2015年10月21日

放射能汚染は自然的かつ人為的に拡散中

栃木県中部と群馬県北西部の2011年3月14〜15日。茨城と千葉の境目(東京東部を含む)一帯の3月20〜21日。宮城と岩手県境3月20日。フクイチ原発事故による放射性物質大量汚染をシミュレートした概略図が、以下の記事にある。これは大きな汚染を抜き出して記述してあるに過ぎない。実際にはもっと広い面積が、様々な濃淡で汚染された。しかし、これはこれで、赤や緑で囲まれていないところは安全、などという思い込みを助長しない限り、放射性物質飛散の実態をうまく表す貴重な資料ではある。
ブログ主は宮城と岩手の県境にはまだ行ったことがないが、残り3カ所の赤い囲みの部分には何度か出かけている。最初は事故後7ヶ月ほど経て長野・群馬・栃木の高速道を通って福島へ出かけた折、周辺の放射線測定を試みた。これを翌年10月にもう一回やり、都合2回。
その時の印象と、群馬県が公開している定点測定データを組み合わせて地図上に数値を並べてみたことがある。それで感じたのは、群馬県北部・西部の山岳地帯の数値がおしなべて高く、車走行中そのあたりで高くなった数値が群馬県の平地に至って次第に低くなり、栃木県へ入るまでそれほど大きくならなかったのを覚えている。高速道を北上し矢板サービスエリアの少し前から再び数値が上昇を始めたが、福島県境を越えるまでに勢いを失い、直線的伸びを示さなかった。
高速走行中の測定なのでかなり精度は落ちるものの、ひとつの傾向はあった。下記記事にある赤い囲みの存在は確認できた。福島県下では、数値は各所で大きく変動した。
千葉と茨城の県境一帯は、2014年4月、市川・松戸・柏を測定している。まだ一回だけなので確たることは言えないが、記事添付イラストの南西端くらいの位置を測定範囲としていたことになり、当時得た数値の地理的意味が個人的に納得できた。
☆「3号機も高濃度汚染源・・・ベント後、北西に放出か」読売新聞
10月19日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151018-00050097-yom-sci
記憶は遠くなりにけりか、こんなデータが示されても、該当地域に限らずその周辺や、さらに広い範囲に居住する人々の危機感に再び火がつくかというとそうでもない。嫌なことはなかなか我が身からはなれないし、しつこい。そんなものは意識して遠ざけよう、忘れるのがもっともうまいやり方だ、ということになるのかもしれない。危機感はわずかの年月で日常から遠ざかっていく。
昨日の週プレ関連で伝えたものと重なる記事を、おなじ週プレNEWSでみつけた。線量が高いと指摘されていた国道6号線での出来事である。帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域を通り、バイクや自転車、歩行者などの通行が出来ないところもあるという。そこを県内高校生を主体とした1400人が清掃ボランティア活動・・・?
☆「地元高校生が強制参加? 放射能に汚染された福島“6国”清掃活動は美談でいいのか」週プレNEWS10月17日
http://wpb.shueisha.co.jp/2015/10/17/55093/
まったく理解不能の被爆ボランティア。本日の新聞1面には「被爆で労災認定 広がる契機に 白血病の元原発作業員 語る」の記事がある。事故発生から今年8月までの4年半で約4万5千人の労働者が原発事故現場で働いた。フクイチ作業における被爆で白血病が発症する可能性は低い、とする専門家がまだいる。被爆が全国に広がれば因果関係は疫学的に断定しにくくなる。それまで待っていればいい、とでも言うのだろうか。我が身に関係ないと思い定めた庶民は、たしかに体よく忘れていくだろうが・・・。
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2014年10月13日

経験を継承することの大切さ

本日の「天声人語」に「台風の目」の記述がある。人工衛星から地球を撮影したら、今度の台風の中心がぽっかりと見えたという。撮影者はこんなにデカいのを見たことがない、と語っているらしい。
ネットで観た写真では、なるほど凄まじい大きさのようだ。目はもちろん台風の大きさもすごい。地球を覆い尽くしそうな分厚い雲が台風の全体を示しているとしたら、それはたしかに前代未聞というべきか。
そこで思い出した。小学校時代のこと、台風が多い年だったと記憶する。なかでも巨大なのが、我が街を通過していった。
すさまじい風雨が荒れ狂い、今にも家が潰れるのではないか、映画「オズの魔法使い」のドロシーの家のように空高く吹き上げられるんじゃないか、などとキモを縮めていたら、ほとんど「急に」と表現できる短い時間で、風と雨の音が止んだ。
「うわっ、台風が行っちゃった!」と飛び上がり、外へ走り出ようとすると、父がタバコに火をつけながら、「気をつけろ。台風の目にはいったんだ。すぐまた雨と風がきつくなるぞ」とたしなめたものだった。
言われて「台風の目?」と首を傾げた。とっさの連想では、空の上に巨大な目玉が浮かんでいて、人間世界をじっと見下ろしているイメージがあった。脳裏には、渦巻く黒雲に取巻かれて地上を睨みつける目の、邪悪な姿があった。
「気をつけろよ。すぐ戻ってくるんだぞ」という父の声を尻目に、恐いもの見たさで外へ出た。期待に反して戸外はからりと晴れ渡っており、まぶしいほどの日差しの下に、ひっそり静まり返る家々の連なりがあった。
空に一片の雲もなく、まったくの無風。足元には木の枝や葉っぱが散乱していたが、ぴくりとも動かないその様子は、固く戸を閉めた家々の沈黙と重なり、街全体が死のにおいに塗り籠められているようだった。小路から大通りへ出たが、のっぺりとしたアスファルト道路があるだけで、いつも激しく行き交うトラックの姿はなかった。
人影もなく黙りこくった街。怖くなって家へ走って戻り、「だれもいなかった!」と父に報告してほんのわずかの時間しか経っていなかったと思う。戸外でモノの動く音がし、風雨が戻ってきた。「まだ台風の半分が残ってるんだ。前より激しいぞ。風は前のと逆に吹く。コッチへ傾いた家が反対側へ傾く。それで元に戻ればシメタものなんだが」本気だか冗談だかわからない父の言葉を聞きながら、あと半分の我が家の危機を、家族でじっと堪える時間が始まったのだった。
考えてみると、その頃の大人たちは、いろんなことをよく知っていたような気がする。「台風の目」なんぞでは風が逆に吹いて前より激しく荒れ狂うなどと、いまどれくらいの人たちが知っているだろう。
たとえば子供たちが病気になったとき、父は医者から貰った薬をちょいと舐めたり臭いをかいだりして、「これは胃薬」「これは熱冷まし」「これは漢方薬」エトセトラ。結論として、「医者はたいした病気と考えとらんようだ。薬をちゃんと呑んで大人しく寝ていたらすぐ治る」などと「医者の診断」の診断をしてくれたものだった。
転んでケガをした時でも、血の出具合や色を見て血管が切れているか、動脈か静脈か、適切な判断を下した。軍隊時代の経験もあっただろうが、父の世代が積み上げた知識の広さを、いまの自分が継承できているかどうか、「天声人語」を読んでいささか覚束ないものを感じ、アタマをぽりぽりと掻いてしまったというオソマツ。
ある日とつぜん降って沸いたように持ち上がる危機。それに向ける真剣な視線。継承されるべきものが途絶えていくことへの怖れを持ちたい、と痛感したのだった。
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2012年05月03日

重層している「ガラスの天井」

同窓会は原発から40キロのところで開催された。けっこう繁華な街であるが、ひとたび事故あらば大量の放射性プルームがまっすぐ押し寄せると予測される地点である。
かつてはただの小者ガキであったやつが市会議員をやっているとかで、いかにも「地方政界で権勢を振るってるんだ。ぼく、すごいでしょ」みたいな態度で握手しにくる。「しょうがないね、こいつは」と思いつつ握手してやる。ついでに、「あんたの家、おぼえてるよ」と応える。
貧しくもなく富裕でもない、まさに3丁目の典型的家庭といった風情の家であったが、それほど仲良く遊んだ記憶がない。たぶん、ぼくとはすでに「生活のラベル」が違っていたのだろうと思う。
さらにいえば、なにを血迷って市会議員なんかになったのか、さっぱり見当がつかない。級友たちといろいろ話しているうちに、すこしずつわかってくる。
いま同窓会に出席している級友たちは、3丁目の表通りに面したものたちがほとんどなのだ。3丁目裏通りの級友たちはひとりも来ていない。
あえていえば、ぼくくらいか。いや、ぼくもまた、ほんとうの意味での3丁目裏通りとは色合いが微妙に違う。3丁目表通りに半分ハミ出していたぶん、どちらとも遠くなってしまった異端者なのである。
同窓会名簿を見せてもらうと、裏通り派の住所は空欄が多い。ほんとうに行方知れずなのか、あの世へいってしまったか、ぼく以上に3丁目を敬遠しているのか。
かつてオバマとヒラリーが米大統領予備選挙を戦ったとき、ヒラリーが「ガラスの天井」なるものの存在を匂わせつつ、涙を流す演出をしてみせたことがある。当の女性たちからもブーイングを浴びたほどわざとらしかったけれど、「ガラスの天井」は、たしかに存在する。その他の場合でも、違ったかたちで同じように確実に存在する。
同窓会の場で消息がわからない級友は、それを感じているのだろう。たしかにぼくも「薄いガラス」を感じた。生きてきて、築き上げた人脈であり立場でありが、まったく違うのを感じた。
所在なげなやつがいたので近寄ると、とたんに胸の内をほとばしるように話し始めた。生活の苦しさを感じさせる言葉の数々だった。かつては明るいおだやかな性格だったのに、いまは積み重ねた生活の重たさが彼を圧迫しているのを痛感した。彼もガラスの存在を感じているな、と思った。
「人間は社会的諸関係の総和である」という言葉を思い出す。同窓会名簿で所在が判らない友人たちのことを思う。できるだけ幸せでいてほしいな、と願う。
彼らのなかにこそ、会って話したいやつらがいる。決められた世間に満足し、その場所にあぐらをかいて座り込み、安定を満喫している友人の満足げな様子を見ていると、そんなことを考えてしまう。
またさらに、そのような彼らであっても、活断層の真上にある原発が事故を起こせば、ひとたまりもなく築き上げたすべてを捨てないといけなくなる不安定さのなかにいる、ということを感じる。
「ガラスの天井」は厚さや色合いを変えながら、幾重にも重なって積み上がっている。それら一切が、ぶ厚い一枚を残してすべてたたき壊され、中途半端な世間で満足していたものたちまで混沌のるつぼに放り込まれたとき、行方定まらないヤミクモな一揆が発生するか、新しい社会を創るほんものの革命がはじまるか、いまはまだ「世の煮詰まり方」と「人の煮詰まり方」に、あまりにも広大かつ主観的な乖離があるのかもしれない。そんなことを思った。
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2012年05月02日

小さいタネでも育てば大きい木になる

小学校の同級生の何人かから同じような思い出話をされる。「君はあの先生とものすごく対立していたね」とか「ひとりで戦っていたね」といったこと。
そうだ、6年間の小学校生活のうち2年と5年6年をあわせて正味2年半ものあいだ、某女教師と熾烈な闘争を繰り広げたのだ。あらためて、そんなにすごかったかな、と思う。じっと考えてみて、確かにそれは戦いであったと気がつく。
なにしろその担任とはウマがあわなかった。目の敵にされ、かなり激しく抵抗もした。ストライキまがいの煽動までした。
1年生の教室の掃除をぼくのクラスが担当させられたとき、1年の担任がやたらぶうぶうと文句を言うのでみんな困り、我が担任の指導で「なぜ文句を言われるのか」について反省会をした。だが、みんな「きっとわたしたちが悪いのだと思います」「謝ろうと思います」なんて意見ばかり。おもしろくなくて、「ぼくらは悪くないです。だから、先生が謝るまで掃除をやめたらいいと思います」と提案した。
すると、「それ、いい案!」というささやきが追随したのだ。流れが変な方向に行きかけたことを察知した我が担任が「弁士中止!」ならぬ「反省会中止!」を宣言し、ストライキ作戦はすぐ潰された。
また6年生のとき、「補習授業なるものをやるから残りなさい」と言われたとき、みんな「ええーっ!」と不平をならしたのに、「嫌なら帰りなさい!」と教師に怒鳴られ、全員たちまち凹んでしまった。とそのとき、ぼくひとりだけ間髪をいれずに立ち上がり、とっとこ家へ帰ってしまったのだ。先生も生徒もポカンとして見送ってくれたっけ。カッコいい? いえいえ、トイレに行きたかっただけなんだけどね。
算数の授業で図形を書かされたとき、担任は生徒一人ひとりのを見て回り、ぼくの図形をちらっと一瞥、「やりなおし!」と突き放した。ぼくは「ちゃんと見ていない」と感じ、2度目に回って来たときも同じ図形で押し通した。担任→「なんで描き直さない」。ぼく→「まちがっていません」
周囲のみんなドキッとしたらしい。なにかのことで反省文を書かされたときも、みんな「反省文」を書いたのに、ぼくだけ「反省しない文・・・大人の方が勝手だ文」を書いたっけ。ひとりずつ立ち上がって「反省文」を読まされ、順番がぼくに回ってきたとき、とつぜん担任は「そこまで。みんな、よくわかりましたか」で、ぼくの「反省しない文」は読み上げられることはなかった。
考えたらこんなことばかり。よくやったもんだと思うけれど、意味もない反抗なんかあるわけがない。こういうことには、必ず原因があるものだ。
子どもでもあるし、発端は他愛もないことであっただろう。とりあえず小学校2年生のときの記憶を探ると「オーッ、あった!」
2年生のとき、午前中の休み時間に、目尻を切って大出血し、病院へ連れて行かれたが、そのまま昼食から午後の授業を続け、シャツの胸いっぱいに広がった血が乾いてゴワゴワの姿で帰宅したことがある。そのシャツ、その後も長く着ていたけど、あのころからすでに、手に負えない子どもと思われるなにかがあったんだな。きっと・・・。
いじめもその延長であったのかもしれない。以後、なにかにつけて反抗的であり続けたのも、遠因はそのへんに帰着するように思う。
で、強引に現在の世情にくっつけて考える。いくら当面をうまく取り繕えても、大人しい民の心に植え付けられたタネは、本人が気がつかないままでも、きっと育っていくものだということ。反抗の木が育つと、どれだけ大きくしつこいものになるか。押さえつけるヤカラたちよ、ユメユメ侮るなかれ、である。
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2012年05月01日

同窓会なんてものは

ここのところ、まともに家にいない。電車に乗って、あっちへいったりこっちへいったり、休む間もない。
日曜は故郷の小学校同窓会にでかけてきた。現在は、その足で関西へきている。落ちつかんなあ、とぼやきつつ、今日は日曜の同窓会について書こうと思う。半世紀ぶりに出あって、良いの悪いのいろんな思い出がよみがえったのだ。
一番先に書きたいのは、とても腹の立つやつのこと。ニコニコしながら2次会3次会まで催してくれた幹事。こいつが、3次会のときにこんなことを言ってくれたのだ。「ぼく、思いだせないんだけど、君のこと、もしかしていじめたりしなかった?」
「思い出せないんなら聞くんじゃない!」と言いたかったが、実はぼくも思い出せなくて、「いじめられた思い出はあるけど、誰にというのはさっぱり思い出せない」と応えたのだ。
顔が昔と結びつかない、名前を聞いてもピンとこない。そんなんで変なことを聞くから、頭がこんがらがってしまう。「もしかしてこいつ、オレをいじめてくれたやつだったかな?」なんて思い込んでしまう。なにか悪さをしてくれたかもな、なんて思いが頭をもたげる。
考えて考えて、ようやくわかったのは、「いや、こいつは、べつに意地悪しなかった」ということ。子どもは素直に遊んでくれても、大人は「ああいうのとはつきあうな」などとそそのかして疎遠にさせる。そんな類の関係だったと思う。こういうケースはよくあった。畳にあがらせなかったり、「もう来ないでくれる」なんていうのもあった。でも、そんなこと考えるのはみんな大人だ。
へんな応答をしてしまったけれど、「罪の意識を感じなくていいよ。悪いのはあんたじゃない。親がやらせたんだから」と二日遅れでいまはそのように言える。また出会うのは数年後だが、未来の言葉としてとっておこうと思う。
もうひとつは中学の同級生。以前このブログで書いた不良のことだ。卒業のとき「ぼくは真人間になります」と作文を書いて、みんなが感動したっけ。
別の日に詳しく書くが、彼の人生は波乱に満ちたものだった。真人間を誓ったのも束の間、総番を張って他校の不良たちと大乱闘したのち、板前修業をして料亭を開いたのだと言う。
行ってみたら、なるほど高級だった。ぼくなんかの出入りするところではなかった。すごく歓迎してくれてうれしかったけれど、やっぱりドスの利いた声で、べらんめい口調で早口でしゃべられると、なんだか昔は感じなかった凄みが押し寄せてくるようで、正直すこし恐かった。帰りがけに握手してくれた感触は、すごく穏やかな感じで、ホッとした。
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2012年02月25日

学校で学ぶこと学べること

中学3年の時、学年トップの不良生徒と同級生になった。いわゆる学ランというやつを着て、見るからにカミソリみたいな顔つきをしたやつだった。
と、普通なら先入観で遠ざけてしまうところだが、なぜかクラスのだれもが彼を遠ざけなかった。それどころか、ずいぶんと仲良く交わり、休み時間などでもわいわい雑談に興じたりして、いつのまにか彼も仲間になって普通に付き合っていた。
じっさい、はじめは彼のほうがとても遠慮がちにしているようだったし、大人しそうだったので、敬して遠ざける理由がなかった。学ランにしても、おかしな服装しているな、くらいにしか思っていなかったのである。
勉強はもちろんぜんぜんダメ。わからないところを教えるなどした結果、だんだん成績が向上し、テストの成績が良かったりすると、「やったじゃん!」なんて周囲が喜んだり、先生に指されて英語のリーダーをすごい早口で読んでいて、またまた「やるじゃん!」ってことになったりして。
彼が学年トップの不良であったとわかったのは、彼と最も仲の良かった生徒が、とちゅうで告白したことによっている。「担任がよ。3年になったすぐにオレを呼んでよ。あいつがクラスに馴染むように、ちゃんとメンドウみてやってくれって頼まれてさ。オレ、ビックリしちまったよ。くれぐれもって頼まれたら、嫌って言えねえじゃん。オレが真っ先に不良やってられねえじゃん。頼まれたからには、やらないと男じゃねえし、有り難いことにあんたらも、ぜんぜん分け隔てしなかったし、助かったよ」というのであった。
うかつにも、そのときまで学年トップの不良だなんて知らなかったから、ため口で話したり、遠慮なく勉強を教えたり、ケンカが始まりそうになると、「やめたら?」なんて平気で口を挟んだりしていたのだ。彼はけっこう素直に言うことを聞いてくれたので、疑うことなど微塵もなかったわけで・・・。いや、告白したその友人が接着剤として絶妙の役割を果たしたのだろうと、いまは思うが。
で、そのことを知ってから、彼に対する態度が変わったかというと、とくになかったと記憶している。テストで彼が見違えるような成績を取る。担任が「よくやったじゃないか」と誉めると、彼が照れくさそうに「へへっ」と笑う。そんな彼を見る周囲の目も混じりっけなしの「やったね!」という感じであったと記憶する。
そして卒業が近くなり、卒業文集をつくることになった。何人かの作文を先生が指名して読ませたとき、彼も指名されて立ち上がり、読み出した。
「ぼくはすごい不良でした。このクラスへきたときも、すごく突っ張っていました。でも1年経って、ぼくはこのクラスでほんとうに良かったと思っています。・・・ぼくは不良をヤメようと思います。真人間になります。みんな、ありがとう」(記憶なので、この通りではなかったと思う。伝えきれないのがもったいないと思う)
そのとき、担任は「うんうん」とうなずいていた。クラスのみんなも、「うんうん」とうなずいていた。そして、読み終わったとき、担任が「よかったな」と言い、いっせいにぱちぱちと拍手が沸いた。
留年制度なんてない時代の話。教師が理念を持って教える余裕があった時代の話である。
今年の2月、彼が主催する同窓会開催の葉書が届いた。気持ちが冴えなくて出席しなかったが、いまの彼に会いたい気がするし、この次は絶対に行こうと思っている。
そして思う。学校で学べることは、昔はテスト以外にたくさんあった。少なくとも留年市長の経験した範囲の外には。
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2011年02月23日

父のおもしろ軍隊話・・・3(戦争への警戒)

父の戦争観は、ジージを何がなんでも理科系の大学へ進学させようとしてことで、一貫していた。
「大学へ行け。それも技術系だ。日本は20年ごとに戦争をする。明治維新から日清日露戦争、第一次大戦、ちょっとずれるけど満州事変に太平洋戦争。だから、おれの予測ではお前がはたちになるころには、絶対に次の戦争がある。でも心配すんな。技術系は兵隊に駆り出されることはない。戦争の道具をつくらされるだけだ。それも好かんとはいえ、とにかく戦争になったら徴兵制だ。いやでも鉄砲を持たされる。それはだれだっていやだろう。いやだったら大学へ行け。それも理科系の大学へ行け」
いくらおもしろおかしく話して聞かせてくれた軍隊話でも、父の気持ちの底には「おもしろおかしくもない」別の思いが厳然と存在していたのだろう。この気持ちはまったく動かしがたいものであったようだ。
そしてジージが、「技術系は苦手だから、文学系なら」と言うと、「うちはそんなところへ遊びにいかせる金はねえ!」と激怒し、手にしていた腕時計のバンドを引きちぎってしまうほどであった。同席していた母の言によると、「千切れたバンドが空を飛んでいったよ」という話。
べつに大学へ行きたいわけじゃなし、希望としては中学のときから汚れたつなぎ服と機械油の臭いが好きで、自動車の整備工になりたかったジージであったから、自動車整備学校が第一希望であったが、どうも高等数学や理科はねえ、という気持ちはあった。だが、父の「戦争へ行かせたくない」という気持ちは半端じゃなかった。やはり「おもしろ話」の奥には、話したくもない複雑な記憶が充満していたのである。
また、金なんかなくて、とても大学へ行くのは不可能、という我が家であったから、ムリヤリ行くにせよ、厳しい条件が付けられた。
「金がないから私学はダメ。浪人はダメ。絶対に理科系であること。医学系もダメ。この条件が満たせなかったら、看板屋の家業を継ぐこと」というのである。
ジージとしてはラストの条件が最も過酷に感じられた。看板屋は不況に弱く、俗にいう3K職業であった。おまけに絵とか字についての基本的な才能がないと、まともにつとまらない。絵はドヘタ。字はミミズか粘土版の矩形文字。体力ゼロ。いくら修行したって家業を背負うのは無理というものだ。
ジージは「20年ごとの戦争」という父の説を信じて、ついに「理科系国立大学進学」の方向を選んだのである。「行きたいのに行けない」のもつらいが「行きたくもないのに厳しい条件を付けられて、行くしかない」のもいささかつらい。
しかも、父は以上のように決定したその日から、ジージを仕事で引っ張りまわし始めた。朝飯前から夜中まで、勉強する間もないほど引っ張りまわしたのである。
恨んだなあ〜、もう。父の思惑は国立大学でも、我が家のすぐ近くにある某大学への進学にあったのである。ジージはすぐにそれを察知した。「おいおい、行く大学まで決められてるのかよ。それで勉強時間を与えないつもりだな、ニャロメ!」
参考書は立ち読みか古本屋。仕事がないときは、奇妙な勉強を強いられた。たぶん父の戦争体験はこんなことよりずっと厳しかったんだろうな、と思いつつ、いつのまにかジージは、地元の大学でないところを目指そうという気になっていったのである。
忠告・・・(入試の参考書として古本を選ぶべからず。ぜんぜん役に立たないから! いまもあるか知らないが、ラジオ講座がオススメだよ)
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2011年02月21日

父のおもしろ軍隊話・・・2(厠)2/2

昨日の続きである。映画で日本陸軍の厠を最初に見させてもらったのは、お笑いの名コンビ伴淳三郎と花菱アチャコ主演による「二等兵物語」であった。
流れは忘れたが、なにかの理由で少年が兵舎にかくまわれる。誰にも知られないように内緒にしておくため、厠に隠す。たしか伴淳三郎が食事をいっしょうけんめい運ぶ。少年は厠の中でまさに臭い飯(モッソウ飯)にかぶりつくのである。
さぞ臭かろうなあ、と思ったものだが、意外に陸軍系の映画では厠がよく出てくる。または、父直伝の解説というジージ特有の事情により、いっそう目に付きやすいだけだったのかもしれない。
ともあれ、古い記憶ゆえに、「二等兵物語」の厠でケツ拭き用の荒縄がぶら下がっていたかどうか、記憶は定かでない。
次に大々的に登場したのを見たのは、中村賀津夫と三国連太郎主演の「陸軍残酷物語」である。この映画は日本軍内部におけるいじめの残酷さをテーマにしている。
たしか初年兵が38式歩兵銃の撃鉄を盗まれてしまい、まず内務班の兵士全員で大掛かりな捜索をやらされる。徹底的にやるのだが見つからず、ついに探してないところは厠の便槽だけ、ということになる。
全員で便の掻い出し、そして紛失した初年兵ともうひとりがふんどし(股下)イッチョウになって便槽へ降りて手探りで探す。もう、見ているだけでイヤになる状況。で、ついにウ○コのなかから、撃鉄を探りあてるのである。
とまあ、こういういじめもあったんだろうなあと思わせるくらい、陸軍内務班のいじめは凄惨を極めた。ついでだから、いったいどんないじめがあったのかについて書いてあるブログを見つけたので以下に紹介しておく。

ケペル先生のブログ「陸軍内務班の制裁」

仲代達矢主演の「人間の条件」でも厠は出てくる。この映画は2回見たが、一回目は徹夜仕事の帰りにおにぎり持参で見たから、途中で眠ってしまい、中休みを含めた全10時間以上を、ちゃんと見通していない。
まあ原作を読んでいるし、それで辻褄を合わせればいいか、くらいのところでごまかしていたが、2回目は眠ってしまったうしろ半分を、CSでようやくちゃんと見ることができた。
厠がまともにでてくるのはシベリアの収容所におけるシーン。したがってイメージが日本陸軍のそれと少し違うかもしれない。それよりも、ジージは梶上等兵の戦友が脱走する場面がおおいに気になった。
「春になって雪が融けてシベリアを抜けやすくなるときを選んで・・・」とまあそういった考えで、雪解けの荒野に向かって戦友は走り出す。雪融けでべちゃべちゃの野原を、必死になって走り抜けていくのである。
で、ジージはそのとき思った。父の話によれば、その時期の隊舎の周辺は冬のあいだに積み重なったウ○コの山が融けだしていて、(父の話が大げさでなければ)雪解けのぬかるみかウ○コ融けのぬかるみか、というようなすさまじい状況になっていたのではないか、などなど。
そこを梶上等兵の戦友は、倒けつ転びつ走り抜けていったのである・・・としたら、それはまさに大いなる矛盾からの象徴的な脱出であったといえるのかもしれない。ちゃんと脱出できたかどうかについては、いまは差し置くとして。
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2011年02月20日

父のおもしろ軍隊話・・・2(厠)1/2

厠(かわや)、つまりトイレのことである。父の語ったことが一般にどこでも同じであったかどうかは定かでない。特に調べて確認する気が起こらなかったから、あえていまは父の所属した部隊の特殊な事情によるものかもしれない、としておく。
ともあれ、どこでもいっしょだと思うが、軍隊でもとくべつ厄介なのはトイレ(厠)である。いろんな映画や小説でも、そのような位置づけで話の小道具として使われることがしばしばある。それについては次回触れてみたいと思う。
とにかく父の話。「厠に入るのに紙は持っていかないんだ。どうするかっていうとだな」と、父が語ってくれたのは、幼いジージでも「うぇっ!」と目を剥いてしまうような、トンデモ事情であった。
「紙なんかおいてない。持っていかない。それで、やったあとどうするかというと、トイレの中に両端を壁に繋いだ太い荒縄がかかっているんだ。で、兵隊は用事を終えたらヨイショッとそれを跨いでケツの穴をごしごしこすりつける」
「それじゃあ、藁がお尻に刺さって痛いじゃん」というと、「そこをうまくやるのが兵士の心得だ」などと、いいかげんなことをいいながら、父は話を続けるのである。
「縄は汚れきるまでずっと使うから、まずまん中あたりが使えなくなってくる。それで、だんだん端っこにケツを持っていく。最後の方は、全体にこってりとウ○コだらけ。拭きにくいったらありゃしない」なんて言いながら、父はオシリをもぞもぞとやってみせる。聞いているものは大笑いである。
「ついに拭く場所がなくなる。そうすると、裏返して使う。もうどうしても拭くところがなくなると、次の荒縄に付け替えるっていうわけだ」
話を聞いた当時、衛生観念があまりなかった幼いジージでさえ、オシリが完全に拭ききれていないようで、なんだか奇妙な気色悪さを感じたものである。
1月26日付け「映画「網走番外地」からの連想」で書いた非衛生的入浴風景と重ねあわせると、父の軍隊生活がとんでもない衛生環境下にあったことがわかる。もちろん、最初に書いた通り、これがどこまで軍隊内の一般的な風潮でありえたかどうかは判らない。調べる気もないので、いまはこれを父の特殊個別の体験とあえて書いておく。
「で、溜まったものはどうするの?」と聞くと、「もちろん、おれたち初年兵が肥桶に汲み取って、捨てにいくんだ。隊舎の外はものすごく広い満州の野っ原だから、どこも捨て放題。冬なんか、寒くてあんまり遠くへ捨てにいけないので、隊の近くの野原へ捨ててくる。満州は寒いから、ウ○コがすぐに凍り付く。で、あっちこっちに凍ったウ○コの山ができてさ。冬はいいんだけれど、暖かくなってウ○コの山が融けだすと、風にのってくさい臭いが流れてきてたまったもんじゃなかったよ。行軍するときは、きちっと整列した兵隊たちが、ウ○コの山のあいだを、鼻をひん曲げながら、整然と進んでいったというわけだ」
聞いていて、軍隊というものはかなり臭いところであったのだと、ジージはつくづく思ったものである。そして、映画などで関連しそうな場面を見かけるたび、いつも父の思い出話を連想し、そのような場面に限って目を凝らして見てしまうクセのようなものが身についたのであった。
とまあ、そのあたりのことについては、次回まとめて触れてみたいと思う。軍隊映画に見られるトイレ風景などなど・・・。
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2011年02月19日

父のおもしろ軍隊話・・・1(立哨)

父はなぜか軍隊の日常生活について話すのが好きだった。その話しっぷりは「ドタバタ喜劇」さながら、聞いていると「わっはっは」と大笑いしてしまい、あとで考えてその内容の笑えなさに気づいて深く心に残る、そんな奇妙な話が多かった。
このブログでは行軍の先頭と最後尾の対比的な光景についてや網走刑務所と軍隊の入浴風景の相似などについてこれまで書いてきた。今度それらを一括して「父のおもしろ軍隊話」として書き綴ることにした次第。軍隊についての知識は父のおもしろ話以外にあらためて仕入れていないので、表現上あまり正確でないかもしれない。
というわけで、今回は「立哨」というものについてひとくさりしてみようと思う。広辞苑によると「立哨」とは「歩硝が一定の場所に立って監視すること」とある。父の話は満州(現中国東北部)の国境守備隊の門衛として立哨したときの思い出話である。
父いわく。「軍隊の門番だけど、これが厳しいんだ。立哨の場所に立ったら、ぴりっとも身動きしたらいけない。必要な動き、必要な言葉以外なにもしゃべったらイカン。丸太ん棒みたいに固まっていないとイカン。これがつらい。なかでもいちばんつらいのは冬の立哨だ。寒さが厳しい。足元から頭のてっぺんまでブルブル震えているのに平気な顔をしていないとイカン。で、冷えてくると、小便がしたくなる。でも、決まった時間が過ぎるまで、ぴりっとも動いたらイカン。膀胱は、いまにも破裂しそうなくらい、ぱんぱんにふくれあがる。がまんできなくって、額から油汗がタラア〜!」
聞いているジージたちも、どうすんのかな、と緊張してしまう。父はちゃんとジージたちの反応を見ていて、ここぞというところまで話を引っ張ると、「ついにがまんできなくなると、ええいままよ、やっちゃえ、というわけだ」「ええっ?」やっちゃうってどうするんだろう。目を剥いて父の顔を見上げると、「だしちゃうんだよ。目だけであたりをうかがって、ジャーッと出しちゃうわけだ」
なんと、漏らしちゃうというのである。父はそのときのことを思い出したのか、いかにもホッとしたような顔をしてみせる。「我慢したあとの小便の気持ちいいことったらない。で、小便はというとズボンの中を伝ってずっと下へ降りていって靴の中に溜まる。ちょっとのま、下半身がほかほかして暖かいんだけど、すぐに冷えてくる。一回やったらあとは同じだ。またジャーッ」
長靴みたいなのだからたっぷり溜まる。立哨が終わる頃には軍靴の中はおしっこがたまってぐちゃぐちゃになっているのだという。
立哨終了で「ホッ」。しかし、すぐに営舎には戻らない。交替後、大きな声で軍歌を歌いながら営舎を一周しなければならない。
「鉄砲を担いで足を高く挙げて軍歌を歌って一周するんだけど、軍靴のなかはオシッコだらけ。でも、グッチャグッチャ音をたてながら、心底ホッとしたもんだったなあ」
ジージたちは大笑いし、かつまたオシッコだらけの服と靴はどうしたんだろう、と心配したものだった。オシッコじゃじゃ漏れの立哨と風呂も満足に入れない不潔さと噛まずに丸呑みの玄米ご飯と、父の軍隊話はほんとうの悲惨さにはぜったいに触れなかったものの、あとで考えてみると、ひとつも笑える話ではなかったことに気づくのである。
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2011年01月06日

共同体の話

小学校3年生のときのことである。だから、いまからン十年くらい前の話である。
ジージは原因不明の病気になってしまい、41度近い熱が出て、ひと月、いやそれ以上の長期にわたって、学校を休んだ。熱に浮かされて、脱水症状を呈するほどいっぱい汗をかき、幻覚みたいな夢みたいな奇妙な状態が続いた。
しまいに全身が硬直し、関節を曲げようとすると、手も足も首も、指さえも激しく痛むほどになった。汗で濡れた下着を替えようとするのだが、関節はぜんぜん曲がらない。父が強引に曲げようとするが、棒のようになったまま、いまにもぽきんと折れそうな気配。痛い痛いとジージは悲鳴を上げた。
父母が交代で手足をマッサージし、なんとか痛みをこらえながら動けるようになって、ようやく医者へ連れていってもらい、「原因不明」で帰ってきた。注射してもらったのは、ただの栄養剤だったらしい。
七転八倒して時間が過ぎ、なんとか歩けるようになって久しぶりに学校へ行ってみて、あわててしまった。ひと月以上休んでいたのだから、勉強が見たこともないようなところまで進んでいて、特に算数なんかチンプンカンプンになっていたのだ。
まったく当時の授業は大雑把なもので、生徒が病気などで長期休学していても、ぜんぜん気にしない。先生はジージが寝込んでいるあいだ、一度も家庭訪問などしなかったのである。プリントもなしだから、どこまで授業が進んでいるのかも判らないまま。
親が家で勉強を教えてくれるわけでもなし、それから数ヶ月ほどは、授業を理解できるようになるまで、ジージはひたすらぽけっとしていたものだった。
さて、ずっとのちに知ったことだが、おなじころ東京の看板屋の娘さんが、家が貧しいことを悲観して自殺した、と新聞に出ていたらしい。まだ全国的に雨後のタケノコのごとくにょきにょきと映画館ができていく時代ではなかったのだろう。
看板屋の仕事がどれほど厳しかったか、それも首都圏においては戦後の復興期も終盤を迎え、貧富の格差が地方よりもはるかに大きいかたちで進行していたのかもしれない。そして、ジージの知るかぎりにおいて、看板屋というのは服はもちろん顔も手足も頭も絵の具だらけになり、こぎれいな一般人から見るとかなり汚れた格好でいることが多かった。
東京の看板屋の娘さんの本当の心境は判らないけれど、ジージ的感触としても、恥じはしなかったが、どこかよその家と違うところがあるのを否定はできなかった。
父は酒や博打をやるでもなく、仕事一筋に一生懸命働いたし、人におもねらず、息子から見ても真っ正直すぎて大丈夫かなと思うくらいの生き方をした人である。母もそんな父を是とし、一生懸命生きたと記憶する。
しかし、あるときを境にして、ジージたち家族は近隣の人たちから爪弾きされてしまい、またさらに親類縁者からも遠ざけられてしまい、まるで「広場の孤独」を地でいくような状態に落ち込んでしまったのである。
ジージは3人きょうだいの長男であったが、その心理的影響は間違いなくきょうだい3人を直撃した。心の奥に、生涯消し難い痕跡を残した。
そのときの衝撃が、原因不明の高熱をもたらしたのだろう。自分の家すら他人の家のように感じ、ここに居ていいんだろうか、ここにいるのはなにかの間違いじゃなかろうか、などと、幻覚にさいなまれながら、うわごとを呟き続けたのである。
いま結論として考える。貧しくてもかまわない。みんな貧しければ助け合えるのかもしれない。いや、みんなが等しく貧しくなくてもいい。他を排除しない共同体があれば、生きるのに最低必要な安心が得られる。41度の熱に苦しめられなくて済む。心理的な後遺症を抱え込まずに済む。そんなふうにいまは思うのである。
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2010年12月28日

季節の変遷、時の変遷

新聞に、昔の東京はすごく寒かったらしい、と書いてあった。そして思い出した。
ジージの地方は太平洋岸に沿った温暖なところで、雪はほとんど降らなかったし、降っても積もることはなかった。一度だけ積もった雪も、すぐに融けてしまったものだった。
それでも、池や水たまりに氷が張り、台所の洗面器にも氷が張る。むき出しの地面には霜柱が立つ。ときには濡れタオルが棒になる。その程度の寒さはあった。
新聞では、それも昔の話でいまは遠い記憶の中のことになった、といったような内容が書いてあった。ジージは故郷へだいぶ長いこと帰っていない。だから、いまの故郷の寒さがどれほどのものか、見当もつかない。
しかしこの新聞記事にあることから推測すると、かなり暖かくなり、濡れタオルの棒ができることなんかなくなっているだろう、と思う。室内の気密性がよくなり、暖房器具が発達し、洗面器の氷もできないだろう。
そういえばあの頃の冬の暖房器具と言えば、火鉢であったなあ、と思い出す。練炭をひとつ入れて、仕事場と居間の境目にデンと置いていたものだ。
以前ブログで書いた「洗面器の中の魚のアラ煮」は、この火鉢の練炭の上に鎮座ましましていて、家族は食べたくなったときが食べどきで、自由につまんでいた。ときにはそれに白菜をぶち込んで、洗面器のまま食卓に運び、家族の腹を満たすこともあった。
父は残った骨を火であぶり、ぽりぽりと食べるのが好きであった。ジージも真似てよく食べたものだった。
仕事場は土間なので、あまりに寒いときや描いた看板の乾きを早くしたいときなどは、七輪を置いた。壊れた看板の端材などを薪代わりに使ったものだ。
看板の乾きが遅いときは新聞紙を燃やして看板の表面をなで回し、強引に乾かした。火事になるんじゃないかと心配になるくらい乱暴なやり方だった。
さて、そんなに寒い冬であったのにも関わらず、靴下を履き始めたのはいつからだっただろうか。特に記憶なし。
たぶん、ジージの周囲のもの達も、よほど良家のご子息でもないかぎり、お靴下なんて軟弱なものお履きになってなんぞいなかったのではないか。
鼻水をたらし、手にも足にもでっかいアカギレをこしらえて、裸足のズック靴で風の中を走り回っていたような気がする。その後、事情があってご近所や親戚との関係が切れてしまい、残念ながら世間の変化を記憶で追いかけることは出来にくくなったが、そのあいだに、冬の風物詩は大きな変化を遂げていたのだった。
18歳で家を出て、関西へやってきたときには、ジージはある種ロビンソンクルーソーの気分ですらあった。見るもの聞くもの、触るもの食べるもの、なにもかも初めてズクメのものだらけで、変化し尽くした世間を目の前にして、アップアップするばかりであったのだった。
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2010年10月07日

弾の来ないところにいれば戦争もいいもの?

父に聞いたことがある。「映画に出てくる日本兵やドイツ兵はすごく間抜けに見えるけれど、ほんとうなの」とまあ、ジージはすごく正直なので、映画で見た通りのことが現実だと信じていたのであった。
父いわく。「ありゃあ、嘘っぱち。その証拠に、戦争中の日本映画に出てきたアメリカ兵なんか、酒呑んで酔っぱらって、だらしなくて、こんな奴らと戦争して負けるわけないって、みんな思ったものなんだから」
なるほど、ジージは一発で納得した。「みんな嘘だったんだ。あやうく信じてしまうところだった」というわけで、日本兵だってドイツ兵だって強かったのだと理解した。
でも、強かったのなら、どうして負けたのかしら。新しい疑問が生まれたとき、小学校の授業で担任の女先生が教えてくれた。先生はこう言ったものだ。
「日本は戦争に負けました。でも、弱かったから負けたのではありません。日本はほんとうは強かったけれど、物量に負けたのです。工業力や資源が少なかった一方で、アメリカは船や飛行機がひとつ壊されても、すぐそれの10倍も20倍もたくさんの船や飛行機をつくって攻撃してきました。残念ながら、日本はその物量に負けてしまいました」
ジージは父と先生の話を合わせて、なんとなく「そうなのか」と思ったのだった。でも、その次の段階として、当然のごとくまた別の疑問が湧いてきたのだった。
10倍も20倍も物量が多かったのなら、11倍も21倍もやっつけたら勝てたのかな。それだったら、アメリカはものすごく人が死んだり、船や飛行機が壊れたりしたのか。アメリカもたいへんだったんだ。
で、調べると、アメリカの人口は日本よりもずっと多いとわかった。あ、そうか、人間も物資のうちにはいるのか。と判って、なんとなく虚しい気分になった。なにしろ、この自分という存在が、ただの物資のひとつに過ぎないと判ったのだから。
さらにジージは父や先生の言葉を踏まえて、世界地図でどこを占領したら日本も物資豊富な国になっていたか、いっしょうけんめい調べた。「あの国とこの国を占領して・・・」
そしてまた、自分が物資のひとつであることを思い出し、いっそう虚しい気分になってしまった。戦争で真っ先にやられたら、「勝った勝った」と喜べないじゃないか。喜べないではツマラナイじゃないか。
「英雄とか英霊とかいうのになれるんだ」「でも、死んじゃってるよ。ぼくより他の人が死ぬならいいけど」「そんなわけにゃいかない。鉄砲の弾は人を選んでくれないからね」
というのは、休み時間での、クラスの友人との会話であった。会話しているうちに、弾にあたっても死なない服を考えたが、たぶん敵はそんな服でも突き抜ける弾をつくるだろうな、と思い、虚しいぐるぐる回りに嫌気がさしてしまった。
いったい戦争って、だれのためになるのか、わからなかった。じっと考えていて、「そうか、自分は戦争に行かなくて、弾の届かないずっとうしろから、ヤッチマエと叫ぶ役をしていればいいんだ」とわかった。
歳を食うにつれて、その考えもまた、虚しいものだなあと思うようになっていくのだが。
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2010年09月28日

庶民の浅知恵「兵役逃れ」

父は12人兄姉弟妹の次男坊であった。長男は兵役を免れていたから、家族の中で最初の兵士であったらしい。他にも何人か弟たちはいたが、病弱であるとか養子にいくとか様々な理由をくっつけて、結局みんな兵役を逃れてしまった。
当時、一般に兵役を逃れる方法はほかにもたくさんあったようだ。たとえば兵役検査のときにコップ一杯の醤油を飲んで、息をつめて学校のグラウンドを全力で一周すると、ものすごく気持ちが悪くなって、顔色真っ青、心臓ムチャクチャ、息も絶え絶えになる。
それがあたかも肺に疾患があるかのように見える、と誰かが発見して、さかんにそんなことをやったものたちがいたらしい。さすがに父の時代にはそんな姑息な手は影を潜めていたとかいないとか。それでも兵役逃れの方法は多種多様にあったようである。
たとえば映画「戦争と人間」のなかで五代家の長男殿は、兵役に着いた様子もなく、ふかふかのソファにどっかと座って、ワイングラスなんかを片手に、天下国家をニタニタしながら語っていたようだが・・・。
というわけで、父の一家では男が(たしか)4人ほどいたはずだが、兵隊にとられたのは父一人であった。そんなことがあって、父はながいこと親類縁者のあいだで「ヘータイ」と呼ばれていた。あ、もしかしたら、その呼称から推測すると、親類縁者の中でも兵役にとられたのはそれほど多くなかったということになりそうである。
以前にも書いたが、人口1500人ほどの町内で父と魚屋の親父(ジージの友人の父親)よりほか、はっきりと戦地へ送られた「ヘータイ」はいないようだし、くわしいことはわからないが、国民皆兵とはいいながら、庶民はあの手この手で兵役逃れを画策していたようである。
父の場合にもどると、父が兵隊にとられたあと、結婚したばかりの母の元に兄姉弟妹が続々とやってきたという。なんのためにかと言うと、兵隊にとられたら即戦死するものと解釈し、まだ戦地へ行ってもいないのに、遺品わけということで、衣類その他のものをどんどん持っていってしまったというからすさまじい。
なけなしの貯金までかすめ取られ、それで長男は家を新築してしまう。兵役を終えて父がもどってきたとき、家の中にはほとんどなにもなかったということである。父は真冬なのに着るものがなく、残っていたワイシャツを重ね着して寒さをしのいだ。
庶民にとっての戦争の一側面である。父の兄姉弟妹たちはそれでも、戦争たけなわになっていくにつれて、すました顔をして日の丸の旗を振って、幾多の兵士たちを地獄の戦場へ送り出したのである。
しかしこういった人たちの存在は、特別のものであったとは、ジージには思えないのである。おそらく、この国のいろんなところで見られたものなのだと思う。
けっきょく戦争は、ワリを食うものたちの犠牲によって成り立っていたのだと思う。旧弊な家制度の中では、次男以下の不要な男子を兵士として供出し、残りは家を守るために温存していたのではないか。
御上には逆らわないが、姑息な抜け道を利用しておいしい残りかすを食らう。それが庶民的な観念からする、利口者のやり口であったというわけだ。戦火が空襲というかたちで身近に及ぶまでは、それでよかったわけであるが・・・。ニーメラー牧師の言葉が、いまさらのように思い浮かぶ。
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2010年09月07日

銅像たちの行方

戦後、進駐軍がやってきてすぐの頃だったという。父の話からすると、昭和21年ではなかったかと思う。
ジージの住む都市で、ある人が「飛来米飛行士の碑」というものを建設しようと募金を始めたという。台座は市域の主要なところにある大楠公とか二宮金次郎のものを使用する。銅像のご当人たちは戦争中に鉄砲や大砲の弾やらになって出かけたまま帰ってこないから、台座は空っぽの状態。だからちょうどいいじゃないか、というのである。
進駐軍に掛け合ったり、市の有力者に呼びかけたりして、かなり盛大に運動を展開したのだそうな。その結果はというと、父が吐き捨てるように言ったので、つまびらかに聞かなくてもわかった。慰霊碑建設運動は失敗したのである。
父の言うことには、まず第1に戦後すぐでみんな生きるのに必死なときにビタ一文だせるもんか、というのであった。そして第2に、ついこのあいだまで鬼畜米英で凝り固まっていたのになにが慰霊碑だ、そんなに簡単にころころ目先を変えられるか、というわけで、そっぽを向かれたのだという。
後で総合して考えるに、その気持ちはべつに国家への忠誠がさせたのでもなさそうであった。それよりもっと直接的に、家を焼かれ、家族を殺され、自らも負傷したりして散々な目にあったことが気持ちの根底にあったように思われた。
某民間人の変わり身の速さは、マッハ級の超スピードであったのだろう。いくら庶民が無類の小器用さを持ち合わせていても、その速さに追いつくのは至難のワザだったと言うわけだ。
もしかしたら彼は、心が折れてしまうほどの被害を運良く被らなかった人なのかもしれない。それとも、戦中も知恵をくるくると働かせ、おいしいところだけつまみ食いしながら生きたのかも・・・まあ、それはみんな、推測の域をでないことではあるが。
気がつけば、市内のあちこちに主のいない台座がデデンと建っていたのを思いだす。みんな戦争で物資が欠乏してきたとき、台座から取り払われ、戦争の道具につくり直され、戦場でぶっ壊れていったのである。
そういえば、お寺の鐘つき堂も肝心の鐘のないところが多かった。逆にいえば、しっかりと残っていたお寺の場合どういう経過で残すことができたのか、ジージにはさっぱり見当もつかなかった。
小学校の場合は、ある日とつぜん裏庭の目立たない場所に、あの有名な枝の束を担いで歩きながら本を読んでいる二宮金次郎の勇姿が出現したのだが、それがどういう理由で鉄砲の弾になるのを免れたのか、いまでは真相を確かめるすべもない。
そういえばもうひとつ奇妙な記憶がある。当時のジージの町内総人口はおよそ1000人であった。大人がどのくらい居たのかは知らないが、不思議なことに兵士として軍隊にとられたものは海軍志願兵一人、陸軍応召兵一人しか居なかった。それほど戦死者が多かったということか、それとも、いろんな理由をくっつけて兵役を免れたか・・・。
海軍志願兵はジージの同級生の父親。陸軍応召兵はジージの父であった。そんなわけで、ふたりはなぜかお互いを特別の目で見、尊敬しあっていたような気がする。死線を越えたもの同士として・・・。
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2010年09月03日

心ならずも軍歌を歌う

聞け万国の労働者      アムール川の流血や     万朶の桜か襟の色
轟き渡るメーデーの     氷りて恨結びけむ      花は吉野に嵐吹く
示威者に起こる足取りと   二十世紀の東洋は      大和男子と生まれなば
未来を告ぐる鬨の声     怪雲空にはびこりつ     散兵線の花と散れ

汝の部署を抛棄せよ     滿清既に力盡き       尺余の銃は武器ならず
汝の価値に目醒むべし    末は魯縞も穿ち得で     寸余の剣何かせん
全一日の休業は       仰ぐは獨り日東の      知らずやここに二千年
社会の虚偽をうつものぞ   名も香んばしき秋津洲    鍛えきたえし大和魂

<聞け万国の労働者>    <アムール川の流血や>   <歩兵の本領>

作詩:大場勇        作詞:塩田 環       作詞:加藤明勝
作曲:栗林宇一(3曲ともおなじ)

3つの歌詞を並べてみたのは、いうまでもない。これがみんな同じ作曲者による歌であることを示したかったからだ。元の歌はまん中の「アムール川の流血や」というもので、明治三十四年二月に作られた一高東寮寮歌だったらしい。
それがのちにひとつは軍歌として、もうひとつは労働歌として発展していったのだから、ある意味、歴史というものはおもしろい。
今度この歌を引用したのは、「海ゆかば」を書いたあと、「沖縄戦に生き残る」で紹介した人物のエピソードを思い出したからだ。
「沖縄戦に生き残る」の主人公は全評の活動家だった。治安維持法に引っかかって投獄された経歴を持ち、出獄後しばらくして召集によって入隊。特攻艇基地の要員として沖縄に送られる。
その後の経過は当ブログ「『神聖喜劇』と『沖縄戦に生き残る』 4」に詳しいので省くが、いま書くのは、彼が特攻基地設営に明け暮れていたとき、作業終了後の景気づけのために全員で軍歌を歌わされた際のエピソードのことである。
夕刻、輪になって大声で軍歌を歌わされる。「声が小さい。もっとでかい声で歌え」と怒鳴られて、ムチャクチャ声を張り上げる。そして、「次、万朶(ばんだ)の桜」と号令があって、歌い始める。
そのとき歌声は耳を聾するばかりになっており、となりで歌っているものの声なんぞ、意味もなにもわからなくなっている。そこで我が敬愛する主人公は負けじとばかりに大声を張り上げるのである。
「万朶(ばんだ)の桜か襟の色」「聞け万国の労働者」「花は吉野に嵐吹く」「轟きわたるメーデーの」「大和男子と生まれなば」「示威者に起こる足取りと」「散兵線の花と散れ」「未来を告ぐる鬨の声」
2番の歌詞などは、軍隊のまっただ中で歌うなんて、ある意味、感動ものである。いや、さらにうしろのほうには「赤旗」なんて言葉も出てくる。こうなると痛快であり、また万感胸に迫ってくるものがあると言うべきか。
当ブログ7月18日「おもしろい歌を見つけた」の「心ならずも「君が代」を歌わざるを得ない状況に置かれた人のための歌」に似た抵抗であるといえる。「沖縄戦に生き残る」の主人公もまた、こうして抵抗の意志を燃やし続け、不戦を貫き、ついに兵士を煽動して集団投降の道を選んでいく。
分断され、孤立していっても、抵抗の意志の燃やし方は工夫次第でまだいくらでもある、ということを教えてくれているようである。また、ジージの父の思い出のように、末端の兵士たちは「みずくばかね」のなかに、彼らの切実な思いを隠していたし、そのようなものたちがたくさんいたことを知ることができるのである。
庶民の抵抗、まことに恐るべし!
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2010年09月01日

海ゆかば

父が歌ってくれたことがある。「これはいい歌だぞ」と言うのである。まずは正調で浪々と、「うみゆかば、みずくかばね やまゆかば、くさむすかばね」
幼いジージには意味がよくわからなかった。父は歌い終わって続けたものだ。「これは元歌。でもな、兵隊たちは内緒でこんなふうに歌っていたんだ」
そして、「うみゆかば、みずくばかね やまゆかば、くさむすばかね」ジージは首をかしげた。なんか違うじゃないか、と。
父はしみじみ説明してくれた。「お国のために、いっしょうけんめいに戦って、海でも山でもいっぱい兵隊が死んじまった。でも、お国ってのは、英霊というお札をくっつけただけで、なんにもしてくれんかった。それで、いまも海や山に、死んだ兵隊のシカバネが野ざらし雨ざらしになって転がってる。だから彼らは骨になって、アー、ばかみたなあと嘆いてる。そういう歌だ」
いま思えばとんでもない解釈である。でも、父は大まじめだった。半分本気であるように見て取れた。なんじゃそりゃ、とジージは思いつつ、でも、この歌には怨念が詰まっているように感じ、そんな雰囲気のほうが似合っているかもしれない、とも思った。
戦後65年経った現在でも、野や山に、また海の底に、いまだ100万人以上の遺骨が眠り続けている。硫黄島には自衛隊の基地があるというのに、同島で戦死した約2万2千人のうち、収集できた遺骨はおよそ4割に過ぎないという(・・・これは幼いジージが知ったのではなく、いまのジージが見聞きしたことなのであるが)。
戦死した兵士を英霊として敬う。でも、敬っているのは戦死した本人たちなのか、それとも、なにか別のものなのか?
戦死した本人たちを敬うのなら、彼らがちゃんと祖国の地に安住できるように、できるかぎり遺骨を集めることが、残されたものの務めじゃないか。それが、「2度と戦争をしません。あなたたちと同じ運命を、のちの世の人々に背負わせません」という誓いになるんじゃないのか。
空っぽの骨箱を抱いた行列が延々と続くそのむなしさ。なにかしら、死んでのちも「お国のために」という役割を担わされ続ける「英霊」の姿を見るようで、悲しみがいっそう胸に迫ってくるのである。
ちなみに父は、その他の歌もトンデモ解釈をして歌って聞かせてくれた。たとえば、はっきり覚えていないが「興亡山河風荒れて」とかいう歌詞のある歌を浪々と歌って、まことしやかな解説をしてくれたものである。
「弘法さんという偉いお坊さんがいてな。そいつが普段なら厳しい修行を積んで、風邪なんか引くわけなかったんだが、つい油断したんだな。風邪を引いちまって、喉ががらがらに荒れてしまってさ」
ジージはそれについては、はなから「ほんとうかなあ?」と首を傾げたものだった。

父は本気だか冗談だか判らないような言葉にまぎれて、いろんなことを語ってくれた。いま思えばそれが、ジージの骨身にわけいって血肉になっているような気がするのである。すごくありがたいような、ちょびっとありがた迷惑であるような・・・。
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2010年08月30日

弁当の思い出

このあいだ、学生服の思い出について、ちょこっと書いた。そんな時代があったなあということではあるが、もうひとつついでに思い出したのが弁当のことだ。
ジージがなにを持っていったのかは詳しくは覚えていない。小学校は09年9月16日の当ブログで「とつぜんですが、学校給食の思い出」で書かれているように給食だった。弁当になったのは中学からであったか・・・。
ジージの場合、うっすら覚えているのは、ドカ弁に醤油をかけた鰹節をまぶし、ニワトリを飼っていたので運がいいと目玉焼きをのせたものが単調に・・・そうだ、中学高校と計6年間続いた、と記憶している。
ほかの奴らのがどんなだったか、まるで覚えていない。記憶に残っているのは、特に女の子で多かったのだが、食べるときふたをちょろっと開けて、隠しながら食べる子が多かったことだ。
当時は、なんでそんなことをするのか、わからなかった。最近、マイ奥さんに聞いてなんとなく、「そうか」と思った。マイ奥さんは毎回決まってキャベツのいためたのにカツオ節をかけた一品のみだったそうだ。
「それで、やっぱり、隠して食べたの」と聞くと「うん」という返事。そうか、なるほどな、と思ったものである。
ジージの弁当に、若干でも変奏曲はなかったのかなあと思うのだが、鰹節ときどき目玉焼き以外は覚えていない。記憶というものは、こういうふうに年月とともに曖昧になっていく。
アルマイト(ようするにアルミニウム整形した)弁当箱の真ん中が梅干しで腐食する。その腐食痕が我が家のやつにもあったから、せいぜいカツオ節を醤油でかき回して、てっぺんに梅干しをのせたものだったのではあるまいか。
なにしろ、ジージの好物のなかに、いまでもカツオ節の醤油かけが厳然としてあるのだから、まちがいないだろう。ニワトリを飼っていたことがあり、朝の産卵事情によっては目玉焼きが加わったわけで・・・。
マイ奥さんの幼少時の弁当箱はいまも我が家に残っている。アルマイトのふたの裏側に、梅干しによる腐食痕がある。
かわいいこけしが印刷されていて、べこべこになってはいるが、まだ使おうと思えば使えないことはない。結婚するとき、彼女はこれをだいじに持ってきたのである。それを見ると幼少時の彼女の姿が思い浮かび、ジージとしてはなんとなくほのぼのとしたものを感じたりするのである。
しかし、心して思い出しておきたい。学校給食がはじまるまでは、弁当を持ってこられなかった子どもがいたということ。遠足の時なども、なにも持っていけないが故に休んでしまう子もいたと言うこと。
たしかに、そういう時代であったのだと思う。それを忘れてはいけないのだと思うのである。
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2010年08月21日

学生服の思い出

まず、「帰國」で書き忘れたこと少々・・・戦争を遂行した責任者たちのなかで、戦後も政財界で大物ぶった顔をして生きた奴らがいたはずだが、彼らについてはまるで触れていなかった。この国の上層部は戦争を経過しても、ほとんど変わらなかったということ、次になにかあっても、そんな奴らを決して許さないという意思表示が欲しかった。惜しいなあ!

というわけで、本日のお題は・・・。

ジージの小学生時代、そのころ男の子はだいたい小学生用の学生服着用が普通だった。べつに学生服に統一されていたわけではない。服装は自由であったのだが、それのほうがなにかと楽であったから、ほぼどこの家でも学生服にしていたのだと記憶する。
小学校時代全期間を学生服で過ごすことを目標に、親はまずはじめダブダブの服を調達する。つまり最初に予測して、およそ3年後くらいの我が子の背丈に合わせて服を用意するのである。
当然のことながら、成長するにつれて丈も幅も短くなっていく。へそが出る、袖から肘が突き出る。成長の早いやつは特に悲惨な状態に陥っていく。
胴回りや袖は継ぎ足しで済ませる。だが、肩は親の裁縫の技量が不足するためそのまま放置されるのが多く、4年5年となると、肩幅はキュッと詰まり、首がきつくなり、ボタンがとめられず、全部はずしっぱなしか、とれたまま放置されることになるのである。
へそ丸出しであるとか、袖口が肘近くにまで迫っているとか、ボタンがすっ飛んでしまっているとか、長ズボンが半ズボンになっているとか、そのような風俗が一般であった。男の子のなかには、そこまでして着ていることを自慢するやつらもあった。
中学になると学生服のかたちが変わるので、どこの親も「あと少しだ。がんばれ、がまんしろ」などと我が子を必死に励ました。
だが、子供は容赦なく大きくなっていく。服はぜったいにあわなくなる。乱暴に着ていれば当然あちこちすり切れてくるし、穴が空くし、色あせもする。肘、膝、袖、背中の合わせ目、ズボンの裾、どこもかしこも継ぎ足したりツギをあてたりしながら、強引に着せ続ける。いま考えるとどこの家も、まったく涙ぐましいことをしていたものであった。

男の子の場合は親もかなり乱暴でよかったのだが、女の子はそういうわけにはいかなかった。それともジージたちは、そういう細やかな気持ちを持ち合わせていなくて、気がつかなかっただけなのか。詳しいことはよくわからない。
とにかく、女の子たちはわりと自由であったように記憶している。中学になって、女の子も基本的に制服になる。そのときまで、ジージはそのようなことはまるっきり気にしないでのほほんと過ごしたのである。
中学2年のとき、女の子でひとりだけ色が違う制服を着ている子がいた。初めどこかからの転校生かと思っていたのだが、しばらくしてそうではないことを知った。
彼女の制服は、まちがいなく我が中学の制服であったのだが、いろんな所をたらい回しされているあいだに、色がすっかり落ち、濃紺であるはずがうす灰色に変色し、徹底的に古くなっていたのだ。
そのような古さの服は、さすがに彼女よりほか着ているものはなかったが、ほんとうの心の内はいざ知らず、彼女は毎日しっかり胸を張ってそれを着て登校してきた。
彼女の周囲にあったのは、清潔でシワひとつない、まさに清純そのものを象徴する制服の群れであった。青春映画花盛りの頃であったから、どの映画の中でもぱりっとした制服の清楚な女学生たちが、溌剌とした笑顔をふりまいていた。
彼女はその制服を、どんな気持ちで親から受け取ったことだろう。いま思うと、彼女の心が滲みてきて、ジージの胸はちくちくした痛みを感じるのである・・・。
posted by ガンコジージ at 09:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする