに鈍いジージといえども実感せざるをえない。危機はすぐそこに迫ってきている。そして、解決の道筋はまだ細い糸でしかないにしても、少しずつ紡がれ始めていることも、本書から見て取ることができる、と思われるのである。
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2010年08月07日

「トーラーの名において」 4/6

エピローグの冒頭は、刺激的な描写ではじまる。ラブキン氏は、自爆テロにより多数の死者が出る現場に行きあわせるのである。それは凄まじい犠牲を伴うものであった。
そのことから、常に小さめに報じられるイスラエルの被害が、じつはそんなに簡単なものではないということがわかる。
とつぜんの死にさらされる日常が、いつもすぐそばにある。この緊張が、この恐怖が、イスラエル国に充満している。だとすれば、連続(1)で書いた女性の憎悪と悪罵は、その当否は別にして、あり得ない反応ではない、と認めざるを得ない。
(3)までで見たように、この緊張と恐怖と憎悪とがどれだけのエネルギーを人々から奪い去っていくか、それは考えるだに恐ろしいことといわねばならない。
そして、「実際、国際政治の場でイスラエルがますます孤立し、アメリカと、そのもっとも忠実ないくつかの衛星国からの支持しか取り付けることができなくなっている今日、『全世界がわれわれを目の敵にしている』という感情がイスラエル人のあいだに広く浸透しつつある。(210頁)」
「第2次インティファーダの開始(2000年9月)をもって、イスラエル社会は絶望の時期に突入した。イスラエルの軍事力をもってしても、住民に平和と安全をもたらすことは、もはや不可能であると感じられるようになったのだ。(211頁)」
だから、ラブキン氏は、ユダヤの民が直面している危機に、絶望とは違う道筋を、できるだけ明らかに示そうとしているのだと思う。ユダヤ教・反シオニズムの活動家たちは、まだ微力ではあれ、考えられるあらゆる方向への働きかけを、精力的に試みている。
彼らの働きかけは、パレスチナ人武装勢力を含む広範な対象に及んでいる。戸惑いながらも、共産主義者、社会主義者をはじめとするいわゆる左翼系活動家、労働組合活動家、などとも手を携えていこうとしている。
そしてもちろん、ユダヤの民への働きかけ、立ち上がりに全力を注ぐのである。
「他方には、『苦しみのどん底にあっても、権勢の絶頂にあっても、自分だけは無垢』と感じ、自分の身に起こることすべてについて他者の落ち度をあげつらうことに終始するユダヤ人がいる。(360頁)」「敬虔なユダヤ教徒たちは、まず自分の罪を認めることから始める。ユダヤ人(教徒)の身に起こったことすべてについて自分の責任を引き受け、そこから未来のための教訓を導き出そうとするのだ。(同頁)」
これらの動きはまだ始まったばかりである。しかし数々の有効な試みが見られる。そして彼らの意志は固い。以下に、ラビ、アイベッシュにまつわる逸話を抜粋する。
「多数決の規則が適用されるのは、あくまでも疑いがある場合、真実が未知のままである場合に限られる。逆に、疑いがなく、真実の所在がはっきりとわかっている場合、多数派の意見は一切影響力を持たない。われわれは、われわれの聖なるトーラーの正しさを確信しており、そこにわずかばかりの疑いも抱いていない。よって、われわれに抗する多数派も、われわれに影響をおよぼすことはまったくなく、われわれを本来の道から逸らせることはできない。(354頁)」
(3)の末尾で書いたように、「内部からの広範な立ち上がりと、それを世界がどれだけ真摯に受け止め、支援できるかにかかっている。」のではないか、と思う。
「苦しみのどん底にあっても、権勢の絶頂にあっても、自分だけは無垢」と感じて、自らに起こるすべての責任を他者に押し付けるものとは、誰に対しても当てはまりうる鋭い指摘であるといわねばならない。また一方で、6月17日「ユダヤ人を救うこと」で書いたジージのはなはだ素朴な思いに、現実感を与えられたような気がしてならないのである。
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2010年08月06日

「トーラーの名において」 3/6

1948年時点におけるハンナ・アーレントの次の言葉が印象深い。
「たとえユダヤ人が戦争〔独立戦争(第一次中東戦争)〕に勝つことができたとしても(略)、今度はその「勝ち誇る」ユダヤ人たちが、敵対心をあらわにするアラブ人住民に取り囲まれ、絶えず脅かされた境界線の内側で孤立し、物理的自衛の必要に忙殺されることになってしまうであろう。(略)そして、それらすべてのことは(どれほどの移民を受け入れることができるか、とか、その境界線をどこまで拡大することができるか、といったこととは無関係に)、数において圧倒的で、かつ敵意に満ちた隣人たちの前で、依然、ごく小規模の民であり続ける一国民の運命となるであろう。(224頁)」
また一方で、ラブキン氏自身が次のようにも書いている。
「イスラエル国への支持は、政治のスペクトル分布でいうところの右派からやってくる。右派は、入植という事業の勇壮さや、アラブ人、イスラム教徒に対する妥協なき態度に価値を見出し、イスラエルの社会と経済の構造において社会主義の異物をことごとく解体に向かわせることを持ってよしとしている。加えて右派は、諸文明の衝突は不可避であるという見方を心情として保持しており、そしてこの衝突の原因を、彼ら自身の政治的、経済的欲求ではなく、もっぱらイスラム教徒の内在的本性に帰そうとする。(344頁)」
「民族=社会主義」(ナチズム=国家社会主義)の本質がここで両者によって語られている。また、現にナチズムの崩壊がベルリンを瓦礫の山にするまで止められなかったということが、歴史的事実としてある。ソ連崩壊とはまったく違った質が、そこにあるのを感じるのである。
それゆえか、ラブキン氏は同じ344頁で、次のように指摘している。
「ユダヤ教・反シオニストたちは、紛争をいつ果てるともなく長引かせているのはイスラエル国のシオニズム機構であると断言してやまない。昨今、イスラエルにおいてますます現実味を帯びているパレスティナ人住民の強制移住も、彼らの目からすれば、長期的に暴力の応酬を激化させることにしかつながらない。この点において、ますます強硬な路線を打ち出すシオニストたちと、手遅れにならないうちに国家を解体すべきであると主張するユダヤ教・反シオニストたちは、ひとつの共通見解を分かち合っている。つまり、両者とも、この中東の一郭がシオニスト国家の存在をその懐に受け入れることは断じてあるまいと観じている。そればかりか、両者とも、今、<イスラエルの地>において、ユダヤ人が集団殺戮の脅威に直面していることを認める点ではまったく見解を一にしているのだ。違いはただ、シオニストたちがこの殺戮を阻止するのは国家であると考えるのに対し、その敵対者たちの方では、ほかならぬ、その国家こそが、殺戮の脅威の紛う方なき責任主体であると見ている点だ。(334頁)」
イスラエルの地にシオニズムを持ち込んだのは、ロシアや東欧のシオニストであったとラブキン氏はいう。彼らは単一民族国家にアイデンティティーをもたせ、ユダヤ教を人々から遠ざけている、という。また、彼らがSLやボリシェビイキからその思想を学んだとも書く。
だがしかし、彼らが学んだのは人民社会主義ではなく、国家社会主義の思想であった。それゆえ、非常に残念なことに、彼らの国家は簡単には消滅せず、ラビたちや一般のイスラエル市民たちが実感として受け止めているように第3の流謫(るたく)はこれまでに見られないような苦難となるかもしれない、という危機感のほうが、当面は現実的な色彩を帯びていると見なければならない、とジージには思われたのである。(ジージ注:流謫=本書の語彙集では、ガルートの項で「<イスラエルの地>から外へ出ることを余儀なくされた状態。」と書いてある。)
食い止めるのは、やはり内部からの広範な立ち上がりと、それを世界がどれだけ真摯に受け止め、支援できるかにかかっている。次の(4)では、本書のエピローグから、その可能性を読み取ってみたい。
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2010年08月05日

「トーラーの名において」 2/6

本書では、「イスラエル」という言葉について、アメリカのラビにして著名な著述家であるジェイコブ・ニューズナー教授の文章を引用して次のように書いている。
「今日、『イスラエル』という言葉は、一般に(アメリカから見て)海の向こうに位置する政治国家、イスラエル国を意味する。(中略)しかるに、聖書、ならびにユダヤ教の教典において、『イスラエル』とは、神がアブラハムとサラを仲立ちとして呼び止め、ついでシナイ山にてトーラーを授けた聖なる信徒集団を意味する。(28頁)」
これは本書において、常に重要な位置を占める定義である。そして「一世紀来、ユダヤの名を冠する人間集団が『信仰共同体』から『運命共同体』へと移行するなかで被ったアイデンティティーの変容(同頁)」について詳しく触れていく。
と、ここまでが、ジージのつたない解釈の限界といおうか。そのあと、本書はシオニズム国家の実態と、ユダヤ教の対立の構図を微細に記述していくが、実際のところ、本書の内容は始めて接するジージのような非宗教的非論理的輩にとっては、理解の外へ飛び出てしまう部分が多いといわざるを得ない。
だがしかし、現状の事態の推移は、以下のような危惧を現実のものにしかねない勢いで進んでいるのである。
「反シオニストのラビたちは、シオニズム批判を圧殺する方向に機能している現今の『ポリティカル・コレクトネス(政治的公正)』が、いつの日か解消した暁に、世界中のユダヤ人(教徒)が一転して西洋人たちからの強い非難にさらされるのではないかと懸念している。(中略)その反動は止めどなきものになるのではないか、というのだ。(中略)ショアーに関する西洋の罪悪感が、いつの日か、ツァハル(イスラエル国防軍)の軍事行動に対する批判意識と釣り合ってしまうであろう瞬間、今度はイスラエルに起因する暴力によって呼び覚まされた諸国民の怒りが全ユダヤ人(教徒)の頭上で猛り狂うことになるのではないか(中略)そうなれば、ユダヤ人は、それぞれの居住国で平和裏に暮らすどころか、その居住国の利益に反してまでイスラエル国の利益を優先させる人々として絶えず後ろ指を指されることになろう。(330頁)」(ジージ注:ショアーはホロコーストのこと)
これは宗教的な解釈を越えて、現実にありうる脅威なのだ、とジージは思う。この連続記事の(1)で書いたように、「レイラ 17歳」に登場する「イスラエル人女性のなにかに取り憑かれたような視線や激しい態度」には、まさにこういったラビたちの危惧と共通するものを感じさせるのである。
そしてまた、ジージとしては「なぜ?」という問いに戻らざるを得ない。2000年に始まる第2次インティファーダ以降、イスラエル国民の恐怖は頂点に達したといえるのかもしれない。映像の中心にいた女性は自らの恐怖に押しつぶされそうになっていたとも思える。にもかかわらず、彼女はなぜ、パレスチナ人に対して暴言を吐きちらし、憎悪の目で睨みつけるのか。それ以外の方法を失っているように見えるのはなぜか。
そこに、連続記事(1)に書いた「民族=社会主義」(国家社会主義ナチズム)の亡霊の影が見えてくるように思うのである。
ラブキン氏は希望的観測として次のように書く。「シオニスト国家としてのイスラエル国も、かのソ連とまったく同じように、犠牲者を出さずに地図上から姿を消すことができるのではないかという見通し」「ソヴィエト連邦とイスラエル国、いずれも『人間の意志の勝利』をつうじて、すなわち武力を行使することによって創設されたこれら二つの国家に共通して見られるイデオロギー上の性格から、その消滅のシナリオをも先取りしたくなる(以下略)(346頁)」
はたしてそうだろうか。ジージとしては、本書にあるハンナ・アーレントの言葉がいっそう真実に近いのではないかと思わざるを得ない。引用は次の(3)にて・・・。
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2010年08月04日

「トーラーの名において」 1/6

以前、「レイラ 17歳」というドキュメンタリーをみたとき、そこに登場したイスラエル人女性の、なにかに取り憑かれたような視線や激しい態度に恐れを感じた記憶がある。そして疑問を持った。「なぜ、ここまで憎悪するのだろう?」と。
彼女に限らず、イスラエル人の憎悪の感覚とそのほとばしりには、すさまじいものがあった。パレスチナ人が曝されている日常の過酷さに身震いするほどだった。
そして本書を読み、映像で感じた「なぜ?」の一部がほの見えた気がしたのである。2000年9月に始まる第2次インティファーダによって、建国60年を経たいまもイスラエルは安全で平和な国家たりえていない。そればかりか、彼の地はユダヤ人にとって世界中でもっとも命の危険に曝される場所になっている。その状況がいっそう深くなっていくことにイスラエル人自身恐怖している姿が、見えるような気がしたのだ。
パレスチナ人絶滅を目論むような、ガザに対する執拗な攻撃は、取り憑かれた恐れのなせるわざとしかいいようがない。06年のヨルダン侵攻に対するイスラエル国人の支持が98%に及んだという報道や、撤退を決めたとき数%にまで支持が落ち込んだといった、判断の激しい動きにもそれは現れている。
そしていま、ラブキン氏のようにユダヤ人の内部から、迫り来る危機を回避するための試みが公然と出てきたこと。イスラエルという国家の存在が、ユダヤ数千年の歴史の中で、これまでとは違った重大な局面を招きつつあること。それをイスラエル人自身が、深刻に受け止めつつあるのだということを、本書から感じざるを得なかったのである。
まず引用しよう。212頁「彼ら(シオニストたち)は、アラブ人を殺すことによって彼らに恐怖心を植え付けることができると思っている。しかし、アラブ人は最後の最後までユダヤ人への攻撃をやめないだろう。・・・ここで『最後の最後まで』というのは、ほんの一人のユダヤ人を殺すためだけに百万人のアラブ人が自己を犠牲に捧げる覚悟ができているという意味である。」「これは勝ち目のない戦いである」
すでにかなり以前からこう語られていたにもかかわらず、なぜそのようになってしまうのか。そうなる理由はなんなのか。本書はユダヤ教の立場から、その問いに応えていこうとしている。ジージはそのように読んだ。
謎を解くカギは、本書の中にいくつも存在する。ひとつをあげるなら、国家としてのイスラエルは「地球上のいたるところで脱=植民地のプロセスが始まったまさにちょうどその頃に創設された世界最後の植民地国家(310頁)」といった記述である。なるほどこれは厳しい指摘である。
イスラエルはパレスチナの地に入植し、そこにいたパレスチナ人たちを追い出して建国された。もとからそこに住んでいたユダヤ人たちは、パレスチナ人と共存して生活していたのに、単一民族国家イスラエルを建設するために、強引に追い出したのである。
そのときからイスラエルは無限に肥大していくしか道を選べなくなっていった、と本書はいう。ひとつの入植地が建設されると、そこが対立の最前線となる。安定を確保するためにさらにユダヤ人をイスラエルの地に集め、入植地を増やせば、新しい入植地が次の対立の最前線となる。
その繰り返しが延々と続き、ついにイスラエルは世界で唯一、ユダヤ人が安全に住めない場所になっていったのだという。
なぜそうなるのか。ジージは驚くしかないのだが、ラブキン氏はそこに究極の原因を見出すのである。つまり、シオニズムの根本は民族=社会主義にあるということ。さらに読み進めば、それは対立物であったはずのナチスと同じ国家社会主義の思想に行き着くとさえ言い切る。そのことに、ジージは驚愕せざるを得なかったのである。
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2010年07月15日

ジージの図書館

学校が終わるとすぐに町の書店へでかけた。目的は書棚に居並んでいた本である。「少年少女世界文学全集」「少年少女空想科学小説全集」(←これ、正式な名称は忘れた)その他の単行本も含めて毎日1冊か2冊、本屋で読破して帰ってきた。
「なんとか全集」の類いはほぼ全巻読み通した。すごい速さである。いま思うと、自分でもびっくりするくらいの速読であった。
雨の日も風の日も、図書館代わりに通い続けた。図書館にも入り浸りであったが、町の書店のほうが種類が豊富でなによりも新しかったのである。
ついには店員に目を付けられる。ものすごく邪険にされる。すると別の書店にシマをかえる。おなじ本がなければしかたなしに別の本を読みはじめる。そして、そこでまた邪険にされる。
ジージの住んでいた町には大きな書店が2つあった。中くらいの書店も2つほどあった。みんな同じ通りとそれに直角に交差する大きな通りに面していた。だから、邪険にされても流れていくところはいくらでもあったのである。
読んでいると、店長か店長代理くらいの偉い人がいらいらした顔でやってきて、どなりつける。雨の日だったらジージの傘なんかを掴んでぽいっと道路へ放り出してしまう。店員はおおむねジージの存在を無視してくれるのに、偉い人たちはだいたいケチくさかった。
まあ、そりゃあそうだろう。買わないでみんな読んでいってしまうのだから・・・。「空想科学なんとか全集」はたぶん、100冊以上が揃っていたのではなかったか。
店に並んでいるあいだに、薄汚いガキがよれよれにしていってしまうのだから、商売にならない。怒って当たり前だったのだ。雑誌の類いでは、ほんとうにヨレヨレボロボロ状態になっていくのもあった。
ジージは本を読んでいるとき、ものすごく姿勢がわるかった。背中が丸くなり、ずっと立ちっぱなしだから、読み終えて書店を出るときには、背中を真っ直ぐできず、さらに足が棒のようになっていて、歩くのもままならないときがしばしばだった。
学校の図書館は利用しなかったのか、というとそういうわけではない。授業のあいだの15分間はもとより、昼食後の遊び時間も図書館に入り浸っていた。
運動が苦手だったこともある。だが、それよりなにより、学友たちに馴染んで遊ぶのが苦手だった。べつにお高くとまっていたというのではない。もっとほかの、むずかしい事情があったのだが、それもいつかはこのブログで書きたいと思っていることで、一筋縄ではいかない話なのである。
個別には学校の図書館は放課後それほど長くいられなかったという事情がある。また、放課後の学校図書館は寂しすぎる、ということもあったと思う。
こうして、ジージは町の本屋さんを専用の図書館として大いに活用したのであった。大学入試の勉強も、ときには店の参考書売り場で立ち読みしながら問題を解いた。いま思えばほんとうに本屋さん泣かせだった。
・・・うん、そうだ、ここまで白状したのだから、ことのついでに謝っておこう。遅きに失した感があるけれど、感謝しておこう。
「本屋さん、どうも申しわけありませんでした。ものすごく役立たせていただきました。ありがとうございました」
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2010年07月02日

全面改訂版が欲しい

ハリーポッターについては、第1巻を読んで放り投げた。つまらなかったからである。まずリズム感がなく、かなり多くの文章が意味不明で、人物の性格や場の雰囲気など捉えにくく、読むのに骨が折れた。したがって、第2巻以降は手に取ることもなかった。
ものすごい売れようであることに違和感を感じたし、読んでおもしろいと感じる人たちの読書力に驚嘆したりもした。この歳になると文字から汲み取る想像力が落ちてくるのかもしれない、などと思ってもいた。
どんなところがわからなかったの、と問われても、いまあらためて本をひらく気にもならない。ようするに全編にわたるあまりの読みにくさに懲りてしまったのである。
これには年齢的な限界もないわけではなさそうだと思う。だがしかし、ジージと同様の感想を持った人たちが少なからずいたらしいということを、近頃ようやく知った次第。
ネットというものは不思議な機能を持っているものである。多数派だけが周囲に明確な意志を発信しているわけではなく、少数派でもしっかりと自己主張できる側面も保証している、そこがすごい。
「ハリー・ポッター」についてもいろんな意見があるのを知ったのはつい最近のことだった。へえ、そうなんだ、と多様な意見に感心していたのも束の間、今度、
「ハリー・ポッター日本語版の不思議」まとめ+(誤訳珍訳改善研究所)
というHPをみつけて読んだところ、ジージは眼からウロコの心境になったのである。
そうなのだ。回りくどい表現で、文章の流れが悪く、そのうえ意味不明な部分が多過ぎたのだ。それゆえ素直に感情移入できなかったのだ。この本をおもしろいと思った人たちはこういった意味不明な部分を、ちゃんと読み進められたのだろうか。疑問を感じてしまったのである。
いまは思っている。文字を追いかけて意味をとらえる読み方をする、いささか理屈っぽい読み方をするジージみたいな読み手たちには確かに読みづらかっただろう。しかし、文字を記号としてとらえる前に、すぐさま感覚としてとらえる能力を持っている人たちにとっては、文字イコール映像イメージ化の作用があって、読みにくさを感じない可能性があるかもしれない、と。
しかしそれは、読み手の映像化能力の違いに依拠しているだけであって、翻訳の問題を解消してはいない。そしておそらく、翻訳がさらに洗練されていったら、読み手の能力に応じて、いっそう作品のイメージはふくらんでいくのではないか。判りやすく展開されていくのではないか。そんなふうに思ったのである。
なにしろ毎日書きちらしているジージのブログの文章ではない。金を取っている。それも半端じゃない金額なわけだ。ちゃんとしてもらえたら、さらに読み手は増えるだろうな、と考えたわけで・・・。
詳しいことは先に掲げた「誤訳珍訳改善研究所」の記述を読んでもらったほうがいいと思うので、ここでは割愛する。すくなくとも、全世界でものすごい数が読まれた以上、原文が元から読みいにくいわけではないだろうと推測する。
改訂版とか新訳版というのがあるのだから、できれば、読みやすく、きちんとした翻訳になって再登場してほしいと思う。そのときには、ジージもなんとか全巻を読みこなしてみたい。なにしろ、おもしろくなければ、だれも飛びつかないはずなのだ。きっとまちがいなくおもしろいはずだ、とジージは確信しているのだから。
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2010年05月21日

読書「ジプシーの歴史」

副題は「東欧・ロシアのロマ民族」とある。著者デーヴィッド・クローウェという人については知らない。図書館でほとんど衝動的に借りただけである。
かなり分厚い本で、読みはじめてすぐに、マイッタと思った。まず東欧の各国々ごとに、歴史を概観している。それがまたものすごくおおざっぱで、資料的なのである。
これは読むのにくたびれそうだぞ、と思いつつ、最初のブルガリア編からゆっくりゆっくり読み始めた。全編読み終えるのになんとまあ苦労する本であったことよ。途中経過はほぼ読んだその先から頭を素通りしていったのであった。
おしまいの「むすび」と「解題 ジプシーと呼ばれる人々 ー ロマ」さらに「訳者あとがき」を読んで、読みづらさの意味をようやく納得した。ジージはもともと、ジプシーに流浪の民という潜入観念を持っていて、いささかロマンチズムにまみれ過ぎていたらしいのである。
このロマンチズムは世間一般に広く流布していて、それによって多くの誤解が生まれているのだという。彼らが非常に差別的な状況に置かれ、あらゆる権利を制限され、文字を学ぶ機会も得られないまま、差別による忌避(西)や強制からの逃亡(東)を余儀なくされてきた実態は語られることが少なく、非ジプシーの世界で語られているジプシー幻想を否定する試みもほとんどなかったことが、ロマンチズムを固定していった原因という。
また、東欧・ロシアの歴史の複雑さは、ジージの浅学ではとうてい整理することが不可能であるうえに、ジプシーたちの放浪は範囲が広く拡散しすぎているという事情もあって、第2次大戦後に生まれた国別にわけて分析する本書の方法は、やり方自体が不適当という指摘も書かれていた。
唯一おもしろかったのは、東欧・ロシアと限定してまとめる場合、社会主義との関係でとらえる視点がポイントになる、というところであったと思われる。
レーニン指導下の社会主義成立初期においては、ジプシー問題は民族自決の権利としてとらえられていたが、次のスターリン時代にはいって抑圧的政策に切り替えられていったという指摘。
個別の事例では「へえっ、そうなのか」という事柄がいっぱいあって、いろいろと驚かされた。たとえばクラシックに「ツィゴイネルワイゼン」があるが、ジプシーの呼び名のひとつ、「ツィゴイナー」に関連した曲名らしい。彼らに対する蔑称が、そのまま楽曲の名となっているわけだ。
全体として東欧は抑圧的だが定住させる事を模索した傾向があり、一方で西欧は忌避排除する傾向があった、と思われる。
ナチスドイツの強制収容所で絶滅の危機にさらされたジプシーは相当な人数になるものと思われるが、正確な実数は知りようがなく、さらにジプシー自身がその被害についてまとまった声をあげなかったため、ユダヤ人への対応はあったものの、戦後ずっと無視され続けてきたという事も改めて知った。
彼らは歴史の狭間にいまも置き忘れられている。そして、いまも極端に貧しい生活を余儀なくされているのである。
四苦八苦して読み終わり、もうすこし概括的に読める本を探そうと思った。ジージはあまりにも彼らのことを知らなすぎる。反省!
最近ではジプシー映画が多数公開されるようになっている。ジージの記憶に残っているのは「ジプシーのとき」(ユーゴ)、「僕のスウィング」「ガッジョ・ディーロ」(仏)がある。東欧の映画には、ジプシー文化の色彩が色濃く漂っているのが見てとれる。アルバニアの「ティラナ零年」などもそうだし、題名を忘れた多くの映画がジプシー文化を濃厚に表現していたと思う。
「耳に残るは君の歌声」ではジョニー・デップがジプシー役をやっている。ほかにも無数の映画があり、印象に残ったものは多いが、ジージの健忘症により、題名をほとんど忘れている。
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2010年05月19日

「アメリカインディアン悲史」その3

こうして見てくると、歴史が過去をまったく学び取っていないもののように思えてくるのである。
民族大移動について歴史の授業で習ったことを覚えているだろうか。中央アジアの高原において民族が覇権を争った時代があった。そして、玉突きのように次から次へと押し出され、多数の民族がユーラシア大陸をさまよいヨーロッパへ至った。
それは遠い過去に終わってしまったことではなかった。アメリカの成り立ち自身においておなじことが繰り返されていたのである。
様々な理由でヨーロッパを押し出された移民たちの群れが大陸に殺到し、先住民たちを追い出し、ただひたすら無秩序に広がっていった結果として今のアメリカがある。
イスラエルのあり方も、その延長線上で考えることができるような気がする。過去の歴史が繰り返してきたことを、いまおなじ方法でやり遂げようとしているイスラエルを、歴史から学べる位置にいるジージたちに押しとどめる方法はないのだろうか、などと考えてしまう。
押しとどめようにも彼らはすでに後戻りできないほど深くまで、集団催眠状態に落ちてしまっているのだろうか。
白人たちがアメリカインディアンにやったこと、そして自らの行為によって意識の真相に抱いた恐怖とおなじものが、イスラエルにも根を張ってしまっているのだろうか。
しかし、なにかの変化が起こっているのを感じることもできる。ユダヤ人内部から声が上がっているのを、ジージたちは知っている。そのことを知っているが故に、次に力を発揮すべきは、まちがいなく彼らをとりまく我々なのだろうと思わざるをえない。
チェロキーの悲劇は、彼らに襲いかかった白人たちだけの責任であるのではなかった。その周囲にいて、そのことを見ないでいたものたちの責任でもあったはずだ。
たしかに、かつては知らなかった人たちがいただろう。しかしいまジージたちは、歴史に学んでいる。知らないという顔をすることは出来ないはずである。いまを生きるものたちには、すでにその両肩にずっしりと食い込む重たい責任がまちがいなくあるはずである、と思う。
「涙のふみわけ道」を現代に再現しないために・・・。
この本を読んだずいぶんあとで、トムクルーズ主演の映画「遥かなる大地へ(92年)」を見たが、ラスト近く、土地を獲得するための巨大な騎馬レースが展開される場面を見ていて、そこはたぶんアメリカインディアンの土地だったんだろうなあ、とジージは思いあたって、なんとなく複雑な気持ちになったのを覚えている。
ようするに、そこに住んでいるものたちを追い出したあと、大挙して押し掛けて肥沃な大地を欲しいだけものにしていったということなんだろう。その後の歴史で、おなじことが地球の至る所で繰り返され、日本人もおなじことをやり、いまもまだ地球のどこかで行われつつある・・・というわけだ。
ヨルダン川の西岸で「潜入者」強制退去の軍令が公布された。そのことから思う、地球の歴史である。
最後に、インディアン掃討に多大な功績を上げた軍人の無慈悲な言葉を引用しておく。彼は老若男女を問わず殺しまくり、次のような言葉を残した。「シラミの子はやがてシラミになる」・・・この言葉までそのままいまのパレスチナの惨状に当てはまることに慄然とせざるを得ない。次の「悲史」を自筆で書かないために、肝に銘じたい。
(以上、「悲史」おわり)
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2010年05月18日

「アメリカ・インデアン悲史」その2

細かい記述は省くが、インディアンが追い出されたあとの土地には、ただちに白人たちが殺到し、土地を根こそぎ奪い去っていったのである。最後まで抵抗していたチェロキーたちも、ついに追い出される。
ここで特に見ておきたいのは、白人たちの反応だと思う。自分たちがインディアンに対して行った極悪非道に対して、当然反撃があるものと危機を感じ、彼らがそれを極度に恐れたこと。それゆえ、できるだけすみやかにミシシッピー以西へインディアンたちを移住させてしまおうと焦ったこと。
そして、インディアンたちが追い出される先は、白人たちにとってほとんど価値のない、荒れ果てた未開の大地であったということ。これはなにかと似ている、と感じないだろうか。
GoogleEarthでパレスチナの大地を調べると判る。パレスチナ人たちが追いやられた一帯には、赤茶けた土地が広がっており、ごみごみとした住宅群が押し合いへし合いしているのが見てとれる。
一方、そのすぐ隣りに広がっているのは、イスラエル人たちの入植地である。整然と区画され、広大な緑の大地が延々と続いている。そしてそこに、両者を区画するコンクリートの壁がある。
このあからさまな違いを見ると、イスラエルがコンクリートの分離壁を築きたくなる気持ちも判らないではないと思えてしまう。押さえつければ押さえつけるほど、反発がきつくなるだろうと予測し、身をいっそう固く防御するようになる。自らの内部に生まれる疑心暗鬼を押さえられなくなり、暴虐の限りを尽くすようになる。そこに巨大な壁が建造されるのである。
だがしかし、ソビエトに侵攻したドイツ軍の末路は、復讐されることへの恐れからくる集団自殺であったことを考えたい。暴虐の限りを尽くしたものたちは、みずからの影に怯えてさらに暴虐に走る。そしてみずからの命をも危うくするのではないか。パレスチナにおけるイスラエルの行為もまた、おなじところへ落ちていくのだろうか、と危惧せざるを得ない。
ガザの上空数百メートルから見下ろすGoogleEarthの写真は、そんな気持ちを抱かせるのに十分な根拠を、見るものに与えるのである。

当時、チェロキーテリトリーの治安対策に送り出された軍隊のなかには、クソ真面目に不穏分子を厳しく取り締まったものたちもあった。しかし、捕えてみればそれはほぼすべて白人たちであった。
彼らの一人は記す。(白人の暴虐ぶりのために、チェロキーたちの)「100人中99人とはいわずとも、20人中19人は、まったくの文無し乞食として西へいくことになるであろう」
無骨一直線の軍人にしても、そのひどさに絶句するほどなのである。移住を拒んだチェロキーたちは全員、強制収容所へ入れられ、ミシシッピー以西地域へ送られていく。無人となった土地や家には白人たちが先を争うように乱入し、墓場を暴くなどを含め、略奪をほしいままにしていったのである。
全行程1300キロに及ぶミシシッピー以西への移住の旅も困難を極めた。道などまったくない地帯を、食料も、必要な車両も揃わない、病人や老人や子どもを含む13000人のチェロキーたちがほとんど徒歩で横切っていくのである。
移住に際しての死者総数は正確には判っていない。およそ4000人であったと推測されている。彼らがたどった道筋を、インディアンたちは「涙のふみわけ道(The Trail of Tears)」とよぶのだという。原語では「そこで人々が泣いたふみわけ道」・・・悲しみはいまも語り継がれている。
(以下、明日へと続く)
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2010年05月17日

「アメリカ・インディアン悲史」その1

先日、このブログで、ヨルダン川西岸における「潜入者」追放に関するイスラエル軍の軍命令について書いた。そこで思いだしたのが、藤永茂著「アメリカインディアン悲史」(朝日選書21)という本であった。かならずしもぴったり符合する事実ではないにせよ、多くの部分で重なるものがあるのを感じたのである。
コロンブスがバハマ諸島の小島に到着してからおよそ100年間のあいだに、南北両大陸で1億人の人々が殺されたり持ち込まれた疫病で死んだりした、となにかの本で読んだ記憶がある。
アメリカインディアンもその例に漏れず、最悪の状況に追い込まれるまでに、もともとの推定総人口の90%が死んだと伝えられている。それほど白人の侵略は過酷を極めたのである。
インディアンたちの抵抗も凄まじかった。しかし、次第に追いつめられ、ついに絶滅していった種族も多数あった。映画や小説で名高い「モヒカン族の最後」は、それらの事情を背景にしている。
今度、ジージが思い出したのは、それら重畳と積み重ねられた悲劇の中でも特に名高い、チェロキーインディアンについての物語だった。
今回は彼らがたどった悲劇の歴史をひもといてみようと思う。彼らはもともとかなり好戦的部族であったという。テリトリー内に侵入してくる白人たちと果敢に戦い、追い散らしていた。しかし18世紀終わり頃、自らの生存を微弱な武力によって維持することの不可能を悟り、しだいに原理的武装放棄、戦争放棄への道を歩み始める。
そして定着し、文字を発明し、チェロキー語による新聞を発行し、憲法を制定し、議会を設置し、裁判所を設け、産業を興し、エトセトラ、まったくの平和的手段で白人たちとおなじレベルにまで自らを引き上げ、その生存権を主張する道を選んだのである。(彼らの悲しいまでの努力に、ジージは涙を禁じ得ない。)
彼らは戦によらず、「自由・平等・進歩」を旗印にするアメリカの「善意」に民族の全運命をかけた。襲いかかる白人たちのハイエナのようなどん欲さの奥に、それでもなお善意があることを信じようとしたのである。
そしてそれは見事に裏切られた。相互理解が進む一方で、チェロキーテリトリーに対する白人による収奪は進行し、チェロキーたちはどんどん追いつめられていく。
第7代大統領アンドリュー・ジャクソンは初の国会施政方針演説で、ジョージア・アラバマ両州内のインディアンが独立の政体を持つことを許さないと明言、そこに住むインディアンのすべてをミシシッピー以西の地へ移す法案を提出する意向を明らかにする。
それからわずか11日後、ジョージア州議会がチェロキーネイションの法律や議会を完全に失効させ、さらにすべての集会を禁止し、ミシシッピー以西への移住に反対することを禁じる・・・その他、白人には無条件に有利、かつチェロキーには言語道断、無理難題、傍若無人といえるような法案を可決するに至るのである。
こうしてとんでもない事態が発生する。一攫千金を夢見る白人たちが続々とチェロキーテリトリー内に集結し、悪逆非道をほしいままにしたのである。それは当然、チェロキーたちの反発を呼び、不穏な空気が立ちこめてくる。そしておきまりの軍隊の出動に至る。
ジャクソン大統領が「インディアン撤去法」を可決成立させたのは1830年であった。これえはチョクトウ、クリーク、チカソー、セミノール、チェロキー(開化5部族)計6万人を強硬にミシシッピー以西へ追いやってしまうことができる法律で、翌年から強制移住は始められる。(以上、続きは明日・・・)
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2010年05月04日

漫画判「蟹工船」

過日、娘が小林多喜二の「蟹工船」を持って帰宅した。ほう、なかなかやるなあ、と思いつつ、「読めるかな?」と気になった。なにしろ古い漢字、難しい漢字、加えて見たことも聞いたこともないような出来事、一切合切含めてテンコ盛り目白押しで、きっと読みにくかろうと思われたのだ。
現代風に漢字を少なくしたり言葉使いを和らげたりしたら、原作の味が薄れてしまうし、いまはまあ古典みたいなものになっているのかもしれない。「これは難しいぞ」と危惧していたが、彼女は四苦八苦しながらでも、なんとか最後まで読み通したようだった。
うん、良きことである、なんて、親としては感心したのだった。その後、ネットをやっていて以下のサイトに漫画版「蟹工船」がアップされていることを知った。

白樺文学館「多喜二ライブラリー」

このHPで07年から「マンガ蟹工船」が無料公開されていたのである。上記のサイトにダウンロードへのリンクがある。うかつにもそのことを、ジージは知らなかった。
PDFファイルにておよそ40MB。本を読むのは苦手でも、これなら読めるのではないかなんて思ったりして。娘には遅かったけれど・・・。
ジージ自身はずいぶん昔に読んだが、おそらく甚だしい斜め読みによって、ほとんど内容を憶えていない。冒頭部分の「地獄さえぐんだで」というセリフ以外、きれいに忘れてしまっていた。
ふがいないことに、こんどマンガ版を見て、さてこんな内容だったかな、などと思ってしまうほど記憶があいまいなのである。それでも、漫画版は理解しやすかった。文字と絵とではこれほど印象の受け方が違うか、とジージは感心してしまったのである。
巻末に解説が載っているが、そこで多喜二の小説の作り方について、映画的手法がみられると書いてあった。たしかに、マンガを見ていると、その観がある。マンガはもちろん小説のダイジェストになり、補完物になりがちではあるが、絵によって感性に具体的に訴えることができる長所を持っている。
場面の切り取り如何によって原作を凌駕することもありうる。漫画「蟹工船」、たかが漫画などと侮らずに、とりあえず読んでみることをオススメする。それから原作の小説に移動するという方法もあるかもしれない。
両者を比較するのではなく、相互に不足している部分を補うという意味において、前後して読むことは有効な方法ではないか、と思う次第。
順番は逆になったけれど、娘にも奨めてみようかな。
posted by ガンコジージ at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする